第4話
「それで大人しゅう帰ってきたんどすか」
甲子園の家のデカいダイニングテーブルで、俺は突っ伏してた。
なんか千尋の谷から三回ぐらい落ちた気分やった。
あれを落ちるのは獅子か。俺は虎やのにおかしいな。なんで落ちたんや……。
六甲アイランドで怜司のマンションを後にしてから、俺は自分がどこをどう歩いたんか、よう憶えてへん。六甲から甲子園まで歩いて戻ったわけやないやろうと思うけど、帰り着いたら夜になってた。まさか歩いて帰ったんか。頭真っ白でウロウロしすぎて分からへん。
そこまでショック受けんでええやろと自分でも思うけど、俺は案外打たれ弱い虎やったようや。なんか胸がズキズキする。
斜向かいで蔦子さんは晩飯後のお茶を飲んでいて、他には誰もおらへんかった。
竜太郎はとっくに他の有象無象と飯食って風呂入って寝た。蔦子さんは仕事でうろうろしてから遅くに帰り、食うたか食うてへんか分からん程度のちょっとの晩飯を食うてから、ゆっくりお茶飲んで雑誌読む。それが日課や。
人間やのに、なんであんまり飯食わへんの。蔦子さん、もう半分くらい人間やめてんのやないか。ここん家の血筋の人間は、普通と違うて、そういうもんらしい。あんまり腹減らんのやって。竜太郎はさすがに成長期やし、普通に飯食うけど、蔦子さんと比べたら、俺のほうがまだしも飯食うことにかけて人間味がある。今日は何も食うてへんけどな。
「押し負けたんどすな、怜司に」
清水焼の湯呑みで手を温めながら、蔦子さんは部屋着の着物に着替えてた。紺色の
まだ突っ伏したままの俺を、蔦子さんがじっと見下ろしている視線を感じる。なんという目力や。蔦子さん。言いたいことは、分かる。
「放って帰るつもりやなかったんや。ちゃんと見張るつもりで戻ったんやけど、あいつが、帰れ信太、って、はい終了みたいに言うから……」
「別に責めてまへんえ。怜司かて、ああ見えて、あんたと劣らぬ霊力を持った式どす。あんたが負けることかてありますやろ」
「負けたん……俺……」
なんか疲れた。俺は疲れてもうただけや。精神的な疲労や。負けたんとは違う。なんで俺が怜司に負けるんや、おかしいやろ。
なんであんなこと言うてもうたんやろな。俺は。怒ったんやろうな、怜司。もう終わりや。
蔦子さんは茶をすするだけで、何も言わへんかった。
「怜司な……蔦子さん。あれ何なん? あいつ何で、前の主人がそんなに好きなん? 今は蔦子さんの式やんか。そやのに別居しとうしさ、俺らにもよそよそしいやないか。それで他への示しがつくやろか」
「まあ何を急に言うかと思たら、しょうもないこと」
餓鬼を叱りつけるオカンみたいな口調で蔦子さんがぴしゃりと言うたんで、俺はしょんぼりして顔をあげ、蔦子さんの顔を見た。蔦子さんには敵わへん。だって俺のご主人様なんやもん。
「そういうのは怜司がもっとも嫌うところどす。あの子はそういうしがらみが嫌で、ここには住みたないて言うて、うちもそれを許したんどす。文句があるなら、うちにお言いやす」
「別に文句があるわけやない。あいつもここに一緒に住んだほうが、気が紛れるんやないかと思たんや。一人で居ったら危ないんやないか。頭おかしいんやし。蔦子さんかてそう言うてたやないですか。一人にしたらあかんて」
俺は餓鬼みたいにゴチャゴチャ言うた。駄々こねてるだけやった。
「怜司が一人でおらんほうがええ時は、うちが言います。その時にあんたが行ったらええ」
「何で俺やねん」
「嫌なら啓太に頼みますよって、行かんでよろし」
ぴしゃぴしゃ言われて、俺は唸った。
啓ちゃんか、ぐわあ……。啓ちゃんなあ。あいつ怜司のこと好きやねんなあ。怜司も啓ちゃんには優しいし。もしかしてあいつら普通にデキとうのとちがうか。それやったら俺のアホさが半端なさすぎや。打席に立ってるつもりが実は外野で球拾いしてたのかもしれへんのや。
内心、妄想の外野でジタンバタンのたうち回ってる俺を、蔦子さんはじっと見つめ、ズバッと言うた。
「信太。あんたちょっと怜司に入れあげすぎなんと違いますか」
真顔で蔦子さんに言われて、俺はしばらく静止した。ノーリアクションの虎やった。
まさか蔦子さん、知っとう? 俺の今日の、無様を極めた大敗北を。知ってたん? 視えてた? 俺があいつに泣きついて、好きや言うてくれって縋った、その醜態を、ほんまはずっと知っとったんか?
