第3話

 携帯電話が通話の呼び出し音を鳴らしていた。冬ソナのテーマ曲の着メロや。

 蔦子さんやわあ。

 なんでやねん蔦子さん。空気読んでくれよ。俺いま結構泣きそうやで。ちょっと泣きそう。虎やなかったらもう泣いてるかもしれへんぐらいやで。

 そこは六甲ライナーのホームやった。俺は帰りのモノレールを待っていて、それがせっかく来たとこやったのに、大音量の冬ソナで足止めされたんやった。

 乗るに乗れへん。

 人間どもの視線が痛すぎ。

 しょうがなく、俺は電話に出た。どんな気分やろうと、式が主人の呼び出しに答えない訳はない。

「もしもし、信太どすか? あんた今どこに居るんや。テレビ見ましたか?」

 せっつく口調で蔦子さんが喋った。返事する間もない。

「怜司のとこ行ってやっとくれやす。訳あって今は一人にしといたらあかん」

 怜司が今すぐ死ぬみたいに、蔦子さんは深刻に話してくる。

 蔦子さんがやっと沈黙したんで、俺もやっと、ため息をつけた。

「元気やで、怜司。ちょっと変やけど、いつもと変わらんわ」

 俺が蔦子さんにそう答えたのは、本心やなく、ちょっとヤケクソやったんかもしれへん。怜司はほんまに危ない状態やったのかもしれへん。胸が、張り裂けそうになってたのかも。

 でも俺も、自分ではない別の誰かのために、胸が張り裂けかけてる怜司のことで、胸がもう半分ぐらい張り裂けてた。それでも六甲ライナー乗って帰ろうとしてたんやないか、蔦子さん。今ここで、もいっぺん怜司に会うたら死ぬ。胸がバーンてなる。

 言いたかないけど俺はあいつが好きやったんや。たぶん度を超えて好きやった。そこまでとは、自分でも知らんかったけど。ほんま死ぬかと思った。

「会うたんどすか? あんた今どこに居るんや」

 オカンみたいな口調になって、蔦子さんがさっきと同じことを聞いてきた。

「六甲ライナーの駅のホームや。怜司ん家に泊まったんやけど、もう帰るところです」

「怜司はどないしてましたか」

「知らん。テレビ見て、泣いとうわ。あいつ頭変なんとちゃうか」

 若干、泣き言めいた俺の返事を聞くと、蔦子さんは三秒くらい絶句した。

「あれ誰なんですか、蔦子さん」

「本家の坊々ぼんぼんや」

「暁彦様か」

「それとは別の坊々ぼんぼんどす!」

 キレた口調で蔦子さんは答え、俺は耳が痛すぎて電話を線路に落っことしそうになった。

 おっとっとって電話でお手玉する俺を、ホームに来た人間がドン引きして見とったわ。

 やめて、蔦子さん。あんたみたいな霊力のある巫女が式神相手に怒鳴ったらあかんで、虐待やで。

 喋り続ける電話をなんとかキャッチして、俺はそれを自分の耳に押し当てた。電話、バリ熱うなっとうわ。

「信太、ええか、ようお聞き。怜司が京都に行こうとせんように見張りなさい。きょうには、あの子には越えられへん結界があるんや。年月を経たとはいえ、まだ本家から上洛を許されてはいない。結界を破ればどうなるか分かりまへん。今度はお前が怜司を守ってやる番や」

 説得する口調で言うてくる蔦子さんの声は、電話越しにでも、強烈やった。俺には逆らわれへん。

「ひどい話やと思わへんのん、蔦子さん。俺、さっき……見てもうたわ。怜司の顔。あいつあんな顔できんねんな。びっくりしたわ」

 思い出すと、俺の胸の残りの半分が今すぐ弾け飛びそうやったんで、俺は慌てて記憶を振り払った。

「無理や。もう怜司に会いたない」

「そう言わんといとくれやす。うちの式の中で、本気になった怜司を止める力があるのんは、あんたをおいて他におへん」

 そんなことないやろ。怜司どんだけやねん。みんなもうちょっと本気出せ。

「啓ちゃんに頼んでくれ」

「啓太が死んでもええんどすか?」

 本気で言うてるらしい蔦子さんに、俺はホームでとほほ顔になってた。思わずしゃがんだ。立ってるのは無理やった。

「あいつ、そこまでするん? 啓ちゃんぶっ殺してでも、京都まで飛んでいくんか。自分も死ぬのに? あの坊々ぼんぼんのせいで?」

 それが俺でも、ぶっ殺して行くんか。

 キツいなそれ。ほんまアカンわ。

 知ったことかよ。どうせ死ぬなら、怜司一人でくたばりゃええやん。なんで俺が体張って止めなあかんの。

 俺のことなんか、なんとも思ってへんあいつのために。なんで俺が、必死にならなあかんのや。

 愛してるから?

