三都幻妖夜話 六甲アイランド編
椎堂かおる
第1話
その日は朝から雨やった。大阪あたりが騒がしいと蔦子さんが言うんで、一人で大阪をぶらついて来た帰りやった。
信太、目立たんように電車で行って、人の話も聞いてきとおくれやす、という蔦子さんには逆らえず、はいはいと阪神電車で行って来たけども、目立たんようには俺には無理やった。バリ目立つ。金髪やしアロハやし、バリバリ目立つ。
けどそれは、しょうがないんや。なんせ俺は派手好きの虎なんやもん。
学校帰りの女子高生に電車でものすご引かれたが、それでもにっこり笑うといた。
怖い? まあぁ、怖いか。そらしゃあないわ。妖怪なんやし、怖くて普通や。そういうもんやで。
くわえ煙草で夜道を歩きながら、電車でビビってる乗客たちの顔を思い出すと、苦笑が漏れた。
噂話を聞くどころやない。俺にそんな仕事を言いつけるとは、蔦子さんは何を考えとうのや。噂ていうなら、もっと適任の奴がおるやんか。なんで怜司を使わへんのや。
今日のあいつは、暇なはず。仕事もないし部屋に居るて言うてた。
何もする事ないし、部屋で一人で酒でも飲んどくわって。
俺も暇やし、行ってもいい?
そう聞いたら、怜司はふふんて
まあな。俺も暇やていうのは嘘やけど。えらい遅なってしもたけど。
大阪で、何か起きとう。犬が暴れとう。腹を空かせて、人を食うとうわ。
何でそんなもんが急に。
蔦子さんには、大阪は管轄外や。そやけど甲子園から見て、大阪は目と鼻の先。暴れとう犬が、ちょっと神戸も行ってみよかて言うようなら、迎え撃てということなんやろう。俺が。
ま、そんなもん俺の敵やないけどな。たぶん。なんせ、俺はバリ強いタイガーなんやし、今年は阪神も絶好調、負けるような気がせんわ。少なくとも、腹減って暴れとう病気の犬なんかにはな。
しかしその、病気部分が厄介や。狂犬病やて人間たちは噂しとうわ。
狂犬病か。それは強いタイガーかて、ちょっと用心してかからなあかんな。犬はこの後、どうするつもりやろ。
それを占うのは蔦子さんなら朝飯前とちゃうんかと思うが、ご主人様はいつものダンマリで教えてくれへん。
怜司にでも聞くか。というのが、今回の口実や。
怜司に会うのには、なぜかいつも、口実がいる。ただ会いたいから会うんでは、あかん気がする。
自分につく嘘が、いつも必要や。
いつから、そういうふうになったんやろうな。
マンションのエントランスで部屋番号の数字を押して、インターフォンを鳴らすと、誰かが答える前に、入り口の銀色のドアが滑るように開いた。
ドアの向こうには、間接照明だけの薄暗い廊下が続いてる。
このマンションには、人間は住んでない。元々は誰か住んでたんやろうけど、怜司が追い払ってもうた。幽霊が出るって噂が流れて、みんな引っ越してもうたんや。
なんか居るような気がしたことは、俺には一度もないけど、まあ、怜司自体が幽霊みたいなもんやからな。あいつが住んでりゃ十分か。
廊下を進むとエレベーターがあって、まだ呼んでないのに、そのドアもすうっと音もなく開いた。まるで俺を待ってたみたいや。
案外ほんまに待ってたんかもしれへんな。今日行く言うたし、怜司は俺を、待ってたんかもしれへん。
そうやといいけど。会っていきなり、帰れて言われたら疲れるわ。
そう思いながら、俺は夜景の見えるガラス張りのエレベーターから、ひと気のない六甲アイランドを見下ろした。
海の上に紙一枚敷いて住んでるような、不思議な街や。
この島は、海を埋め立てて作った人工島で、なんでかいつもガラガラや。人が少ない。
マンションとか家もあるし、でかいホテルや学校もあんのに、なんでかいつも閑散としてる島や。
怜司はなんで、こんなとこ住んでんのやろ。人がいっぱいいる場所が好きな奴やのに。
蔦子さんに仕える式なんやし、皆と一緒に甲子園の家に住めばええのに。その方が楽しいで。毎日会えるし、毎日やれるやん。ナイターかて一緒に見られるんやで?
