第6話:黒衣の少女ー2

 口の中が熱い。

 フラウにとって、目下の関心はそれだった。


 カルチェと呼ばれていた牢番の男へ、目潰しのために腰の帯に仕込んでいた、ホメンの葉を噛み砕いて吹き付けてやった。

 そこが眼球だから苦悶する羽目になるわけだが、そんな物を噛み砕けば口の中も平気ではない。

 何度も繰り返した行為だけにだいぶん慣れているが、それでも頬の内側が燃えるように熱いのはどうしようもなかった。


 どうやら助けが来たようだと思ったけれど、こういう結果もあるわよね。来てくれたこの少年は可哀そうだけど、私にはどうにも出来ないし。


 セルクムに吊られたままの、自分と同年代の少年をぼんやり眺めながら、フラウはそんなことを考えていた。

 考えてどうこうということもなく、ただ目に入ったことの感想として。強いて言えば、口中以外のことに気を逸らしたかった。


 そういえば、助けに来た少年と山賊たちとのにらめっこはいつまで続くのかしら。まだそれほど長い間ということもないけれど、黙っているには苦痛なだけ過ぎたと思うのに。


 フラウにはそれくらいの認識だったから、どうして黙っているのだったか思い出すにも数秒を要した。


 ああそうだ。どこの誰か、だった。そんな命を賭して守らないといけない素性なのかしら。


 またキトンの鳴く声が聞こえた。さっきもうっすらと聞こえたけれど、ここで飼っているのかしらとフラウは辺りを見回す。

 その鳴き声をきっかけにしたのか、親方が折れた。


「そんなに大層な身の上なのか? 俺たちに知られちゃ仲間が困るってか?」

「ボクがどこの誰なのか、知って困るのはそちらだと思いますよ」


 ああ――この少年は思慮が足りないらしい。そんなことを言えば、どうなるかくらい分かるだろうにと、フラウが胸中で言い終わらないうちに鉄拳が振るわれる。

 鈍い音がして、少年の顔が飛んでいくかというほどに揺れた。


「疲れるからさ、こういうことはしたくないんだよ」


 薄い笑みは変わらず、セルクムが拳をぷらぷらと振った。痛めた風ではなく、準備運動といったところだろうか。


「痛みってのはお前さんのここじゃなく、こっちに効くんだよ」


 セルクムは少年の頬を、次に胸を指でトンと突く。恐怖を染み込ませるという話ね、とフラウも同意した。


「だから、ほれ!」


 殴りつける振りに、少年は反応して固く目を瞑った。


「それが証拠――」


 フラウの目の前を、突風が吹き抜けた。

 何やら色が付いていたようにも思うが、それに煽られてセルクムは言葉を遮られた――と、フラウは考えた。

 フラウもその風によって瞬きすることを強制され、景色を見失っていたからだ。


 しかし。もう一度確かな視界で見ると違っていた。

 セルクムは辺りの荷物を巻き込んで壁に叩きつけられ、動けないでいるようだ。


「アビたんに何するみゅ!」


 フラウが事態を把握する前に、仁王立ちする一人の少女が高らかに叫んだ。

 少年と同じく、フラウと同年くらいの少女。短いシャツに短いパンツ、足元は短いブーツ。大胆に素肌を晒したその姿を見たフラウは、少女がどこから現れたかではなく、別の疑念に駆られた。


 どうしてこんなところにキトルが?


 濃藍色こいあいいろの美しい毛並みが、手や脛、首回り、顔の一部にまで見える少女。それはフラウや山賊たちが人間という種の中の一種族、ハンブルであるのと同様に、ハンブルとキトンを混血させたような姿を持つ別種族だった。


「てめえ!」


 親方の連れて来た部下が声を荒げ、三人で一斉に少女へ飛びかかった。ナイフを抜く動作も素早く、フラウであればどうすることも出来ずに切りつけられるのが容易に想像出来た。


