眩い光
平嶋 勇希
この世の行く末を?
暗い空間にはおびただしい数の水槽が並んでいる。中には人間が入っている。男女関係なく全員裸で、頭から陰部まで脱毛されている。
生き物の気配は無い。
この場にある光は、赤い光の点滅のみ。その光が眩しく見えるほどにこの空間は暗く、そして真っ黒だった。
音も、ほぼ存在していない。水槽の中の、気泡を含んだどろどろとした液体が循環する、その音だけが、空間の中へ、鈍く、ゆっくりと注がれていった。
果てしない時間が流れた。その間、この空間の物は何一つとして動かないままだった。意味も無いように思える時間が、何を目的としているのかわからないその時間という存在が、目には見えない傾斜を、ゆっくりと降りていく水のように、流れていく。
何年という単位ではない。人が測るには不可能とも思えるような長い時間が、そうして流れた時、突如としてけたたましい音が空間を揺らした。
人を焦燥に駆り立てるような警告音が鳴り響き、この暗い空間を揺らし続けた。
理由はわからない。
だが男は知っていた。
この世界が、いつも自分が見ている当たり前の風景が、一瞬のうちに消し去られてしまうことを。
男は知っていた。
この世界が終わることを。
とても強く、会いたいと思っていた。男は家を飛び出てNYの大都会へやってきた。農業が盛んな故郷とは大違いだった。自分のこのしけた服装がこの街にとって異分子であることもわかっていた。だが今はそんなことはどうでもいい。それはちっぽけなことなのだ。誰が見ているかもわからない、ましてや誰も見ていないであろう自分の姿に気を配ることなど、意味のないことだ。
両親はわかってくれなかった。何度説明しても否定された。父親は男に、わけのわからない話をするなと怒鳴り散らし、説明が矛盾していると言って呆れた顔になった。母親は心配そうな顔で男の顔を覗き込み、自分の息子はついに頭がおかしくなったのだと、不安の表情を浮かべていた。
男はその後、すぐ家を出た。両親を説得する暇はない。男は焦っていた。汗を拭いながらバックパックに荷物を詰めて、最寄りの寂れた駅へ向かった。
NYまでは四時間ほどで到着した。いや、もっと早い時間で到着する予定だった。駅員と揉めたのだ。それで時間を食われてしまった。
あの駅員を気味悪く思っていた。
何度言っても伝わらない。「ここからNYに行きたい」と男が何度同じことを言っても、その駅員は首を傾げて、何を言っているのかわからないというジェスチャーをした。馬鹿にするような言い方だったら男はあまりの苛立ちからその駅員を殴ってしまっていただろうが、そこまでの事態に発展することは無かった。駅員は本当にわからないという表情をしていた。ひたいには汗を浮かべて、眉を下げて困ったような顔をして、駅員は男に言ったのだった。
だがその駅員の言葉を聞き取ることは叶わなかった。なぜならその駅員は、男が聞きなれない異国の言葉で何かを説明していたからだ。
男はだんだんと苛立ちと焦りを隠せなくなっていた。状況がわからなくなった。聞いたことのない言語を発する。柔らかいものを潰したようなねちょっとした感触の発音に、強烈な嫌悪感を抱いた。
男は心の底から困った表情で、喋り続ける駅員に恐怖を感じ、ちょうどその時に到着した電車に乗り込んだのだ。
電車を乗り換えるために到着した駅ではちゃんと言葉が通じた。一体何だったのだろう。そう疑問に思うと同時に、あの時の駅員の話す言語の感触、生ぬるいものを潰して咀嚼しているような発音を思い出して、吐き気をもよおすほどの嫌悪感に苛まれた。