 そんなわけあるか!

 畜生。

 怜司。

 鬼畜生め。

 蔦子さんもや。俺の弱みにつけこみやがって。鬼ばっかりやな、この国の連中は!

「信太、急いだ方がええわ」

「わかりました!」

 そう言う他あらへん。

 俺は回れ右して、また六甲アイランドの地を踏んだ。きっちり直線的に敷かれているはずの人工島の道路が、やけにグニャグニャして見えた。

 怜司のせいやろ。霊力だだ漏れ。

 うええ、と吐きそうな気分で、俺は怜司の住んでるマンションに戻る道を走った。

 あいつ、いよいよおかしくなってもうたわ。



 エントランスはまだあった。

 怜司の部屋の番号を押した後、インターフォンの呼び出しボタンを押しまくる。全然答える気配もないが、俺が高速で百回くらい連打すると、急にブツッて何かキレたようなノイズが、スピーカーから漏れた。

 繋がった、と思って、俺は思わず飛びつくようにマイクに向かって大声出してた。

「怜司。俺や。忘れもんしたし開けてくれ」

 もちろん何も忘れてへんけど、インターフォンの前で黙ってるわけにもいかへん。何か言わなあかんと思ったんや。

 通じてるような音はしていた。答える気配は全然なくても、怜司は聞いてる。そういう気がして、とにかく呼んだ。

「怜司、怜司、怜司! 怜司、聞いとうのか、れい……」

「やっかましいわ! この虎め! ピンポンピンポン鳴らしやがって、いつの間に居らんようなったんやお前は!!」

 スピーカーがぶっ壊れそうな怒鳴り声で、怜司が急に答えてきて、ほんまにスピーカーがぶっ壊れた。バチーンブスブスー、いうて、エントランスのスピーカーが火花を吹いとう。

 こわ! 俺は唖然とそれを見たが、その後少し遅れてスバーン! と高速で開いた自動ドアに、ビビって飛び退く羽目になった。

 なんで俺が帰ったの知らんのや、怜司。どんだけ自分の世界に入ってたんや。俺は一応、挨拶はしたで。

 さらにエレベーターに振り回されるぐらいの覚悟はしたが、それは普通に最上階まで昇っていった。

 ドアが開くと、驚いたことに怜司がそこに立っていた。怜司が俺を玄関まで出迎えたことなんか、いまだかつて一回もないことや。

 だだっ広い玄関に、怜司は真っ青な顔色で突っ立っていた。見るからに化けモンで、大丈夫やなかったけど、少なくとも、もう正気や。さっきは完全にいってもうてる目付きやったのに、何がどうなってお前は戻って来られたんや。

「どこ行ってたんや信太。気づいたら居らへんし、びっくりするやないか。うっかりどっかの異次元に放り込んだかと思たわ」

 そんなことするんかお前。俺が思ってた以上に危険な妖怪やないか。

「俺を置いて、勝手にどっか行かんといてくれ」

 怜司が真顔でそう言うんで、俺はまだエレベーターに乗ったまま、はあ? って顔で固まってた。お前、それ俺に言うとうのか? なんか今、俺のこと見てるっぽいけど、まさか俺を見とうのか?

 あんぐりしたまま動けへん俺と怜司の間で、ガコーンてエレベーターのドアが閉まった。あわわわわてなって、俺がドアを開くボタンを押そうと慌てるのを横目に、怜司は長い足でエレベーターのドアを戸袋に押し返していた。怜司の鋭い目が、じっと俺を見ている。

「えっと、それ、俺に言うとうのか?」

 俺、バリ噛み噛みで聞いてもうた。怜司がものすごチッて顔した。

「他の誰に言うとうのや。お前に言うたらお前に言うとうと考えるんが普通やないんか」

 それもそうやな。でも。

「お前ときどき、俺に向かって俺やない誰かと話しとう時あるで」

 特にその、置いて行かないでって話、遠い目のお前にもう何百回も言われたで。もっとかな。気づけば俺らも、まあまあ長い付き合いや。お前結構、寝床で感きわまるたびに言うで、それ。苦手やねん、俺はそれが。