えー。
マジか。
格好悪すぎてリアクション出てけえへんわ。
答えへん俺の代わりに、ダイニングの隣にあるキッチンの片隅で、でかい冷蔵庫がブウウウーーンと急に唸りだした。
なんやねん、あれ。啓ちゃん入っとうのとちゃうやろな? 晩飯にかき氷食って、水風呂入ってから、寝る前にちょっと冷えとこか思て冷蔵庫入っとうのやないか?
そういう現実逃避が終わらへん。
「そないに止まらなあかんようなことどすか?」
聞いた蔦子さんも引いたらしい。
「入れあげすぎかな?」
入れあげてるよな。今日を振り返って。ちょっと頭冷やして反省すると、俺、そうとう核心部分に踏み込んでもうてたよな。言うたらあかんことも、二つ三つ勢いで言うた。四つ五つ言うとう恐れもある。何言うたか正直あんまり憶えてへん。
二度とその
「そらまあ、あんたの自由どすけど。うちが思うに、怜司にのめり込んだかて、ろくなことおへんえ。あの子には心に決めた相手がおるんや。尻が軽いからそうは見えまへんやろけど」
最後の話、言い方ひどない? その通りやけど。
「あんた、怜司が自分に惚れてるんやないかと思て一喜一憂してますのやろ? あの子と付き合うと、始めは皆そないな風になりますのや。脈があると思わせることにかけては天才的なのやから」
「無いの⁉︎ 脈無い⁉︎」
思わず叫んでもうたね。無いって自分に日々言い聞かせてるくせに、なんでか大声出してもうてるね。俺どんだけアホなんや。つらい。
怜司には俺に脈なんかないわ。そう思うのに、あいつの声が耳に残ってて離れへん。好きや信太って、言うてみてくれた、あの時の小声。あれは嘘やったと思えへん。
あいつは俺が好きなはず。
そう思ってもうて、また、自分の愚かさに気付いて、痛うて、めちゃくちゃにドツき殺されそうになる。痛たた……。もうやめて。ほんまもう許して。俺のアホが暴れ回って止まらへん。
「無いことないのやろけど、あの子の脈はみんなにあるんどす。そないなもん、無いのと何が違いますのん」
みんなって、みんなかよ。嘘や、あいつには本命がおるだけや。
「暁彦様は?」
口にするだけでゲー出そうになるその名を、俺は頑張って言うた。それに蔦子さんはキョトンとした。
「アキちゃんも、怜司が自分に本気やとは思てなかったようどすわ。そらそうどすやろ、今も昔もあの調子やから。恥ずかしいんか何か知りまへんけど、あの子はずうっと本心を隠してましたんや。木を隠すなら森の中。誰でも彼でも本気のようやったら、ほんまの本気もわからしまへんよって」
「紛らわしい……」
あいつほんまに宅急便の兄ちゃんまで口説いとうからな。俺そういうのと六甲アイランドのマンションで鉢合わせたことある。半裸の佐川男子と、怜司の寝室で。怜司に食われてた。
けど俺は、自分は佐川男子とは違うと思てたわ。だってそうやろ、俺はあいつとは宅急便持ってくる顔見知り以上の関係のはずや。あいつ俺の命の恩人なんやで。ハンコはもらったことないけど、でも俺も今日、あいつの命を救ったのかもしれへんのやし、他人やないやん。
佐川男子とも他人やないのか? そういう関係か? 命を救ったり救われたりしとうのか? ストック用のバドワイザー届けに来るだけの男と⁉︎
俺は二本だけやったしアカンのかな? 三ダース持って来る奴のがええのんか怜司。何ダース持っていけばええんや!
