第2話

 怜司は一晩、ほんまに何にも考えてへんかったと思う。ほとんど話らしい話もせず、怜司と俺は、ひたすらやってた。

 ベッドで無言で、あんなこんな気持ちええこと。お互い、いろいろ寝技は持ってんのやしな、責めはじめると際限がない。体力も精力もほぼ無限やし、一回二回では疲れたやめようって、なられへん。

 頭おかしなるまでやる。段々ほんまに何も考えられへんようになる。

 怜司はもともと変なんやし、あいつがちょっと気が向いて、信太もしたろて言い出すと、俺もめちゃめちゃ責められる。あいつ、痛いのから気持ちええのまで、各種いろいろ知ってるんやしな、かつては大陸の宮廷で鳴らした虎も、怜司の部屋のキングサイズベッドでは、常に優勢ってわけにはいかず、怜司にやっつけられてもうて、ごめんなさい、もう許してって言わされることもある。

 あいつも意地悪やしな、俺が抱いてやって、気持ちようしてやった後は特に、何か悔しいんか、めちゃめちゃ虐めてくる。別に今や誰かの精気を吸うて生きてるわけでもないくせに、俺からどんどん搾り取ろうとする。

 特にあいつの舌技がすごい。なにしろ人間業やないしな、妖怪や。あの綺麗な顔でくわえられるだけでも、大抵のやつはたまらんやん。人間やったら死ぬ。俺も永遠に、慣れはせえへんわ。毎回ぶっ飛ぶ。もうそれが愛なんか、どうなんかなんていう、初心うぶなことなんか言うてられへん。エロで脳みそ沸いてもうてる。

 もしかしたらやけど、怜司なりの感謝なんか。それとも俺を玩具にしてるだけか。やっぱ後者かな。自分が先に化けの皮を剥がされて、可愛い声で泣かされた腹いせに、俺もひいひい言わされる。

 愉悦を極めた、めくるめく一夜やで。俺、ぐったり。ものすご疲れる。これ毎日は無理。絶倫のタイガーでもやで。人間やったら死ぬと思うわ。怜司ってほんまに、死ぬまでやらせるらしいんやもん。昔はほんまにやってたらしいで。籠絡した男を骨と皮になるまで絞り上げて、あとは食うんやって。気が向いたらな。そして残るんは骨だけや。怖いなあ。

 でもそうやって、悪さしすぎて、本家の暁彦様にやっつけられたんや。昔の話やで。俺が日本に流れ着く、さらに前の、戦前の話らしいわ。蔦子さんから、そう聞いた。

 以来、怜司は秋津の式神で、今は人は食わへん。多少食うけど、ちょっと摘む程度で逃してやるんや。丸くなったんやな、これでも。

 蔦子さんは怜司を一見、野放しにしてる。こいつのこと、信用してるんやな。

 実際、怜司はその信頼には答えてるんやと思う。人間には悪させえへんのやし、絞り上げてんのは俺だけや。俺はそう簡単には死なんのやし、怜司としては、好きなだけ遊べる玩具おもちゃみたいなもんやろう。

 まさにもれあそばれてるで。嫌ならやめりゃええんやけど、嫌なわけないやん。ほんま病みつき。

 昨夜ゆうべ、リビングで一発やって、怜司がもっとやれて言うから、ベッドにいって、三回くらいやって、さすがにもうええやろと思ったけど、汗かいたし風呂入ると怜司が言うんで、ついて行って風呂入ったら、あいつ風呂でやるの好きやねん。なんの性癖かしらんけど、しゃあないしもう一回やって、死にそうに疲れて、もう寝よかって寝たんや。