「暁彦様やろ」

 すごいしかめっ面で、怜司は言うた。いきなり、触れたらあかん核心部分を怜司が突いてきた気がして、俺はぐっと身構えた。

「それは済まんけど、わざとやない」

 気まずそうに、怜司は小声で詫びてきた。

 わざとやないから怖いんやないか、怜司。

「さっき……」

 怜司は色の薄い目をぐるりと惑わせて、言葉を選んでるふうに口ごもった。

「さっきテレビで見た男な、あれ、よう考えたら本家のぼんやわ。本間暁彦って、登与様の子や。せやし、甥や、暁彦様の」

「そうやろな。ぼんくらのぼんやて、いっつも蔦子さんが言うとう奴や。あいつがあかんもんやから、秋津家の跡目は竜太郎にとらせなあかんかもしれへんて」

「そうか……変やな。暁彦様の甥やのにな」

 怜司はどことなく無念そうに、俯いて、そう言うた。

「会いに行ったらあかんで」

 蔦子さんに電話で頼まれたことを、俺は怜司に伝えた。行ったらあかん理由は、こいつは知ってんのやろうと思った。たまたまか知らんけど、俺の知る限り、怜司が京都方面に行こうとしたことはない。嫌いなんやて言うてた。都には、いい思い出がひとつもないって。

 たぶん、それは嘘やけど、俺はそれ以上、追求したことはない。詳しい話なんか、聞きたくないんや。聞いてへんのにこいつが話す、昔の男の思い出話で、俺は十分お腹いっぱいなんやから。勘弁してくれやで。

「会いにって、誰にや」

 怜司は空惚けた口調を作ったけど、それでも声が震えてた。白々しいんやお前の嘘は。

「ぼんくらの坊々ぼんぼんやろ」

「なんで俺がそんなもんに会いにいかなあかんのや」

 青ざめた顔のまま、怜司は小声で問い返してきた。

 お前がそう言うなら、蔦子さんの取り越し苦労なんかもしれへん。

 けど俺も、そう思うたわ。さっき、テレビ画面の中にいる男の顔を見てた時のお前は、ずっと探してた失せ物を見つけたという顔やった。今にもそれに向かって飛び立ちそうな、羽音の聞こえるぐらいの顔つきやった。

 飛んで行って、食らいつきたい。そういう気分やったんやろ。強がってみせてもバレバレや。

「暁彦様はな、死んだんや。もうどこにも居らん。先の大戦でな、逝ってもうたわ。俺はただそれが、悔しいだけやねん」

「お前の主上あるじやったんやもんな」

「そうや……」

 それだけちゃうやろ。そう思うけど、俺が聞くような事やない。お前の口から直には聞きたくないんや。

「でももう、死んでもうたわ。人間やから」

 自分に言い聞かせるように、怜司は俺に説明した。

 そうやな。人間やから。死んでまうんや、あっという間に。

「お前は、死なへんよな、信太。人間やないもんな」

「死なへん」

 俺が頷くと、怜司は深いため息をついた。ほっとしたような、と言うには、まだ紙みたいに白い顔のままやったけど。

「怜司、しっかりしろ。お前は誰かに寄りかからな立ってられへんような、弱い奴やないはずや」

 俺は怜司を励ました。

 怜司はそれに、微かに顔をしかめた。

 まさかお前みたいな奴が、ほんまにそうやって言うんか。生きてられへんのか。暁彦様とかいう、クソ野郎がおらへんと、死にそうなんか怜司。

 全然そんなんちゃうやん。全然お前は、そんな玉とちがう。俺が死んでも、どうせお前は、なんや死んだわ、しょうもない虎やなあって、すぐに忘れて他のとよろしくやるような、そういう薄情な奴や。

 そやのになんで、何年も、何十年も経った今でも、別れた夜そのまんまみたいに、ずっと泣いてんのや。格好悪いと思わへんのか、怜司。それも分からんくらいなんか。

 俺はほんまに、それが悔しい。お前を狂わせる、憎いあん畜生のことが。

「お前やったらよかったのにな、信太。お前が、そうやったらよかった」

 ぽつりと怜司がそう言うた。

 曖昧な言葉で誤魔化された何かが、優しくはない怜司の、分かりにくい優しさのような気がした。

 お前ではないと、怜司は言うてる。どうやったら俺も、お前を狂わせるような男になれるんかな。

「俺は今日、帰らなあかんか。蔦子さんが、お前に張り付けって」

「見張れって? ご苦労さんやけど、余計なお世話や。そこまで焼き回ってへんて、姐さんに言うといて。ほなまたな!」

 苦笑いして、怜司はそう言うて、エレベーターのドアを押しとどめていた足を、すいっと退けた。

 ドアが閉まりかけて、俺はまた慌てて、その扉を手で止めた。怜司はこっちに背を向けて、アーチの向こう側のリビングに戻って行こうとしていた。

 真っ青な窓に、陽光を受けて湾岸線が光ってる。まるで天国に続く橋みたいや。この、空中を走るまっすぐな道は、あいつが行きたくても行けない京都まで、繋がってるんやなあ。

