第5話:捕縛
――おっと。忘れるところだった。こういうところがまだまだ素人だと言われるんだろう。
肌で感じてはいたが念のために空気の流れを見ると、左の通路へ流れていた。よしよしと満足しつつ、その奥へ
酷く高価な物だが、人の命がかかっているのだから安いものだ。
粉末は僅かな空気の流れでもある程度は運ばれていくし、あの辺りを人が歩けばもっと効果的だ。山賊はしばらくこちらを敵とも思えなくなって、足取りもままならない。
あらためて右の通路を進むと、ほどなくして広い空間が先に見えた。明かりも点いている。
その奥の壁、ボクの正面――あれは檻か。階段下の倉庫のような小さな窪みに柵がしてあって、誰かが閉じ込められている。
牢獄じゃあるまいし、あんな物があっちにもこっちにもはないだろう。あの女の子はあそこに居る。
確信を得ると同時に胸が高鳴ってきた。ここで団長が居れば、愛しの女性に会える喜びかみたいなことを言われるんだろうけれど、ボクにそんな冗談を挟む余裕はなかった。
ここが文字通り山賊の巣窟だというのはもちろんだけど、檻の目の前で一人の山賊が牢番をしているからだ。
牢番の男はボクに背を向けているが、どうするか。一番いいのは、このまま先に殺してしまうことだ。
「水をもらえない?」
ボクが悩んでいると、檻の中の人物が言った。隠れているボクにではなく、牢番の男に。
それはやはり女性の声だった。
男は面倒臭そうに大きく息を吐いて、それでも水袋を持っていく。
水袋を受け取ると、女性は男に手招きをした。小声で何かを言ってもいるようだ。
男が顔を檻に近づけたかと思った途端、もんどりうって倒れた。
尋常ではない。倒れただけでなく、足をばたつかせ、手はしきりに顔を拭うようにして雄叫びをあげ続ける。
女性が何かしたのか、なんて詮索は後回しだ。檻に駆け寄って、扉を縛っているロープを切り落とす。
「助けに来ました!」
「ありがとう」
落ち着き払った声で、焦りのない動作で女性が檻の外へ出て来た。
その顔はエコリアから連れ去られた女の子で間違いなく、まずは成功で喜ばしいが、何か違う。
もっとこう、もう駄目だと思っていたのに助かった! みたいな感情や動作があるものではないのだろうか。
彼女を見ていると、ボクが来ることを知っていたとでも言いそうにさえ見える。
「はい残念」
ボクよりも、もっと年上の男の声がした。薄っぺらい、からかうような口調は、見つかったかと驚いたのに匹敵するくらいの嫌悪の情を感じさせる。
その声は目の前に居る女の子が発したのではもちろんなく、ボクのすぐ後ろからだった。
視界をほんの少し動かそうとすると、見事にボクの死角にあった刃が見えて、それが首すじへ押し当てられた。
「おいカルチェ。大丈夫か」
きっと、苦しんでいる男の名前なのだろう。しかしそのカルチェは、まだ返事をするどころではないらしい。
「やれやれ。ひでえことするなあ、お嬢さん」
そうだ。せっかく助けに来たというのに、ぬか喜びさせてしまったに違いない。
申し訳ない思いでいっぱいになって女の子を見ると、いかにも脱力した風に鼻から息を、肩から力を抜いたところだった。
がっかりどころか怒っているのか? 意外な反応に戸惑っていると、そのまま何を言うでもなく、女の子は元の檻の中へと戻ろうとする。
「いやいや。悪いんだが、こいつを親方のところへ連れて行くのに付き合ってもらおうかね」
刃が下げられ、首の後ろの襟がぐいと引っ張られた。半ば吊られて何とかつま先で立つ格好にされて、男の顔が見えた。
「やあ。木の上に居たのはお前さんかい?」
場違いににこやかな顔と声で話しているのは、最後まで外に残っていた男だ。確かセルクムと呼ばれていた。しかもボクが木の上から見ていたことを知っている。
なるほどどこかの時点で尾行がばれて、ここまで誘い込まれたということだ。しかもボクと女の子がどういう会話をするかで、関係性まで探ろうとした。
「そうです。さすが監視役ですね、セルクムさん」
「――へえ、お前さんなかなかだな」
一秒の半分ほど。ボクが名を呼んだことに、セルクムは表情を強張らせた。そんな段階から見られていたと、声まで聞かれていたと思っていなかったらしい。
ということは、ボクの存在がばれたのは洞窟の入り口でのことだ。
セルクムがなかなかだと言ったのは、この状況にも関わらずにそのことをボクが探り出したからだ。それに早々に認めたことで、ボクに仲間が居るかどうか判断がつけられなかったことも。
まあボク一人なんだけども。
「お前さんがどこの誰なのか、きっちり聞かせてもらわないといけないみたいだな。ということで、親方のところへ行こうかね」
軽薄そうな割に、仕事熱心な男だ。そんな一面は見せてくれなくてもいいのに、ボクの両手もあっという間に縛り上げられた。
セルクムがボクの襟首をまた引っ張って、歩くように促した。女の子は素直に前を歩こうとしている。ボクを置いて逃げる選択肢もあるが、そうする気はないようだ。
「それには及ばねえよ」
山賊のリーダー、親方の声が響いた。
まさか。惑い花を撒いておいたのに、どうして正気で居られるんだ。
ボクの衝撃をよそに、親方は部下を三人連れて、ボクが来たのとは別の方向から現れた。
ボクの位置からは荷物の陰になって見えにくいが、人がやっと一人通れるかどうかの穴が空いている。
この洞窟は行き止まりじゃなく、奥で回廊になっているということか。それなら一番奥に居た人間は、何らかの対応が出来るかもしれない。
「待たせたな。どうもこっちの通路は狭くていけねえ」
「すみませんね親方」
目の前に立った親方の感想を一言で言えば、大きかった。いや背丈も高いは高いがそっちではなく、腕、脚、首、腹、どこをとっても筋肉の付き方が尋常ではない。こんな肉体をもし殴りつけたら、ボクの拳のほうが壊れてしまう。
「どうってことはねえ。――さて、あらためて俺からも質問しようか。お前はどこの誰だ?」
殊更に威圧するでもない親方は、逆に下手な答えをすればどうなるだろうと想像させる怖さがあった。よく日焼けしているのに、左の頬だけが白いのは大きな傷が治った跡だろうか。
そんな中、場違いもいいところのキトンの声が微かに聞こえた。街中を気ままに走り回り、機嫌が良ければゴロゴロと喉を鳴らす、あの生き物だ。
いやそんなことより何と答えたものか。こんなところで博打をやらされる羽目になるとは思わなかった……。
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