ちゃんと呼吸ができない。今にも吐きそうだ。黄色い汚物が食道付近で待機しているのがわかる。そしてそれに伴って締め付けるような頭痛が襲う。
男はひたいの汗を袖で拭った。袖についた汗のシミを確認し、汗ばんだ手を握りしめ、眉間にしわを寄せたまま、早歩きで目的の場所へと向かった。
郊外の茶色のアパート。
最上階の日当たりが良い部屋。
ベッド一つが置かれたその部屋で彼女は眠っていた。
穏やかな顔を、窓から入る柔らかな陽射しが照らす。彼女の白く美しい肌はその陽射しを反射する。
床の木々は、カーペットに隠されることもなく、この部屋の空間にさらされている。ところどころニスが剥げていて、人が長年暮らしていたのがうかがえる。
彼女は一定のリズムで呼吸を刻む。だが、目を開くことは無く、布団に隠れた体は、肺のある位置を除いて、微塵も動く気配が無い。
動きのない部屋。ここに彼女以外の生気は無い。かろうじて窓際に飾られた白い花が、部屋の中に、穏やかに生物の気配をさらさらと垂れ流していた。
ゆっくりと。
ゆっくり、とてもゆっくり、白い花の花びらが空間を漂うように、陽の光を浴びながら落ちていった。ひと時の幸せの終わりを、告げるかのように。周りの空間、そこに存在する光と空気に、表情なく見守られて花びらは落ちた。
ゆっくりと。
ゆっくりと床に花びらが落ちた。
花びらは天井を見つめた。茶色く、木の暖かみを感じさせるような深い茶色を、まばたきもせず見つめていた。
そして、時の流れを変えぬように、部屋の扉が、開かれた。
扉を開いた男は、恐る恐る中に入ってきた。
その男は、ベッドの上の女性に釘付けだった。
女性の姿が瞳に映った。
ベッドの横に男は立ち尽くした。口を開けたまま浅い呼吸をした。男には余裕が無かった。息を深く吸う余裕が。
美しかった。
その女性のまぶたが開かれる気配は無い。男はそのことを一瞬で悟った。そしてそれを悟ったのと同時に、一層その女性のことが美しく見えた。
作られたかのようだった。これは生命ではない。この美しさは、この輝きは、生命が放つ暖かい光に包まれていない。命が時を刻み、ゆっくりと焼けていく香りは感じられなかった。
この女性は、生きていない。だが死んでもいない。それは一定のリズムで刻まれる彼女の胸の膨らみを見ればわかることだった。
美しいと、男は思った。
生物の気配は微塵も感じない。この女性に比べれば、この小さな白い花の方が、命の灯りを自らの力で燃やしているように思えた。その灯りは夜空に見える、小さな星のように儚い光だったが。
男は女性の白い顔にそっと触れた。
暖かい。触れた瞬間に指先が女性の肌に包み込まれるような感触を覚えた。たしかにそれは優しい感触だった。だが無機質でもあった。母が幼い頃に抱きしめてくれた時の暖かみを、微塵も感じなかった。
その無機質さに侵され、指先がぼろぼろと崩れていくような感触が腕に伝わり、男は眉間にしわを寄せて、素早く女性の顔から手を引っ込めた。
男の息は荒くなった。肺の中の黒いもやを取り払うように息を強く吐いた。
そして男は呟いた。
「これは、誰だ」
思わず心の声が口から息と共に漏れ出した。
この女性は誰だ?
いやこれは、人なのか、それどころか生物なのか?
疑問が渦巻いた。この状況が解決してくれるはずもない問いを頭の中に張り巡らせた。そしてやがてどこからともなく疑問が溢れて止まらなくなった。
これはなんだ?
なぜ俺はこれに触った?
大事な人なのか?
この指先の感触はなんだ?
なぜ俺はここに来た?
なぜここまで来れた?
ここはどこだ?
俺は、誰だ?