 そんなもん、毎日眺めて、あいつは何を考えてんのやろ。

 帰れって、怜司は言うてた。帰れとは言うてへんけど、あれはそう言う意味やろ。

 ついさっきは俺が居ないって怒ってたくせに、今はもう、帰れって言うとうわ。

 なんて我儘なやつや。どんだけ言うても俺が怒らへんて、舐めてんのやろな。

 それがまあ、その通りで、全然怒らへんのやけどな? 惚れた弱みってやつか……。

 あくまでも俺を追い返そうとするエレベーターのドアを押し開けて、俺は怜司の部屋に戻った。行ったり来たり、ええように翻弄されて、昨日の夜にここにきた時と同じ。また振り出しや。

 湾岸線を眺めて、ぼうっと窓辺に座ってる怜司の横に、俺はどさっと腰を下ろした。怜司が、なんで帰らへんのやお前はという、ちょっと迷惑そうな横目で見てきたが、かまうもんかやった。

「帰らへんの」

「帰るよ。俺も暇やないし。寛太にも餌やらなあかん」

 湾岸線を眺めながら、俺は怜司に教えた。怜司は何も言わへんかったけど、ああそうやったなという顔をした。

 寛太は一日一回は餌やらな死ぬような奴や。物の例えやなく、あいつはほんまに俺なしには一日だって生きてられへん。

 いや、まあ、別に、俺やのうてもええんやけどな。誰か餌くれる奴が居れば、誰でもええんやろうけど。

「忘れ物」

 そういえば、あったわと思い出して、俺は怜司の頬を引き寄せ、淡く開いてた唇にキスをした。いつもするのに今日はしてへんかった。そういえば。

 怜司は拒まへん。誰でも拒まへんのや、こいつは。

 俺が抱き寄せると、怜司はおとなしく首を傾けて、だんだん深くなるキスに応えた。怜司の舌は甘い。いつも、こうして唇を合わせると、気持ちよくて、何も考えられへんようになる。怜司の息が、かすかにはあはあ熱くなるまで、気づくと攻めてた。そういうつもりやなかったんやけど。