「みゅっ!」


 一閃。横殴りの拳が、一度に二人の部下を弾き飛ばす。

 何ならその毛並みによって衝撃など吸収してしまいそうな、頬ずりしたくなるような手をしているのに。などとフラウは、どこか暢気とも思える驚きを感じた。

 残る一人の部下は、少女の拳をぎりぎりでかいくぐっていた。怒りのこもった視線を既に親方へと移している少女の、無防備な腹に刃を向ける。


「あらよっと!」


 今度こそ、色さえも見えなかった。

 また巻き起こった一陣の風が、残っていた部下を撥ね飛ばすと、膝を突いていた少年を助け起こす。


「大丈夫かみゃ」

「はい。ありがとうございます、トンキニーズさん」


 あの一瞬でどうやったものか。トンキニーズと呼ばれた少女は、先ほどの部下が握っていたナイフを奪い取り、少年の縄を切っている。

 またキトル。この少年の知り合い――いえ、援軍? そんなものが来る素振りはなかったけれど。


「アビたん、メイも居るみゅ!」


 大胆というか何も考えていないのか、先に現れた少女は親方から目を離し、少年に向かって苦情を言った。少年がトンキニーズという少女にだけ礼を言ったのが、気に入らないと言っているらしい。


「はい。もちろんメイさんも、ありがとうございます」


 痛むのだろう頬を擦りつつ、少年は微笑んだ。


「アビたんが大丈夫ならいいみゅ! メイは家族のために頑張るみゅ!」


 家族ねえ……。


 三人の部下たちは「痛たた……」と、殴られた場所を労りながらも立ち上がった。セルクムは加減が違ったのか、まだ伸びている。

 メイとトンキニーズが少年を庇いながら油断のない視線を見せると、部下たちはまた腕を振り上げようとした。


「待てっ!」


が、親方がそれを制す。


「お前ら。まさかミーティアキトノか」

「その通りにゃ」


 洞窟の入り口側から、また別の声がした。もったいぶることもなく、すっと姿を見せたのは長身の女性。

 二人の少女より年長のようだが、やはりキトルだ。キトンと同じ耳が興味深げにぴくぴく動くのを抑えようともしない、黒に近い琥珀色の髪をした美しい人物だった。


「団長、アビスは無事みゃ」

「良かったにゃん」


 白い髪に黒い耳のトンキニーズが場所を譲ると、名をアビスというらしい少年を団長は抱きしめ、ひとしきり撫でまわした。少年が真っ赤になって所在を失くしている様子からすると、あれは褒めたり慰めたりしているのでなく、罰なのかもしれない。


「あらためて自己紹介するにゃ。ミーティアキトノの団長、ショコラとはあたしのことにゃ」


 セルクムのいやらしい笑みとは違う、暖かでにこやかな笑みを湛えた団長はそう名乗った。それとは対照的に、酷く緊張した面持ちの親方は神妙に言う。


「お前たちと、ことを構える気はない。すまねえが、水に流して帰ってくれ」

「それは良かったにゃ。あたしたちは平和主義にゃ」


 それにしては腕っぷしが尋常ではないけれど――と思うには思うフラウだったが、それを口にしたところで誰も得をしないので黙って見守るのが吉だ。

 しかしどうやら先ほど少年が言った「どこの誰なのか、知って困るのはそちら」という言葉は嘘ではなかったらしい。フラウにとってミーティアキトノなる名称は初めて聞くものだったが、親方は明らかに恐れている。


 けれどもそうだとすれば、また疑問が残る。脅しがハッタリでないのなら、その根拠は早々に示したほうが良かったはずだ。例えば実は大貴族の息子だなどと言えば、逆に火に油を注ぐこともあり得るだろうがそうではないようだし。


 どういう駆け引きかしら……。


 フラウにはその点が全く読めなかった。


「それで、君がアビたんの助けたかったお姫さまかにゃ?」


 急にそこがダンスホールにでもなったかと錯覚するような華麗なターンで、団長はフラウの傍へ近づいた。花の蜜を水に溶かしたような、爽やかで少し甘い香りが鼻をくすぐる。


「え、ええ。お姫さまではないですけれど」


 律儀にフラウが答えると、団長はくくと笑う。全く嫌味を感じない、むしろこちらも笑いを誘われるような笑いだった。


「ではこの子たちはいただいていくにゃ」

「ああ、構わん」


 両の拳を握りしめて、親方が何に耐えているのかは測りかねた。しかし最早それは問題にならない。フラウは今度こそ、生涯で何度目か分からない命拾いをしたのだと実感した。

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