いやもうほんとに。あいつ自身が言うように、怜司は遊び以上の気持ちで向かっていくと、ズタズタにされるような相手や。その証拠に今日の俺はズタズタや。なんでや。何がここまで俺を傷つけるんや。
佐川男子も、タクシーの運転手も、ハーバーランドのスタバのヒゲのバリスタも、港のポリも、高校生も、職場の偉いおっちゃんも、デパートの店員もタワレコのバイトも寿司屋の兄ちゃんも大将も、靴屋の変態店員も、元町のテーラーもバーのマスターも、あの啓ちゃんですら、割と平気で許せる心の広い俺を、なんであいつだけがズタズタにできるんや。もう半世紀以上も前に死んどう京都の鬼畜の
「でももう暁彦様はおらへんのやん。つらい気持ちは分かるけど、あいつも生きてかなあかんやないか。蔦子さん、俺にもそう言うたやろ。過去は過去として、大事にせなあかんけど、いつまでも引きずってたらあかんて」
茶をすすりながら、蔦子さんは俺の話に頷いてた。
「そうどす。あんたはもう、昔のことは胸にしまって、今からの世を生きていかなあきまへん」
「あいつにもそう言うたってくれよ。主人である蔦子さんがそう言えば、あいつも、そやなって思って変われるかもしれへん」
「怜司にどすか? それは無理や」
「なんでやねん⁉︎」
どう違うんや、俺と。椅子からコケるくらいびっくりするわ。ぎりぎりコケへんかったけど。
「うまいこと言えまへんけど……あの子はうちの預かりや。でも、式が新しい主人に仕えるには、前の主人の許しを得るか、死別しないと無理なんどす。あの子はまだ、アキちゃんと死別してない。生きてると信じて、待ってるんどす、今も」
俺はあんぐりとした。死んだやろ、暁彦様。死んでへんの? 死んどうで。死んだて怜司も言うとったで。バリバリ死別や。どこに疑問の余地があるんや。
ぱくぱくしている俺を哀れそうに見ながら、蔦子さんは話を続けた。
「せやから怜司は厳密にはうちの式やおへんのや。うちが頼めば大抵のことはするけども、あの子がほんまに嫌やと思うようなことを命令できるわけやないんや」
「今もあいつは暁彦様の式なん? 逆らえへんの? 待ってんのか、今も? もう、七十年も前に死んどうのに……」
今も待っとう。暁彦様のことを。一日千秋の思いで、その一日一日ごとに、胸が張り裂けそうになりながら。
そう思った俺は、どんな顔をしたんか、蔦子さんは気まずいみたいに、ついっと目を逸らした。
「やめなはれ信太、怜司にアキちゃんを忘れさせようとするのは。それは死ねと言うのと同じことどす」
「そこまでのことなんか⁉」
五回に三回くらい俺の話を聞いてへんような雑なあいつが、そんなに義理堅く男に惚れたりするやろか。全く分からへん。理解できんわ。
「詳しい話は堪忍しとおくれやす。うちかて怜司の秘密をあんたにそうペラペラ話すわけにもいかへんのや。そやけど、怜司はとうの昔に消え失せていてもおかしなかった。それが今もああして生きてんのは、アキちゃんを待っているからなんどす。それがあの子の生きがいなんや。あんまり揺さぶらんと、そうっとしといておやり」
「揺さぶってへん。俺が振り回されとうだけや」
ジャイアントスイング並みやで、ほんま。遠心力すごすぎて頭沸いてもうてんのやから。
そう言うと、蔦子さんはよっぽど可笑しかったんか、口元を覆って笑い声をあげた。たぶん今、蔦子さんの頭の中では、俺が怜司に足持ってブン回されとうな。
蔦子さんはひとしきり自分の袖の陰で笑うてから、まだ笑いの残る声で言うた。
「怜司もあんたが好きやと思う。そうやけど、あの子をあんたの気持ちに応えさせたらあかん」
「なんでや」
