第66話:御使の記憶ー4

 深く椅子に腰掛けて、ただ目を閉じているだけのようにフラウは眠っていた。

 そこから何の前触れもなくふっと意識が戻り、闇を突き通すかのように瞼が上がる。


 部屋の中は真っ暗で、外からの明かりも全く入ってきていない。すっかり夜になってしまったらしい。

 それでもここが、首都から連れて来られた部屋であることくらいは見てとれた。


 夢──を見ていたようね。


 多くの夢がそうであるように、今まで見ていた景色は急速に脳裏から遠のいていった。

 はっきり、こうだと思えていたニヒテやネファの顔も、ぼんやりとした霞の向こうに沈んでいく。


 いっそお芝居のヒロインのように「私があの人を殺してしまった!」などと肩を震わせて、慟哭と共に狂ってしまえれば楽なのかもしれない。


 しかしフラウには、そこに罪の意識があるのかないのか、自分にとってどれほどの重さを持っているのかさえ分からない。


 つまりは、どうでも良かった。


 ──それにしても、クラートを始めとした大人たち。それとあの新しく来た監督者の男。

 すっかり顔を忘れていて、何なら存在したことさえも忘れかけていた。


 久しぶりに思い出したわね。


「思い出したくもないけど」


 そう口に出してみて気づいた。いや、違うと。

 フラウはあの頃のことを、あの子どもたちを大人たちを、あの男のことを寸分も忘れてなどいない。


 ただ単に、そこに糞でも落ちているかのように目を背けているだけだ。そうでないとしたら、蓋をしているだけだ。

 その証拠に、夢に見ることで意識してしまったあの男の顔が、どれだけ無視しようとしても視界の中に舞い戻ってくる。


 発したくなった言葉が、いくつか喉を衝いた。しかしそれは、フラウの言葉ではない。


 違う。私はそんなこと、思ってない。


 皮肉にもそうやって否定すればするほど、フラウは現実を噛みしめる結果となった。

 卑しく、高圧的で、高慢を絵に描いたような男の顔。あの男は、今もフラウを縛っている。


 顔も体形もはっきりしていない、それでも子どもだと分かる真っ黒い影。まるで操り人形のようなそれを、あの男はフラウへと送り出している。


 違う、これは幻。本当のことじゃない。


 そう思った途端、閉じた瞼の裏にまであの男の顔が浮かんだ。その周りに、フラウの死なせた子どもたちが群れをなしてこちらを見ている。


 どの顔にも感情がない。うっすらと笑っているようには見えるが、木彫りの面であるかのように感情が見えなかった。


 吐き気がして、湧き上がってきた物を一度、押し留める。それから自分の首を絞めて、自分の意志で吐き出した。

 口の端に滴る液体を手首で拭って、フラウは椅子から立ち上がった。


 ああ、もう。ああ、本当に。


「面倒臭い」


 幻でも何でもいいわ。何か気に入らないなら、私がここに居て悪いなら、さっさと殺せばいいじゃない。


 どこまでを叫んで、どこまでを念じたのか、もはや区別がつかなかった。


 またあの男の顔が笑う。嘲笑という言葉の、これほど似合う人間が居るものだろうか。

 急速に力が抜けていって、フラウは床に膝をついた。


 また喉の奥から吐き気がして、今度は止められなかった。水気ばかりが音を立てて、服と床を濡らしていく。


 それも止むと、絶え絶えになったフラウ自身の呼吸音しか聞こえなくなった。

 久しく思い出すこともしなかったあの男の名前が、フラウの口を衝く。


「ブラム……」


 胃液をも出し尽くしたのに、フラウの肉体はなお、異物を吐き出そうとした。その肉体的な苦しさのせいか、フラウの目に一雫の涙が浮かぶ。


 吐瀉物に塗れた床に突っ伏して、フラウは朦朧となりながら呻いた。


「誰か……助けて……」


 フラウの意識は、暗い場所へと落ちていった。

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