 怜司も酔うてんのか、やり疲れて眠いんか、段々、正気やないみたいになってきて、もう寝よかっていうとき、あいつは震えてて、泣いてるような気がした。

 霞か霧みたいなもんが、寝室に立ち込めて、俺はあいつが溶けてるんかと思った。元々からして、霞か霧みたいなもんなんやしな、怜司は。

 大丈夫か、て聞いたら、あいつは小さい声で言うた。

 寂しい、って。会いたいって。ずっと傍に居らせてほしいって、怜司は俺に言うた。

 お願いや。何でもするから……。

 か細い声やった。まるで別人みたいや。

 その声を聞いてると、俺は胸が締め付けられた。怜司は、寂しいんやって思って。

 あいつは誰と話してるつもりやったんやろう。

 俺に言うてる訳やない。たぶん違う。

 だって。あの時もあいつの目は、俺を見てへんかった。

 どこか遠くの霧の向こうに向かって、呼びかけてるようやった。

 たぶん、その遠い靄の向こうに、あいつの愛しい男がおるんやろう。

 怜司は泣きながら寝て、ずっと俺の胸に縋っていた。たぶん、俺やない、誰か別の名前の男の胸にやけどな。

 夜は長く思えた。疲れてるのに、なかなか寝付けへんかった。たぶん、自分の胸に燃えてる嫉妬の火が、熱すぎて。苦しいて寝られへん。

 明け方やっと寝付いたやろうか。

 気がつくと、怜司はもう、布団の中にはおらへんかった。

 あんまり寝えへん奴やねん。俺と違って。

 今、何時やろうと思った。怜司の寝室には、時計も窓もない。俺はものすご腹が減ってて、もう早朝ではないはずやと思った。

 怜司はまだ家に居るんやろうか。俺だけやったら嫌やなあ。このまま一人で帰るんは嫌や。

 ほな帰るわって、いつもは怜司とキスして別れる。今日はそれ、してへんやんか。

「まだ寝てんのん。怠惰な虎やなあ」

 寝室のドアから突然ひょいっと覗いて、怜司が言うた。

 俺はびっくりして、そして、ホッとした。怜司、ちゃんと居ったわ。よかった。顔色もええわ。昨夜、泣いてたし、俺は心配しとったんやで。

 そんな俺の気持ちはよそに、怜司はけろっとしたもんやった。いつも通りや。にこにこ愛想のええ、偽モンの怜司やった。

 とっくに起きて、もういっぺん風呂入って服着たような感じや。それはもう何発抜いたかわからんぐらいやからな、めちゃめちゃさっぱりした顔して、怜司は白いシャツにデニム姿で、裸足やった。なんてことない服着てても、スタイルいいし、怜司はいつ見ても、ぞっとするくらい綺麗や。

「朝飯作ったし食えば?」

 朝トンや。起きたらゴハン出来てるやつや。

 ものすごい二日酔いを感じて、俺は布団の中で丸くなった。酒でこんなんなるわけがない。怜司と寝たせいや。あいつが滅茶滅茶搾り取っていきやがったからや。使い終わった歯磨き粉チューブかて今の俺よりはマシや。

