第5話

 怜司の声や。それには何や、小さい鳥がさえずるような気配がする。

 俺の脳裏に、怜司のマンションで見た、暁彦様に生き写しやという本家のぼんの顔が蘇ってきた。こっちを睨みつけるような、怖い目をしてた。

 あれが、ぼんくらの坊々ぼんぼんの顔やろか。ほんま言うたら俺には正直、そういう風には見えへんかった。

 迂闊には近寄ったらあかん奴の目や。捕らえられてしまう。

 あいつが、あいつと同じ顔をした男が、鬼みたいな鉤爪のある手で、もがく小鳥を握りしめてるような気がした。

 怜司は、苦しんでる。ずっと苦しそうや。なんで逃がしてやってくれへんのや。

 もうとっくに死んでんのやったら、もうええやんか。もう、あいつのこと、放してやってくれ。お前は鬼か。怜司を食うてる鬼なんやな。ほんまにそうやとしか思えへん。

「京都といえば、もうすぐ祇園祭ですね」

 あっけらかんと明るい女の声が、突然ラジオから喋った。

「そうでしたっけ」

 場違いなまでにあっさり響く怜司の美声が聞こえた。綺麗な声や。いっぺん聞いたら忘れられへん。

「行かれたことありますか、湊川さん」

「ありますよ、大昔やけど。仕事でね」

ほこ引いてたんですか?」

「なんでやねん、そんなことするタイプやないでしょ」

 はははと軽快に笑う怜司の声は、元気そうに聞こえた。

「私、行ったことないんです。行ってみたいんですけど……」

「気をつけたほうがいいですよ」

 笑いながら、怜司が女をいさめていた。

「えー何をですか」

「危ないお祭りなんやもん。運命の人と出会うたりしますよ」

「えっほんまですか? ぜひ行かな!」

 急に方言丸出しになったアナウンサー声の女は、怜司の話を真面目に取ったみたいやった。それをからかってるだけなんか、怜司は笑っていた。

「湊川さんも出会ったんですか、運命の人」

 期待たっぷりの女の声がして、また笑い声がした。そんなこと聞くな。聞いてどうすんのや。

「そんなこと聞くんや」

 怜司もそう思ったんか、びっくりしたような声やった。

「そら聞きますよ」

「出会うたけど、何だかんだして、別れましたわ」

「今めっちゃ省略しましたね」

 不満げに女は言うた。口を尖らせる顔が眼に浮かぶようやった。

「あっけないね、省略すると一秒もない話や」

「それほんまに運命の人やったんですか?」

「違うかったらびっくりやな」

 はははと乾いた笑い声をたてて、怜司が驚いている。そら、びっくりやろうな。

「あっさりしすぎなんですよ、湊川さん! 何か無いんですか、もっと、リスナーが喜ぶような濃いい話は!」

「あほちゃう京子ちゃん、はよご投稿のメール読みなさい。リスナーさんの恋話コイバナ聞くコーナーなんやろ、俺のん聞いてどないすんねん」

「皆さん聞きたいですよね?」

 聞きたない。

 でも女はめっちゃ聞きたそうやった。

「京子ちゃん仕事せえへんから俺が読も。東灘区のマスカットバナナさんより。なにそれどんな味やねん……高校の時から付き合ってる彼がいます。彼が進学で東京にいってしまい、私だけ地元に残ったんですが、大学で好きな人ができました。彼も私が好きみたいで、デートに誘われたんですが、東京の彼のことを話して断ったほうがいいですか?」

「モテますね、マスカットバナナさん」

「美味いんかなそれ」

「彼氏どうしましょうね?」

「両方食うといたら? マスカットとバナナと同時に食えるんやったら、まあ、可能でしょ」

 絶対ヤル気ない、お前一ミリも考えてへんやろっていう声で怜司が答えてた。そもそもお前が人間の恋愛相談に乗るというのが噴飯もんやわ。

 それは人間どもにも噴飯もんみたいで、相方の女アナウンサーめっちゃウケてた。

「湊川さん、また苦情の電話ジャンジャンバリバリ鳴りますよ。運命の人の話したほうがマシです」

「そんなことないって。女子大生が二股かける話しようよ、京子ちゃん」

「まだかけてませんから」

「大丈夫やで、マスカットバナナさん。彼氏も東京で浮気しとうし、おあいこや」

「ほんま最低ですね。彼氏は浮気なんかしてません! ちゃんと話して、ケジメつけたほうがいいですよ、えーと、マスカットバナナさん」

「美味いんかなそれ?」

 興味なさそうに怜司がまた言うてた。

「今度食べてみましょか」

 にこやかに女が応対してた。できた女やなあ、怜司を適当にあしらえるとは。妖怪ちゃうか?