そうして疑問が溢れ出した時、急に喉を締め付けるような圧迫感に襲われた。自分の体内の意思ある何者かが、複数人で男の疑問の源泉に、急いで蓋をしたようだった。
男は汗を拭った。再び浅い息をした。男は立ち尽くした。何をしていいのかわからないのではない。何が起こっているのかわからないのだ。
男はしばらくして女性の上に掛かる布団に手をかけた。
そして、まるで教科書を読むように躊躇なく布団をめくった。
「あ、」
息と共に驚きの声が漏れ出した。
女性の首から下は機械で出来ていた。
そこに生身の肌はなく、銀色の光沢を放つ金属で覆われている。肺のある位置だけが透明なプラスチックのような素材でできていて、その部分だけは一定のリズムで起伏を作っていた。男は震える手を伸ばし、布団を全てめくった。
足の先まで銀色だった。生物の暖かさなど、当然そこには無かった。冷たい色が目に刺さり、男の体を凍りつかせていく。
男のひたいから冷たい汗が噴き出した。重厚感としなやかさを兼ね備えた彼女のボディを、外から差す、柔らかな光が包む。
息がうまく吸えない。意識して吸わないと勝手に息が止まっている。それに伴うように思考も止まる。明らかに脳に酸素が行き渡っていないのがわかる。
目の前にあるものをまばたきもせず見つめ続けていくうちに、目の前の視界がぼやけてきた。度の合わないメガネをしているような視界。そしてそれは、そんなぼやけた視界の端に突然現れた。
いや、それはもしかしたら男が知らなかっただけで最初からそこにいたのかもしれない。
男は視界の端に何か黒い者を捉えると、ぱっとその方向を向いた。
扉の方向。
男が入ってきた扉の前に、黒いハットを深くかぶった長身の男がいた。黒の背広を身に纏い、こんな春の陽気の中、季節感を台無しにするような黒のトレンチコートを羽織っている。背丈は高く、肩幅が広い。黒い革の手袋をして右手で杖をつき、左手でハットを抑えている。ハットを深く被り俯いているため、どんな顔をしているかはわからない。
ハットの男は真っ直ぐと男の方へ歩いて、彼の目の前に立った。すると彼の顔がよく見えた。いや近くではその姿を確認できたのだが、はっきり見えたというにはあまりにもその顔はぼやけていた。目や耳、鼻と口、それらの位置は確認できる。だがそれら全てのパーツがピントが合わないようにぼやけている。
男は目の前に現れたハットの男をまじまじと見て、状況を飲み込めずにいた。冷や汗が、ひたいから眉毛を横切って落ちていく。
明らかにハットの男は人ではなかった。人というより物だった。生物として認識されるものではない。そこらにある机や棚やベッド、コップや皿などと同じように、気配が無かった。
「混同である」
電子音が混ざったような低い声でハットの男ははっきりと言った。目を合わせて喋っているというよりは、顔全体で男の方を見ていた。
男はその言葉の意味がわからず、口を少し開けたまま、返答の言葉を必死に考えていた。
「どういう意味だ、」
「全てが混じり、」
ハットの男はそこで一旦言葉を止めた。
男は、ハットの男の次の言葉を待った。
「悠久の時は破裂する。」
やはり意味は分からなかった。言葉から何かしらの情報を探ろうとしたが、彼が発した言葉に自分が知りたいことが含まれているとは思えない。
男はハットの男が何かを伝えようとしているわけではないと悟った。
「執筆を行え。」
ハットの男は再び口を開き、無表情のままそう言って、男の方へ歩いてきた。躊躇なく歩いてきたハットの男をかわすことはできなかった。
だがぶつかることはなかった。ハットの男は男の体に当たると吸い込まれる霧のように、男の体の中に柔らかく溶け込んでいった。
すると突然、体の中が膨らむような感覚に襲われた。
血管の一本一本が膨張している。血が沸騰するような感覚が走る。肺の中に空気を入れるスペースが無くなり息が出来なくなる。
男は体内から大量に滲み出る汗を拭いながら、急いでこの部屋を出た。
外の空気を吸うと少しは気分が良くなった。
男は汗を拭って、横断歩道の信号の柱にもたれかかった。周りの人々はその男を見ていた。汗をびっしょりとかいて、息も荒い男のことを心配するものが多数いた。
男はそういった視線を感じて、横断歩道の方を向いて立ち上がり、なるべく平静を装った。
信号は青になり、人々は一斉に動き始めた。
男は都会の人間の足の速さに置いていかれて、ゆっくりときつそうに歩いていた。