「ほら、信太」

 裸足で絨毯を踏んで、でかいベッドしかない部屋に入ってきて、怜司はまだ素っ裸のままの俺の横にごろんと横になった。

「肉焼いたで。神戸牛」

「朝から肉か……やるな」

 ベーコンエッグとかやないんや。味噌汁とか。

 ダイレクトに肉や。それは精が付きそうやなあ。まあ食えるけどな俺は、起き抜けでも余裕で。

「俺は腹一杯やし食わへんけどな」

 しれっと言う怜司の横顔を見上げると、にこにこしていて、寝入り端に見えた正気でないような色は消えていた。

「今日は仕事せな。一晩なんもせんと遊んでもうた」

「悦かったか」

 ちょっと恨む目で見上げて俺が聞くと、怜司は不思議そうに真顔になってから、またにっこりとした。

「うん。悦かった」

「俺は疲れたで」

 お前と寝ると精神的に疲れるんやで。

「昨日、阪神勝っとうで。お前も家でナイター見とけば良かったな」

 済まなそうに苦笑して、怜司が俺の髪を撫でた。

「そういうことやないねん。お前と居るとなんか疲れるわ。はらはらして」

「何に疲れるん」

 心外そうに怜司が口を尖らせる。

「泣いてたやろ、明け方。寝る前に」

 俺が突くと、怜司はすうっと真顔になった。

「そう? 憶えてへん」

 伏し目になった濃いまつげの影が、怜司の白い頬に落ちている。

「傍においてって言うてたで。俺に抱きついてきて。お前が俺にそんなしおらしい事言うとはな。俺のこと愛してんのちゃう」

 あれは、俺に言うたんやない。それは知ってたはずやったけど、怜司の口から、理由を聞き出したい気がして、俺は咄嗟にそんな事を言うてた。

 怜司はじいっと、俺の目を見た。どことなく、悲しそうな目やった。

「愛してる」

「はあ?」

 予想もしなかった方向の返事に、俺はぽかんとした。そんな間抜けな声出していいとこやなかった。

「愛ってどういうの? 俺には分からへん。お前のことは好きや。一緒にいると楽しい。お前のアレも好きやし。それが愛してるってことなんやないのか?」

 怜司はヤケクソみたいに言うてきた。たぶんちょっと怒ってる。

 俺は怜司に聞いたらあかんこと聞いたんやろうか。

「お前でもいい。誰か愛したい。愛して、楽になりたいんや、俺は」

「楽に?」

「お前、俺に惚れてんのやろ。愛してんのや」

 けろっとして、怜司はそう言った。俺は答えるタイミングを見つけられへんかった。そやで、って軽く言えばよかったんか。

「お前が俺に惚れてて、俺もお前が好きやったら、相思相愛やろ。それってすごく……楽やんか」

「楽ってなんや。幸せってこと?」

 怜司の話してることの意味が、分かるようで分からへん。俺は用心深く、怜司の目を見上げて聞いた。

「幸せかは、よう分からんけど。でも、辛くはないやん。苦しまんでいい。俺は楽になりたいんや。せやし、お前でええわ、信太」

 さっきと同じ話を繰り返して、怜司は幸せとはかけ離れた顔つきやった。

「怜司」

「俺は高望みはせえへん。心穏やかに面白おかしく暮らせたら、それでええんや。お前にも何も望まへん。時々ここに来て、二人で会えたらそれでいい。他のと寝たきゃ、やってかまへん。俺もそうするし……」

「怜司、俺、お前に他のと寝たいとか、なんも言うてへん」

 もしもお前が、もう帰らんといてほしいと言えば、そうしたかもしれへん。

 そやけど怜司はいつも、事が済んだら俺をさっさと帰した。急いで帰らせなあかんみたいに。

 今日は誰か来るんか。俺がいたら嫌か。

 初めは、そう聞きたいような気がした頃もあったけど、そんなもんは愚問やと思えて、聞いてみたことはない。怜司はいつだって引く手あまたや。俺一人だけと仲ようしとう訳やない。

 神戸に初めて俺が来たとき、俺はボロボロやった。いま思うと、死にかけてたんかもしれへん。

 蔦子さんは怜司に、この子を慰めておやり、と命じた。怜司は蔦子さんの式や。ご主人様がそう命じたら、拒めへん。

 怜司はしばらく俺と一緒にいてくれた。俺が放っといても死なへんようになるまでや。昼も夜もなく、ずっと裸で抱き合うてたわ。怜司の肌のぬくもりと、甘いキスで、俺は救われたわけや。それで惚れたらあかんのか。惚れへんほうがおかしいやろ!