「京子ちゃんええ子やなあ、いつも感動する」

「ほな結婚します?」

「せえへん。俺、運命の人おるから」

「その話しましょうよ。何で別れたんですか、運命の人やのに」

「死んだもん」

 けろっと言う怜司に女がうぐってなってた。

「めっちゃ重い話やないですか、それ」

「そやから省略したのに京子ちゃん空気読まへんのやもん。また苦情の電話ジャンジャンバリバリ鳴っとうで。湊川さんが可哀想です! あの女ぶっ殺せ! いうて今頃もう局の出口に暗殺者アサシン五人ぐらいおるね」

「ぶっ殺されますね」

「大丈夫や。お前が死んでも代わりの後輩とよろしくやるから、安心して逝ってくれ」

「ほんま最低ですよね湊川さん」

「ごめんなー」

「それで運命の人はどんな人やったんですか?」

「折れへんね、京子ちゃんは!」

 京子ちゃん妖怪やろ。少なくとも俺の百倍は強いね。怜司の出てる番組なんか聞いたことなかったんやけど、こんなんでよく成り立っとうな。

「ほんなら言うけど、運命の人って一人だけなもんなん? 京子ちゃん」

「うわっ、突然なに相談してるんですか」

「いや、最近ほんまに悩んでんのやけどな、こいつもしかして運命の人ちゃう? っていうのが一人やないんですよ」

「えっ、最近も居るんですか?」

「居るねん、けっこう」

「けっこうって何人いてるんですか……」

「十五人とか?」

「変にリアルな数字やめてくださいよ。普通、運命の人なんて片手の指に収めるのが常識でしょ」

「ほんなら一人やけど」

「来た来た! いい話ですよね、それ! 皆さん、湊川さんがやっといい話しますよ!」

 一人って誰やねん。佐川男子か。

「そいつと今日別れてん」

「嘘っ。それ最悪の話やないですか!?」

「そうやろ? せやから俺、マスカットバナナさんの恋話コイバナに乗ってる場合と違うんやないかと思てさ。マスカットバナナさんは東京と神戸で二股かけとけばええやん。そんなん人に相談することちゃうで、勝手にせえやで。俺の気持ちもちょっとは考えて。その一もその二も両方生きてるだけ幸せやで」

「湊川さんなんて、その一死んでるんですもんね」

「そうやねん。でも俺、その一の方が好きやねん。何でか知らんけど。死んでるからかな?」

「それはあるかもしれませんね」

 京子ちゃんは真面目にしんみり答えていた。居酒屋で飲んでる女子みたいなノリやった。

「でもそういうの、困るやろ、その二のほうは。お前、その二やけどええかって言われてもさ、ええわけないやん」

「そうですかね。湊川さんやったら私、その二でもいいですけど」

「結婚する?」

「えっいいんですか?」

「冗談やろ。空気読めるようになりなさい、京子ちゃん」

「えー」

 女はほんまにガックリした声で言い、何か落としたらしくて、ドサドサいう音が電波越しに伝わってきてた。あーあー言うて慌てて拾ってる気配がする。もうグダグダや。

「その二でええかって言う男と付き合うたらあかんよ」

「うん、まあね、そうですね」

 しみじみと納得する京子ちゃんの声が重たい。

「せやしマスカットバナナさんもね、両方付き合うとけいうのが無茶苦茶やと思うんやったら、もう無茶苦茶しとうから、気いつけや、いう話ですね」

「あっ、そこへ帰ってくるんですね」

「それが仕事ですからね。綺麗に話まとめとかんと、苦情の電話ジャンジャンバリバリかかってくる言うてディレクターのおっちゃんハゲてきとうやろ。可哀想やなと思って、反省しとうねん」