 貪ってる自分が、急に恥ずかしい気がして、俺はキスを振りほどいた。

「キスすんの忘れたなと思って戻ってきてん」

 照れ隠しに思わずそう言うた。そう考えてた訳やないけど、そういえばそうやった。いつも別れ際にはキスするねん。ラブラブやろ。

 いやまあ怜司がキスするの好きやからやねん。俺も好きやけど。

「……どういうこと?」

 怜司はまだ乱れた息のまま、訳わからへんという不安げな目をした。

「インターフォンで言うたやん。忘れ物したって」

「言うてた? そんなの……?」

 お前、聞こえてたんちゃうんか。聞いてたんやと思ったわ。

「お前が、インターフォン押しまくる音で気がついて、あれ、俺なにしてたんやろと思って、とりあえずドア開けたん」

 怜司は俺の胸のあたりをチラつく視線で撫でながら、子供みたいにぽつぽつと話した。

 やっぱり、あの時、怜司の心はどっか遠くの異次元に行ってもうてたらしい。時々行ってまうねん。困ったことにな。

「そうか。開けてくれたんやし、まあええわ。気にせんといてくれ」

 怜司が不安そうに見えたんで、俺は思わず、目の前にいた怜司をぎゅうっと抱きしめた。大丈夫やで、お前はちゃんとここに居るんやでという気持ちやった。

「信太、痛い……」

 強すぎた? それでも怜司が俺の肩に頭を預けてきたんで、そのまま抱いといた。

「飛んでいかんといて、京都の坊々ぼんぼんのところへは」

 そしたらお前はもう戻ってけえへん。きっとそうなる。俺には蔦子さんや竜太郎みたいな予知の力はないんやけど、きっとそうなる。

「行かへんよ。会うたこともない餓鬼やで」

「似てんのやろ、暁彦様と」

 抱きしめたまま、俺が問うと、怜司はしばらく黙っていた。答えを迷っているのか、それを口に出すのをためらうような沈黙やった。

 それでも、結局怜司は言うた。口に出してまうと、もう逃れようのない事実や。

「似てる。生き写しやわ。暁彦様が、生きて戻ったんかと、思た……」

 怜司の声が、ぼんやりと沈黙に吸い込まれていくのを耳元で感じて、俺はさらにぎゅうっと怜司を抱きしめた。

 自分がどこに居るのか忘れんといてくれ。どっかに飛んでいくのは、もうやめて。今はやめてくれ。俺と抱き合うてんのやで。他の誰かやなく。

「知らん坊々ぼんぼんや」

 俺は怜司の耳に唇を押し当てて、言い聞かせた。

「そうやな……知らん男や」

「しかも、ぼんくらや」

「そうや。ぼんくらやて蔦子さん言うてた」

 俺の言葉を、怜司は素直に、言葉を習う鳥みたいに繰り返していた。

 それでもきっと、こんな封印の紙一枚貼った程度では、決して押し止められない奔流が、こいつの心の中にはある。俺も、誰にも、それを止められない日は来るのかもしれへん。

 それでも、あの坊々に会う日が遠ければ、会わないままあいつが死ねば、怜司は無事かもしれへん。ずっとここで、俺とこうしていてくれるかもしれへん。

 そういう気がして、俺は黙って、怜司の部屋の床を見ていた。

「信太、胸、苦しい」

「そうか、ごめんな」

 手加減せなあかんかった。ほんまに力一杯抱きしめたら、怜司が潰れてまうかもしれへん。

 俺は慌てて腕を緩めて、怜司の顔を見た。

 ぼんやりしたような目で、怜司は窓の外を見ていて、その視線を追うと、また湾岸線が見えた。

 やっぱり怜司は、この道を眺めて暮らしてんのや。

 そう思うと、なんて哀れな奴やと思った。怜司のことを、好きな奴なんか、なんぼでも居とうわ。それやのに、なんでお前はとっくの昔に死んだ奴のことを、ここで毎日、想っとうのや。

 そんなんしてて楽しいか。面白おかしく暮らしたいて、言うてたやんか。

「さっき……」

 橋の方を見つめたまま、怜司がぽつりと言った。

「お前がインターフォン鳴らす音で我に返ったんや。そうでなかったら、今ごろどこに居ったかわからへんのかもな」

 怜司は空中を走る道の先を見つめていた。

「ありがとうな、信太。でももう大丈夫や。ほんまに、大丈夫。心配せんと帰り。俺は今夜は仕事があるんや」

「仕事って、いつものラジオか」

「そうや。心配なんやったら、お前も聴いといて。野球中継ちゃうけど」

 ははは、と乾いた笑い声をたてて、怜司はやっと俺を見た。

 なんや疲れた顔しとう。

 怜司が俺にありがとうて言うなんて、気色悪。そんなしおらしいこと言うような性格ちゃうやろ。

 そう思ったけど、怜司はもう、一方通行のラジオみたいに、俺が踏み込めへんものに見えた。

「またな、信太」

 帰れと、怜司が言うてた。

 俺はうなだれて、それを聞いた。

 俺と抱きおうてる間もずっと、お前は橋の向こうを見てたんか。

 そらもうあかんわ。俺にはもう、勝ち目はない。そんなもん、始めからずっと、なかったんかもしれへんな。

 でもな、好きやったんや。怜司のことが。好きやった。

 俺も足掻いたらあかんのか。お前が好きや、俺を見てくれ。俺がお前の、一番好きな相手になったらあかんのかって、聞いてみてもいいか。お前はそれに、なんて言う。

 無理や、信太。俺には一番好きな男が他に居る。二番でええか。それやったらお前のこと、愛してやってもええんやけどな。

 怜司がそう言う顔が、目に浮かぶようや。それが怖くて、今までいっぺんも聞いたことはない。足掻いて見せたことはないんや。

 俺も遊びでええわ。お前との仲を、お前への気持ちを、確かめたくない。それを確かめたら、俺ら、終わりになってしまうやん。駒を動かす前からもう、次の一手が見えとうわ。

 怜司。俺は、お前の二番になりたいんやない。お前の、一番好きな男になりたいんやで。他に二番や三番が、居ったかてええわ。お前はそういう奴。それにはもう慣れた。

 そやけど、あいつだけは。秋津の古いほうの坊、暁彦様だけは、俺は許されへん。どうしても、我慢ならへん。

 お前が心の底から愛しとう男やって、お前自身が忘れようとしてても、俺には分かる。いつも俺から、お前の愛の上前をはねとう鬼や。あいつがお前の心の中で生きてる限り、俺はお前とは幸せになられへん。お前も、幸せにはなられへんのや。

 忘れてくれ、怜司。あの男のことは、もう。

「何見てるん?」

 じっと怜司の顔を見て黙っている俺に、苦笑いして、怜司が尋ねた。

「お前の顔」

 俺は真面目に答えたけど、怜司はアホかと言うように、面白そうに小さく笑った。

「なんで見てるん」

「さあ……好きやから。正気の時のお前の顔が」

 でももう見てられへん。見てるんが辛い。お前が好きな自分が惨めで、俺はいつも辛い。お前と会うたび、自分に言い訳しとう。会いたいわけやない、用事があるんや。今日だってそうや。好きやからやない。俺はもう、お前のことは忘れたいんや。