 でも、傷が癒えたら、もう平気やろ、帰ってええでと怜司は言うた。出て行けという意味やった。

 その時、俺に、帰りたくないと言う勇気はなかったんや。お前のとこが、俺の帰るとこなんやと思ってたんやけど。なんや、違うんか、って、びっくりしてもうて。

 怜司は俺に惚れてる訳やない。蔦子さんの式やから。主命に従い、俺の面倒見ただけや。

 でも今はもう、お前の意志やろ。俺と居とうて、一緒に居るんやろ。もう、帰らなあかん訳はないよな。

 そやのになんで、お前はいつも、俺に帰れて言うんやろう。

「なんやねん信太、話、噛み合わへんな……」

 ふいと目を逸らして、怜司は呟いた。

「俺、帰らなあかんか。面倒くさいわ」

「肉食うたら帰って。ベタベタされるの好きやないんや。俺はそういうの、せえへん。深入りしたら、ろくなことにはならへんのやから……」

「怜司」

 俺、お前が好きやった。一緒にいると楽しかった。ずうっと一緒にいたい。お前と。同じところに帰って、一緒に寝たい。そう思ってた。お前もそう思ってくれへんか。

 二人でいたら、幸せになれるかもしれへんやん。今すぐは無理でも、いつか。

 いつかは。

 そう思てた時もあった。ずうっと前。

 今はもう、あんまり期待もしてへん。こいつは、こういう奴。ただ俺がアホすぎて、諦められへんだけ。

 諦めなあかんのやろうなあ。怜司は誰も、好きにならへん。なったとしても、今ぐらいが限界なんやろう。

 そう思って見上げた怜司の目が、なんや変やった。またか。こいつは時々、正気でないような目をする。

 何もない空中を見てる。こいつにしか見えないもんがあるんやろうな。

 そういう物の怪なんやもんな。

 おぼろて言うてましたわ、昔はって、蔦子さんが言うてた。そやけど、その名はもう使つこてまへんのや。今は、湊川怜司。ラジオとか、テレビとか、そういうものを操れるんどす。人の噂を。

 その話そのままに、怜司はベッドに起き上がって、なんやテレビのリモコンでも触るような仕草をした。そしたら何もない空中に、でかいテレビ画面みたいなのが、ぱっと点いて、ちょうどワイドショーめいた報道番組をやってるとこやった。

 うわあ。俺、思ったより寝坊してもうてたんやなあ。もうこんな番組やってる時間なんや。帰らなあかんな。早う、帰った方がええわ。

 悪い予感がしたんや。すぐ目の前にある怜司の背中を見てると。

 その画面を見てる怜司の背中は、微かに光って、どことなく透けてるようやった。

 テレビは大阪のニュースをやってた。あっちこっちで野良犬どもが暴れてて、狂犬病で人が死んでると。その犬が、なんと今度は京都にまで現れたと。

 それともこれは、野犬騒ぎにかこつけた殺人事件なのか?

 死んだのは京都の芸大の女子学生やった。学校の中で死んでたんやって。めっちゃくちゃに食い散らかされて。どんなでかい犬がやったら、こうなるんやという死に様やったという話や。

 重要な情報を知る同級生に取材するいうて、興奮した口調のリポーターが、背の高い学生に突っ込んでいってた。

 えらいええ顔した男やわ。どことなく、蔦子さんに似てる。蔦子さんに……。

 その顔が大写しになった所で、凍り付いたように空中の画面が静止した。怒りをこらえたような男の目が、こっちを見ていて、その視線に射すくめられたような気のするやった。

 なんでやろう。俺は何も知らんかったはずやのに、こいつやと思った。

 怜司がいつも見てたんは、こいつや。俺と見つめ合うとき、怜司はいつも遠い目をしてる。お前は誰を見てるんやろう。俺やない誰か。

 お前が泣きながら縋り付いて、もう二度と離さんといてと懇願する誰か。

 お前が忘れたい、誰か。

 でも絶対に、忘れられへん誰かや。

「暁彦様やわ……生きてたんや……」

 俺が聞いたことない、呆然とした声で、怜司が呟いた。

「生きてた……」

 怜司の背中は震えてて、その震える手が、顔を覆うのが見えた。

 ものすごく押し殺された、嗚咽とも喘ぎともつかない微かな声が、怜司の喉から漏れるのが聞こえた。

 それを聞きながら、俺は後悔した。

 帰っとけばよかった。そもそもなんで来てもうたんやろう。

 今朝ここにいて、今、目の前にいる怜司の背中を見ていなければ、俺ももうちょっとの間、アホみたいに悩めたかもしれへん。

 怜司は俺が好きやろか。俺と、一緒にいてくれるやろうか。今日はもう、帰るのやめようかな。もしそうしたら、お前は、どう思う? 俺のこと、愛してる?

「生きてた」

 怜司が振り返って俺を見た。

 その顔から目を逸らすのに、俺は失敗した。

 怜司が愛を理解できへんというのは嘘や。お前は認めたくないだけや。自分が人間を愛してるってことを。

 だって。お前いま、誰かを愛してる目をしてる。俺が見たことない、その目。

 その目で、お前が俺を見ることは、今までいっぺんもなかった。初めから、終わりまで。今日の今まで一回も。

 それで分からなきゃ、さすがに俺もアホすぎるやろ。

 でも、ほんま言うたら、ずっと知ってた。

「怜司」

 呼びかけたけど、怜司は答えへんかった。気のせいではなく、怜司はその時、この世のどこでもないところを見つめていたんやろう。

 俺にはもう、手の届かないどこかやった。

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