「嘘ですよねそれ」

「嘘です」

 はははと軽快な男女の笑い声がラジオの中から響き、時間が尽きたようやった。

「そろそろお別れの時間になってしまいました」

 仕事用の美声で、怜司が朗らかに言うてた。

「最悪でしたね、湊川さん。今日の生放送も」

「いい仕事しましたね」

 台本かなんかをさっさと片付けるガサガサ言う音をマイクが忠実に拾っていた。

「もう帰る準備してますからね。まだあと三十六秒ありますよ湊川さん。その二はどんな人なんですか」

「人いうか虎ですね」

「えっ。あと二十五秒。人類じゃないんですか? もうちょっと誤魔化さないで何か言うてください」

「明日はまた雨になりそうですね。神戸は朧月夜です。今夜も聞いてくれてありがとう。愛してるよみんな。犬に噛まれんように気をつけて、楽しい週末をお過ごしください。ごきげんよう」

「わざと時間使い切りましたよね? もう! それでは皆様、ごきげんよう。湊川怜司と櫻井京子がお送りしました。また来週もこの時間にお会いしましょう……」

 無理やり被せられた終わりの音楽の途中で、蔦子さんがブチッとラジオの電源を切った。

 余韻も何もあらへん番組やったな。強いわあ、櫻井京子。

 俺もうちょっとマトモなん想像してた。なんでこんなのが人気あんのやろ。人間て分からんな。

「あんたの話、しとりましたやろ」

「その二か。俺らいつ別れたん。デキてもないのに」

 しょんぼりとして俺は答えた。デキてないでほんまに、その他大勢の一人やったで、俺は。あいつもそう言うてた。

「あんたが一喜一憂するだけの脈はあったということどすなあ」

 しれっとして、蔦子さんはそう言うて、しゃなしゃなと衣摺れの音を立てながら、また俺の向かいの席に戻ってきた。

「ひどい話や」

 俺はジトッと言うた。蔦子さんと話してなければ、今日、怜司とあの愁嘆場を演じてさえいなければ、俺はまた違ったふうに、この放送を聞いたのかもしれへん。アホやから。ジャイアントスイングで脳みそグチャグチャなっとうからな。あいつ俺のこと、運命的な相手やと思てたんやって。ワーオ! ってなってたかもしれへんのに。

 二番やけどな。むしろ代打やけど。代打でええやん。ホームラン打てばええやん。それが俺の独りよがりでも、俺にも満塁逆転ホームランのチャンスはあるかもしれへんやないか、って。怜司が今度こそ俺を抱きしめて微笑む、そういう未来があるんやないかって、俺にも希望はあったやろうに。

 でもあいつが公然とそんな話をするんは、もう、そうは思ってないからやろう。運命かなって。もう思ってないんや。たとえそうでも、あいつは、その一のほうが好きな自分に気づいたんや。

 そして俺にはもう、それを逆転することはできない。あいつはもう、決心したんや。たぶん、今朝のあの時、六甲アイランドのマンションで。俺と最後に話した時に。俺を捨て、死んだ男のところへ帰る決心を。

「怜司は死にたくないから、俺を捨てることにしたんか?」

 下手こいて虎とデキてもうて、消えてしもたら敵わんわって。

「そうやないと思いますえ。本人が理由わけを話してましたやん。その二でええかって言う男と付き合うたらあかん、て。あんたの幸せを思うてのことやろ。心底想うてる相手に一番に想われへん辛さは、あの子も骨身にしみて知ってるんやから、あんたにはそういう思いをさせとないんやろな。そやから、あんたにも辛く当たるんえ。あんたが諦めやすいようにっていう、怜司の優しさや」

 幸せ?

 確かに別れ際、そんな話してたな。俺はあいつに言うてもうた。お前といて幸せやと思ったことはないって。

 でも、それは……。

「余計なお世話や」

 あいつ、俺も今夜の放送を聴いてんのやないかという心配は全然せえへんかったんかな。それとも、あれは俺に聞かせようと思って言うてたんやろか。公共の電波を私的に使いすぎ。どうせ言うなら何かもっと、気の利いたこと言うてくれたらええのにな。

 クソ。怜司め。なんやねん、あいつ。

「自分かて坊々ぼんぼんの妾のくせに、よう言うわ。その二どころか背番号何番やねん、あいつ」

「そやなあ。怜司やったら、二十五番くらいやおへんか」

「最悪やろ」

 吐き捨てるように言う俺を、蔦子さんは苦笑して見ていた。

「自分はそんなんでええって、変わろうともせんくせに、俺には二番はやめとけ言うんか。ムカつくわ! 尻軽のくせに真面目ぶりやがって……」

 なんや急に腹たってきて、俺は蔦子さん相手に声を荒げてた。蔦子さんなら笑って聞いてくれる。いつもそうや。どんな怨嗟も、この人なら全部受け止めてくれた。そういう甘えが、俺ん中にはずっとあって、蔦子さんに寄りかかってたんかもしれへん。