前を見ると、親子が正面からこちらへ向かって歩いているのが目に入った。母親は赤いセーターを着て、まだ五歳にも満たないであろう男の子の手を握って歩いている。母親は、普段の生活にストレスがたまっているのだろうか。余裕の無い表情で息子の手を引っ張っていた。
息子は黙って手を引かれて歩いていた。母親に対してこの男の子は往来する人々を見つめて、何がおかしいのか、少しだけ笑みを浮かべていた。
男の心臓は跳ね上がった。いまこの鼓動の音が体内から漏れているのではないかと感じた。体が熱くなるのを感じて、その親子とすれ違い様に、男の子の腕を掴んだ。
「なんですか、あなた」
男に対して、そんな母親の怒りが混じった声が聞こえた。その言葉が男の耳に入っていたのかはわからない。母親を無視して男は男の子の目を見ていた。そして男の子も嫌な顔一つせず男の目をじっと見つめていた。横断歩道の真ん中で三人は立ち止まる形となった。
「ちょっと話してください」
母親は強めに言った。
「行くよ」
母親は息子にそう言ったが、男の子も母親を無視して男を見つめている。
そこで突然、男は涙を流し始めた。人々は歩きながらその光景を見ており、視線が飛んでくる。
男は膝をつき、震える手でそっと男の子を抱きしめた。
「あ、あぁ」
男は涙を流しながら鼻の頭を熱くした。意味のない言葉を呟いたその声は震えていた。
男の子が涙を流す男を拒絶することはなかった。むしろ心地よいと、そう感じていた。男の心臓の暖かさが直接伝わってくる。抱きしめる強さで、男の優しさを感じ取っていた。
ビルの間にある横断歩道の真ん中で、その二人の周りの時間だけが止まったように思えた。男の胸中には様々な思いが渦巻き始めた。
そしてひときわ強かった思いは、困惑。
なぜ俺はこの子を抱きしめた?
この子は、一体、誰だ?
そんな疑問が文字となって、脳みその起伏を撫で始めた。
膨張しているのがわかる。脳の限界が近づき、頭が熱くなっているのを感じた。
「ちょっと、離し」
母親の強い声が聞こえた。だがその言葉を最後まで聞くことは無く。
視界の横から入った、強烈なまでの真っ白な光。それが一瞬で男を包み込み、視界を遮った。そして体の横からとてつもない衝撃を受けて、真っ白な視界のまま、記憶は途切れた。
その真っ白な視界が途切れた時、彼女の姿が目に入った。
彼女は目の前で男の顔を見つめていた。
「どうしたの?」
数秒間、男の動きが止まっていた。たった数秒だった。その間に男の顔から血の気が去って汗が噴き出した。
男の目の前にいる女性は、そんな男の姿を見て、心底心配して声をかけた。
「あ、あぁ」
声にならない声を絞り出した。
目の前には日常の風景が広がっている。今から彼女と朝食をとるのだ。そういえばそうだった。先ほどまでのあれは、一体なんだったのだろうと疑問を張り巡らせる。
下を見ると、テーブルには彼女が作った簡素な朝食が並んでいる。緑にトマトの赤が映えるサラダ、こんがり焼けて香ばしい匂いを放つトースト、油で食欲をそそる光沢を出しているソーセージと目玉焼き。
胃が縮んでいくような感覚に襲われ、自分の体がこれらを強烈に求めているのがわかった。
「本当に大丈夫?」
「あぁ、大丈夫だよ。」
「顔が真っ青だったけど、」
「なんか、思い出してたんだ、あまりいい思い出とは言えないけど。」
「そう、」
彼女は不思議そうな顔をして椅子に座った。
男は、目の前の色とりどりの食事に目を奪われ、フォークで食事に手をつけようとした時、奇妙な音が耳の中で響いていることに気づいた。
男は左手で左耳を抑えた。
「うーん」
「どうしたの?」
「いや耳鳴りがするんだ。なんだかこうふつうの耳鳴りとは違う。」
「というと?」
「鳴ったり止んだり、一定のリズムでなるんだよ。」
その言葉を言い終えた瞬間、男の手から力が抜けてフォークを落とした。フォークが皿に当たる、かちゃんという音が響いた。
だが男はそれにすら気づいていなかった。
男は女性の姿から目が離せなかった。冷や汗が噴き出し、体内が溶け出すように熱くなるように感じた。
彼女の首から下。肩の辺り、服の隙間から金属の無機質な色が垣間見えていた。
眩い光 平嶋 勇希 @Hirashima
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