第36話:宿の前

 次の日の早朝。フラウが泊っている宿の前に着くと、ワシツ家のエコリアが既に止まっていた。

 ワシツ将軍は貴族ではないので、家紋はない。その代わりに、旗に付けられる将紋しょうもんが控えめに描かれている。


 剣と、斧と、こん棒と、弓? 何でもありみたいな図案だな。


 たぶんどこかでこの紋を見たことはあるのだろうけれど、ワシツ将軍のそれと知らなかった。だから初めて見るも同然の印象だった。


「アビスさま、お早いお越しですね。約束の時間にはまだありますが、大丈夫でしたか?」

「お待たせしたらいけないと思って。でもそちらのほうがもっと早かったですね」


 こんな時間だというのに、アンさんはいつもと変わらない凛々しさだ。ワシツ夫人も凛々しいが、失礼ながら年の功というか、砕けた雰囲気もある。


 それと比べてアンさんは、いい意味での緊張感がいつもそこにあった。

 そのアンさんに並んでもう一人、侍女っぽい格好の人が立っていた。ワシツ邸では見た覚えがない。


「ユーニア家から遣わされました、セクサと申します。お見知りおきを」

「ユーニア家――ということは、フラウの?」

「左様にございます。しばらくの間、身の周りのお世話をさせていただきます」


 ボクよりも十くらい年上かな? 真面目そうな人だ。


 そういえば襲われた時に亡くなった中には、メイドさんらしき人は居たけど、侍女っぽい人は居なかった。あれはユーニア家から来てもらったのではなく、フラウが自分で雇っていた人ということだろうか。


 そんなことが頭を過ったが、そこに何か問題があるわけでもない。ボクもすぐに名乗って「道中よろしくお願いします」と挨拶した。


「もちろんです。フラウさまからは、あなたのお世話もするように言いつかっております」

「えっ? いや、そういう意味では。同じエコリアに乗っていくので、よろしくと言っただけなんですが」

「まあまあ、ご遠慮は無用でございます」


 言葉は丁寧だが、押しは強かった。その雰囲気に負けて「そうですかありがとうございます」と言ってしまった。


「ユーニア家からは、何人来てらっしゃるんですか?」


 ふと気付いて、聞いてみた。


「今のところ、私だけでございます。どうして他にも居ると?」

「侍女として来たのがセクサさんだけなら、フラウから離れることはないのかと思ったので」

「そういうことでございますか。フラウさまの出発の用意は出来ているのですが、いささか荷物が増えまして、私よりもワシツ家から来てくださっている護衛の方のほうが役に立つと」


 ううん。それは合理的な話だけれど、何だかセクサさんの立場がない気がする。


「運び出す間に、私は道中についてアンさまと打ち合わせをするように言われましたので、ここに」


 なるほどそれなら適材適所というか、それぞれ役割があっていい感じだ。フラウがボクみたいに、そんなどうでもいいことにまで気を配ったかは知らないが、自然にそうしているのならそれもまた才能というものだろう。


「ああ、それは大事ですね。良かったです」

「良かった?」

「あ、いえ。こちらのことです」


 しかし打ち合わせといっても、ジューニまでは主要な街道だけを使って行くことが出来る。わざわざ寄り道をする必要もなく、どこで休憩するか、どこで宿泊するかを調整するだけで済むはずだ。


 聞けばやはりそうだったようで、ちょうどそれを終えたところだったらしい。


「おや、いらっしゃったようですね」


 アンさんが言うと宿の扉が中から開けられ、男の人が二人と女性が一人、それぞれ大きな鞄を持っている。その後ろからフラウが姿を見せた。


「待たせてごめんなさい」


 また新しいドレスだった。やはり黒だが、青っぽい艶が見える不思議な色合いだった。でも、初めて見たドレスだとか色だとかはさておいて、とりあえず言えることは一つ。

 とても綺麗だった。


「――そんなに腹を立てているの?」

「えっ?」

「むっつりと黙っているから」


 自分では一瞬のつもりだったが、実際にはそうではなかったらしい。ボクよりも少しだけ背の低いフラウが、不思議そうに見上げている。

 それがまた綺麗で可愛い。


「フラウさま。アビスさまは新しいドレスに見蕩れていらっしゃるようですよ」

「あらそうなの? 貰い物とはいっても、ドレスを褒めてもらえるなら嬉しいわね」

「いえ、ドレスじゃなく、フラウが綺麗だなと」


 セクサさんの言う通り、ボクは見蕩れてしまっていたらしい。ぼんやりした意識で、考えていたことをそのまま言ってしまった。


 あれ、今ボクは何を言った――?


 と気付いた時には、アンさんもセクサさんも、護衛の男性陣も、もう一人の女性まで、全員が「まあ」という顔でボクを見ていた。


「ありがとう。お礼にキスをしたほうがいいのかしら」

「きっ!?」


 覚めかけていた頭が、今度は沸騰しそうになった。

 親しい間では頬へのキスが当たり前の貴族ではないのだ。女性と交際した経験のないボクには、まるで未知の領域だった。


 いやだってキスっていったら少なくともフラウの唇がボクの体のどこかに触れるわけでそれもこんな大勢の前で宣言されては恥ずかしいしいやいや誰も居なければ良かったのかとかそういうことではなく――。


「フラウさま。続きは乗車してからになさいませんと、時間が」

「そうみたいね。出発しましょう」


 キスしてほしいかほしくないかといえばもちろんそれはいやそれはまたフラウに失礼な――。


 と、思考が堂々巡りになったボクはアンさんに誘導されて、やっとのことでエコリアに乗り込んだ。


「では、道中ご無事で」


 見送ってくれるアンさんがそう言って、やっとボクは正気に返った。


「ありがとうございます! 行ってきます!」


 小さな子どものように窓から顔を出して手を振るボクに、アンさんも淑やかに手を振り返してくれた。

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