 幸せにしてやられへんのやったら、忘れたい。誰か別の、お前を幸せにできる相手が、お前と出会えるように。俺も忘れなあかん。それが怜司のためなんやないか。

 それがあの、ぼんくらの坊やていうんやったら、俺はそれでもええで。怜司。それでもいい。

 それでもええけど……。

 お前の居らんようになった、この部屋のこと、想像するのはまだ辛い。お前が俺を待っててくれた、この部屋が、俺にはずっと、帰れる場所やったんや。

 お前が居らへんと、俺は一体どこに帰ればええんやろなあ。

「お前のことを愛してくれる奴はおるよ」

 急に怜司がそう言うた。

「たとえば誰やねん」

「俺も愛してるよ」

「しょうもない嘘つくな」

 ムッとするより悲しい気がして、俺は怒っていた。

「嘘やない……ただ、俺といてもお前は幸せにはなられへんと思う」

「そんなこと、知っとうわ」

 思わず怒声で言うてもうた。怜司がそれにびっくりしていた。

 俺はお前に怒ったことなんかないもんな。俺の気持ちに鈍いお前に、俺はずっと我慢してて、怒ったことなかった。

 でも、言えばよかった?

 言うたらお前は、分かってくれたか?

 俺がずっと、暁彦様の身代わりで、そんなん嫌やて思っとうって、お前に怒ればよかったんか。

 それを言うたらお前は他にいく。面倒くさいわ、信太。お前とは、もう止めや言うて、他のに甘える。それを見るのが嫌やっただけや。

 改めて思うと、悔しい。それに腹たってしょうがない。俺はお前が好きやのに、なんでお前はそうやないんや。

 俺はもう珍しく頭に来てて、怜司に怒鳴った。たぶん。怒鳴ってたと思う。

「お前といて、幸せやと思ったことはない。そんな事はどうでもええんや。ただお前が、全然俺を見てへん。それがずっと悔しいんや」

 あの、さっきテレビで見てもうた男の顔が、頭から離れへん。あいつが怜司と寝てる、あれと同じ顔が、微笑む怜司に見つめられてる、それをちょっと思うだけでも、頭にカッと血が上ってもうて、俺も正気やない。そんな気がして怖い。

 あかんわ、頭冷やさな。怜司に怒鳴ったとこで、何にもならへん。こいつはわざとやってる訳やない。怜司にもどうしようもない事なんや。ただ、好きなだけ。あの男が好きで、好きで、どうしようもないってだけや。

「そんなことないよ……俺もお前のこと見とう。お前が好きや」

 淡く悲しげなような目で、怜司は俺を見ていた。

 なんでか俺はそれにもムッとした。

 怜司が俺を哀れんでるような気がした。

 お前は可哀想な奴や、信太。怜司がそう言うとう気がして、いたたまれへんかった。

「お前はええ奴や、信太。俺とは遊びにしとき。誰にとっても俺は、本気で付き合うような相手やないねん。皆そうやろ。お前も、そうしてええんやで」

 軽くそう言う怜司にまた腹が立って、怜司にそう言わせてる奴にも、めちゃくちゃ腹が立った。

 あの、あの男が。あの、秋津の坊。あいつが、あんな、坊々みたいな可愛いつらで、こいつを手玉にとって、ゴミみたいに捨てた。俺の、めっちゃ好きな怜司を、世界一大事やったお前を、今もずっと傷つけとう。それが俺は、許せへんのや。

 許せへん、怜司。お前はもっと、大事な奴や。俺が大事にする。俺にお前を、幸せにさせてくれ。

 思うたらあかんて、ずっと我慢してきた、その事で、俺は頭がいっぱいになってて、血迷うてた。

 言うたらあかんて、心のどこかで、俺が止めてる。それは王手を取られる手や。今までずっと、堪えてきたのに、今さらお前は何を言い出すんやって、俺が止めとう。

 そやのに結局、俺は言うたな。言うてもうた。

「そんなことない。お前はそんな、軽い奴やない。勘違いすんな怜司。お前が悪いんやない、お前を捨てた奴が、お前の良さがわからん、どうしようもないアホの、クソ野郎やっただけや!」

 俺はずっと、怜司に言うてやりたかった事を、怒りに任せて言うた。

 怜司の顔が、青ざめて、引きつって見えた。もしかしたら怜司は、怒ってんのかもしれへん。俺がお前の大事な男を、クソや言うたから?

 でもほんまの事やん。クソ野郎をクソや言うて、何が悪いねん!