俺はちょっと語気荒かった。何があかんのや。あいつかて、そろそろ楽になってもええやん。死んだ男を何年待ちゃあええねん。貪欲やで、暁彦様とか言うやつも。てめえが死んだ後までも、あいつを支配しようというんは。強欲や。
「忘れたら、死んでしまうんどす、怜司は」
蔦子さんは着物の袖で口元を覆ったまま、すいっと俺の目を覗き込んできた。
その目と見つめ合うて、俺は静かに息を呑んでた。蔦子さんの目の奥には、じっと見つめると、なんや、深い宇宙みたいな暗闇と光がある。
「信太。怜司は、アキちゃんへの想いで生かされてるんや。その想いは今も胸に仕舞ってある。それを失ったら死んでしまう。本人はただただ忘れられずに想い続けてるだけかもしれまへんけど、それが傍目にどんなに不毛でも、
暁彦様のことを忘れたら、あいつは消える。そんなアホみたいなことを、蔦子さんはまことしやかに俺に脅しつけてた。
「なんでそんなこと俺に言うんや」
「あんたが怜司を殺しそうやからや。怜司を口説いてるやろう。とぼけた振りしたかて、うちには分かるんえ。やめときなはれ」
真面目な顔してそんなことを言う蔦子さんに、俺は混乱して、わけもなくテーブルの木目を睨んだ。
「嘆きながら生きるのでも、消えて無くなるよりはマシどす。好きなんやったら、なおのこと諦めなはれ」
やんわりと言うて、蔦子さんは爛々と光る巫女の目で俺を見ていた。
「怜司は今も、髪の毛の一本、爪の一欠片まで、アキちゃんのものなんどす。あれは秋津の式や。あんたの自由にはならへん」
隷属している。今も。とっくの昔に死んだ主人に、今も仕えてる。蔦子さんは、そう言うてんのやと、俺は理解した。
怜司。
お前はそれで幸せなんか?
しんどいって言うてたやん。誰かを愛して楽になりたいて。
テーブルの上でいつの間にか握りしめてた俺の手を、蔦子さんの手が包んだ。燃えるような、凍えるような、不思議な感触のする肌や。
話は終わったという息をついて、蔦子さんは黙った。それは俺が説得されたという意味やった。
そうなんやろか。自分でもよく分からへんのに。蔦子さんは俺のこと、全部わかってるみたいや。
いいや、違うか。蔦子さんには未来が見えてるんや。俺の心ではなく。俺の心がどうなってようが、蔦子さんが変えなあかんと思った未来が、無事に防がれたということなんやろうな。
怜司が、消えてしまう未来が?
あいつが死んだ主人の亡霊と話すのをやめて、俺を見る未来が?
その視線と見つめ合った瞬間に、俺を見て微笑むことにした怜司が、幻のように搔き消える未来……。
それは……キツいわな、確かに。
俺には、我慢はできんわ。あいつの死を、受け入れることはできへん。それならまだ、あいつの苦しみを受け入れるほうがマシや。
苦しくても、死にはしてへん。泣きながらでも、傷ついていても、あいつはまだ存在してる。いないよりは、ずっといい。俺もそう思う。蔦子さん。俺もそう、思うわ……。思う。あいつの死には、俺は耐えられへんのやもん。それ以外の全部を耐えるほうが、マシやわ。
確かに説得された自分を感じて、俺も押し黙った。これ以上は何を聞いても愚問に思えた。
蔦子さんは席を立って、ダイニングルームに置いてある、木製のクラシックなラジオの電源を入れた。
ざあっと激しい雨のような音がして、蔦子さんが触れもしてないラジオのスピーカーから、波打つようなチューニングのノイズが聞こえた。
それに混じる聞き覚えのある声に、俺は黙って耳を澄ませた。
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