 けどそれは、無様や。蔦子さんに無様な奴やと思われとうない。そういう、ええ格好したい思いだけで、俺は言葉を飲み込んだ。テーブルの上にある自分の手が、また硬く握り締められてるのを見つめて、俺は乱れた自分の呼吸を数えた。

「あんたはええ子や、信太。怜司も、あんたのそういうところにほだされたんどすやろ。不覚にも……」

 蔦子さんはまた、握り締めた俺の手を、ぽんぽんと優しく叩いた。

「ええことや、それは。あの子にとっても救いや。ただただ帰らぬアキちゃんを嘆いて生きるだけでは、あの子も虚しい」

「でも結局そうやん。暁彦様、暁彦様いうて泣いて暮らしたいんやろ、あいつは。それが結論なんや」

「せっかちどすなあ、長生きやのに。待てば海路の日和ありって言いますやろ。怜司も大戦中、大きな傷を負うたんどす。それを癒すには時間がかかる。今はまだ、そうっとしておくべき時や」

 蔦子さんに握られている手を見下ろして、俺は考えた。

 そうっと?

 霧か霞でできてるあいつが、掻き消えてしまわへんように。

 ぎゅうっと強く抱き締めたくても、あれは幻や。強く抱いたら壊れてしまう。

 そう思うと、確かに亡霊のような奴や。妄念だけが生き残って、ぼんやり待ってるような。

「他のにしなはれ、信太」

 潜めた声で、蔦子さんが俺に忠告した。それとも命令したんか。俺は蔦子さんとまた見つめ合った。

「怜司は、あんたのものにはなりまへん。諦めるんが分別ふんべつや。二度と会うなとは言いまへん。付かず離れず、戯れるんはあんたの自由やで。そやけど、あんたも言うてたように、あれはアキちゃんの想いものやの。その心まで奪おうとしたら、あかんえ」

 蔦子さんの話を聞いてると、戦死したという本家の当主が、まだ今も生きていて、いつまた怜司のところに通ってくるか分からへんみたいやった。

 蔦子さんも、待ってるんや。本家の坊々ぼんぼんが帰ってくるのを。

 俺は急にそれを悟って、驚いて自分の女主人を見た。

 帰って、くるんか? 蔦子さんにはそれが、見えてんのか?

 ずっと泣きながら待ってるあいつのところに、暁彦様が戻る日があるっていうんか。あいつが例え二十五番目やったとしても、秋津の式は戦争で全部くたばったんや。今や怜司の、一人勝ちやで。

 それを想像すると、俺には怖かった。あの男が戻ったら、怜司は悩みすらせえへんやろう。その一にするか、その二にするか。両方食うとけと思いはするかもしれへんけど。自分の心は誰のものなのか。

 それはもう、悩むまでもないことや。

 あいつは迷わず選ぶ。そして微笑みかける。胸いっぱいの笑顔で、暁彦様に。俺の欲しかったもんを全部、惜しみなく与えるやろう。あの秋津の坊々に。

「あんたを必要としてるのは怜司だけやない。信太。自分を活かす道を考えなはれ」

「そんなもんあるとは思われへんわ」

 俺は恨みがましい目で蔦子さんを見た。そんな簡単に言わんといてくれ。こっちは振られたばっかりなんや。

「おやまあ。ずいぶん弱気な虎さんやこと……」

 ふふふと笑って、蔦子さんは言うた。

「あんたには、あんたの運命があります。それが怜司とは別の道でも、定められた流れなら、逆らいようがないのや」

「なんです、それ。予言?」

 聞いてもどうせ、蔦子さんは教えてくれへんのやけど、何か掴んでるらしい女主人のことを、俺はじいっと期待の目で見た。

 未来が見えてるって、どんな感じなんやろう。蔦子さんも、その血を受け継ぐ息子の竜太郎も、息するみたいに未来を見るけど、それは物の怪である俺らから見ても、不思議不思議や。一体、どないなってるんか。

 不意に、床を摺足で歩く眠たげな足音がして、ダイニングルームと廊下を繋ぐ引き戸が、がらりと開いた。蔦子さんと俺がそっちを見ると、目をこすりながらボサボサの頭の寛太が立っていた。

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