 今日こそ言うたる。お前に、俺がずっと思うてた、ほんまの話を。それが死への一手でも、結局は、打って出てみな収まらへんのや。

 俺は思わず、目の前にあった、怜司の白い両手を握って、必死で言うてた。

「俺を選んでくれ、怜司。頼むから、あいつのこと忘れて、俺と生きていって。俺はお前を絶対に捨てていったりせえへんし、先に死んだりもせえへん。ずっと傍にいて、お前のこと大事にする。誰より大事にする。今でも俺にはお前が世界一大事や。ずっとそうやった……怜司、俺を選んでくれ」

 俺は今、言うたらあかんこと言うとう。死のうとしとうわ。その先の道は崖やもん。落ちたら死んでしまうんやで。

 そうやっていうことは、もうずっと、俺は知ってたはずや。

 怜司はあいつを忘れたりせえへん。俺のためになんか、忘れられるもんやない。あいつと勝負しても無駄。抱くたび怜司は、暁彦様って泣いたやん。いくとき俺の名を呼んだことない。いっぺんもないんやで。それがどんだけ脈ないか、わかるやろ。アホなんか俺は。

 やめとけ俺。なんでそんな無駄なことするんや。勝ち目のない戦い挑んで、玉砕か。格好ええな。ほんまにバリ格好悪い。

 オチは見えてる。その台詞の先を、俺は結局、最後まで全部ぶちまけて、怜司に聞かせた。

「俺のこと、愛してくれ、怜司。愛してるって言うて、笑って。好きや信太って、言うてくれよ」

 怯えたふうな怜司の両腕を掴んで、俺は引き寄せてた。愛を囁くには少々、強引というか、乱暴やったな。

 それで怜司は泣いてんのやろか。泣きそうな目に見えて、俺も悲しかった。俺はもう、お前の泣くとこ見るの嫌やのに、なんでお前は笑うてくれへんのやろ。

「好きや……信太……」

 言うたら死ぬみたいな、か細い声で、怜司が呟いた。俺の胸に、あとちょっとで落ちてくる。そういう近さで、試しに言うてみたみたいな小声で。でも、それはまだ俺に言うてる訳やない。よう聞こえへんし。

 けど、それは、俺と怜司にとっては、新しい扉を開くための呪文やったはずや。

「もういっぺん言うて」

 怜司をもっと引き寄せて、顎を掴んで俺を見つめさせ、俺も淡い色した怜司の目を間近に見つめた。そこに俺への愛があるのか、探したくて。

 でも、そこにあるんは、深い動揺やった。怜司はまた、変や。おかしくなりそうな目で、どっか宙を見てて、俺を見てへん。

「あかん、もう無理……死んでまいそう。胸が……痛うて……」

 怜司はほんまに苦しいみたいに、俺に言うて、一雫だけ泣いた。悲しいせいより、ほんまに苦しいみたいやった。

「無理や、忘れられへん」

 乱れた浅い息をして、怜司は胸を喘がせ、俺の胸を押し返して、逃れようとしてた。俺を拒んでる。

「暁彦様」

 急に呼んだ怜司の絞り出すような小声に、俺はぎょっとした。まるでそこに誰かいるみたいに、怜司が呼んでたからや。

 誰もいてへん。俺とお前だけ。お前が見てんのは幻や。

「嫌や、忘れられへん。苦しい……死んだほうがええわ、あの人を忘れるぐらいなら、もう死ぬ。死にたいんや俺は! 俺が好きなら、殺してくれ信太……」

 怜司がまた発作的な発狂を起こしたんやと思った。時々こうなる。もう死ぬって決めて、死のうとするけど、なんでかいつも死にきれへんねん。それでええけど、俺は毎回、全身の血が引くぐらいビビる。俺にお前を殺せるわけないやん。無茶言うなやで。

 そやけど、こいつの死にたいは狂言や。そうは見えへんけど、まるで何かに守られてるように、徹底して死に損なうんやもん。

 そんなん、もうやめろ。どうせ死なへん。ただただ傷つくだけや。せっかく時が塞いだ傷を、自分でもっと深くしとうだけ。前よりもっと辛うなるだけやって、お前もそろそろ分かってんのやろ。

 俺は怜司を抱きしめようとした。狂いかけて暴れる体を抱きしめて、必死で抑え込む。

 どこにも行かんといて。それはこっちの台詞やわ。

 ほっとくと怜司はいつも、わざわざ死のうとせんでも、死んだ男の後を追って、自分も消えそうに見えた。飯も食わへん、酒ばっかり飲むし、人食うてる訳でもない。何かモヤっとした訳のわからんものの力で生きてて、それでもふとすると、怜司はもうとっくに死んでるように見える。青白い亡霊が、死に切れず現世に留まっているような。

 それがほんまに逝ってしまう日が来るんやないかと、俺はいつも怯えてた。

 強く抱いて、怜司がほんまにここに居るって、確かめたい。キスして、熱い息を、確かめたいんや。

 俺に溺れてくれ、怜司。お前が死ぬほど好きな、その男への気持ちと同じくらいの愛で、俺を愛して欲しい。

 キスして。

 そう思って、抱きしめた怜司の唇を奪おうとしたけど、怜司は首を振ってキスを拒んだ。そんなの初めてや。

 それが予想以上に俺にはダメージあって、ちょっと呆然やった。抱擁を振りほどいて、怜司はまた俺の胸を押し返し、俺を睨んだ。悲しそうな目で。

「帰ってくれ、信太。お前みたいなしつこい男は俺は嫌いや」

 ああ、そうやろなって言葉を、怜司が吐いてた。

 そうなるわな。

 やっぱり俺の思ったとおりになるんや。俺がどんだけ、総身の力を振り絞って足掻いても、行き着く未来は、やっぱりここやった。

 王手やわ。怜司の打ってくる、次の一手が。

「もう……ここには来んといてくれ。お前なんか俺には遊びの相手や。大勢おるうちの一人なんや! 自惚れんなアホ虎め。お前と寝とうなったら、俺が呼ぶわ。それで文句ないな?  時々でも俺と寝られたらそれで十分やろ」

 そう言うて怜司は、俺を見て、淡く開いた唇から、魂でも吐き出すみたいな長く細いため息をついた。

 まだ俺と寝るんや。驚きやな。そっれってやっぱり俺が上手いから? 気持ちええしって、ただそれだけか? 俺はお前の都合で動く人形かよ。こっちも生身やねんぞ。生きてる虎や。

 ほんまにワガママな奴やわ、お前は!

 怜司はいっつも俺に酷いこと言う。けどそれは嘘や。嘘やっていうんが、なんでか俺には分かるんや。それが一番、酷いと思う。こいつのこと憎いと思えへんし、可哀想になってもうて、もっと好きになる。それが一番酷い。

「深入りしすぎたわ、お前には」

 辛そうに顔をしかめて言うて、俺から目を逸らし、怜司はよろめくように、また窓辺の階段に座って、そこらにあった煙草一本取って火をつけた。

 もやもや立ち込める淡い煙が、項垂れて吸う怜司を包んだ。雲隠れする月のように。

「もう帰れ、信太。早う。出ていって……俺の目に入らんとこへ行け。お前の物欲しそうなつら見てたらな、胸悪うなるわ」

 また怜司が俺を見もせんと、帰れて言うてる。またやん。ほら、やっぱりそうや。

 いくらなんでも言い過ぎやろ。怜司。無抵抗の俺に。そこまで追撃するか?

 それでもな、俺もう慣れてもうてて、腹も立たへん。ただ悲しいだけ。悲しいなあって、それすら最近、感じてへんかもな。

 怜司がいつも目の前で俺に、死にたい、殺してくれて言うて、その時、ほんまに殺されてんのは、あいつやのうて、俺の心のほうやねん。俺も死ぬ。こいつとずうっと居ったら、俺もたぶん、ちょっとずつ死んどうのやないかなあ?

 生きたまま、一ミリずつ殺されてる感じやねん。なますやで。

 こいつは俺を選びもしないし、逃しもせえへん。獲物を捕まえて、無限に弄ぶ鬼やねん。

 鬼や。怜司は。死に損ないの鬼。

 俺はどうせ、その他大勢の獲物の一匹。怜司が逃すわけあらへん。

 逃げようともしてへんもんな。とんだアホ虎やし。

「またな、怜司」

 まだ続きがあるんやって、俺の口が言うてた。そうなんやっけ。俺はこいつが電話してきたら、また寝る気なんか?

 そうかもなあ。俺アホやし。怜司と寝たいんや。こいつを抱きたい。最高やしな、怜司のアレは。めちゃめちゃええんやで、それで金取れるレベルなんやから。こいつプロやし、ほんまにすごい。滅多にありつけへんようなご馳走なんやで。やるたび病み付き。俺もお前の体が目当てや。そういうことにしとこう。でないと俺も頭変になる。

 今度こそ、次こそは、怜司が感極まって俺の名前を呼ぶんやないかって、アホな期待が捨てられへん。

 堂々巡りやな。同じところをぐるぐる。溶けたバターの虎になりそうやわ。

 怜司は何も言わず、壁にもたれて煙草吸ってた。俺とはもう、何も話す気ないって顔やった。

 確かにな。俺にももう、お前と話すことなんか、何もないわ。全部言うたし、それでもあかんかったんやから。ただ虚しいばっかりやん。

 俺はそのまま、何も言わんと、怜司の部屋から出ていった。かなり、頭真っ白なってたわ。

 燃え尽きちゃったよみたいな、正直そういう心境やったな。俺ももう、怜司にはほんまに、疲れてもうたんやで。

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