俺も皆も、いつもそう言うとうのに、怜司はな、アホか、お前らとナイターなんか見たないわ、て言うねん。あいつ俺らのこと嫌いなんか。
そういうこと言われると、俺は割とストレートに傷ついてまうんやけど、あいつは俺のそういうナイーブな虎なところが全然分かってへんのと違うやろか。
それとも、わざと言うてんのかな?
蔦子さんは訳知り顔で苦笑いするだけで、何も教えてくれへん。
俺は切ない。
そして、エレベーターが異常に長い。
どこまで行くねんコレ。成層圏まで突き抜けてんのとちゃうか。
怜司が
そやのに、あいつが来るなて言う時は、無理に押しかけようったって、そもそもエントランスのドアが開かへん。そこを無理やり押し入ったところで、エレベーターが最上階に着かへん。降りたら屋上やったり、また一階に戻ってたりする。
会うかどうかは、あいつが決める。俺でなく。
ずうっと前から、そういう関係や。なんて俺は、立場の弱い虎や。
俺ら友達ちゃうんか?
ちゃうわな。
少なくとも、こういう関係は、友達とは言わへん。
ピン、と微かな電子音を立てて、エレベーターが止まり、滑るようにドアが開いた。開くとそこは廊下ではなく、そのまんま最上階の部屋の玄関やった。
怜司の部屋はいつも、誰もいないみたいに片付いてる。雑誌か映画に出てくるような、格好のええ部屋か、モデルルームみたいに見える。
あいつは霞か人食うてる妖怪なんやし、生活感とかないんやろ。飯もあんまり食わんしな。腹に入れるもんて言えば、ほんまに酒ぐらいやないか。
そう思いながら、勝手に上がりこむと、広い玄関を抜けるアーチの先の、さらにだだっ広いリビングルームに、怜司はいた。
ものすごくデカい壁一面の窓があり、一枚ガラスが嵌め込まれている。それに続く大理石の階段に、怜司は座り込み、タンブラーに入った琥珀色の酒を飲んでいた。
酔っているような乱れた気配は全然ないけど、怜司が酔っ払ってるような気がした。
窓から見える朧月が、ちょうど満月やった。雨上がりの夜空に、潤んだようにかかっている。
「もう来えへんのやと思たわ」
別に責めるわけでもない、さらりとした口調で、怜司は俺を見るなり言うた。
でもたぶん責めてんのやろな。
答える代わりに、そばに行って、俺は手土産に持ってきた冷えたバドワイザーの瓶を、怜司の真っ白な頬に押し当てた。
「やめろ、もう、何やっとんねん濡れるやろ」
二本ある瓶をうるさそうに押しのけて、怜司はやっと刺々しい口調になった。
それが面白うて、俺は思わずにやりとした。
「今さらビールなんか持ってきても飲まへんし」
呆れた風にいう怜司の持ってるタンブラーには、確かにもっと強い酒が入ってる。今さら薄いビールなんか飲む気はせんやろうなあ。
でもお前、これ好きやん。なんとなく、手ぶらでは来にくくて、途中で買うてきてん。
「今日は一人なんか。寛太は」
「家におるよ。竜太郎とナイター観てるんやないかな」
「お前もそうやと思てたわ」
夜景のほうに目をやって、怜司はタンブラーに残ってた酒を一気に空にした。
怜司の座る段の上には、空っぽのタンブラーがもう一個あった。
俺のかな。俺のやろうなあ。
そう思うと、なんや、にっこりしてきた。
怜司、俺のこと、待っててくれたんか。
「大阪行ってたんや」
怜司の隣に腰を下ろして、俺はバドワイザーの瓶の蓋を開けた。シュッという音と一緒に、麦の匂いがした。
開けた方を差し出すと、迷惑そうな
乾いた喉にはビールが美味いわ。
「知っとうか、怜司、大阪の狂犬病の噂」
「知っとうわ。誰にもの言うとうのや」
「怖!」
マジ怖い怜司の口調の冷たさに、俺は笑い声を立てた。
怜司めっちゃ怖い。いつもそうや。怒ってると、酷薄そうな横顔がなおいっそう綺麗で、なんかこう、胸の奥の方がぎゅうっとなるんや。
「はよ、やろうよ、信太」
間近に俺を見つめて、それでも怜司は遠くを見るような目をしていた。薄い鳶色の目はいつも、どこを見とうのか分からん感じや。
俺を見てるのか、どうか。全然、分からへん。
「来たばっかりやん」
「他に何すんの」
「話すとか」
俺は怜司の目を見て真面目に言うた。でもやっぱ、怜司は俺を見てへんみたいに見える。息に香る酒精に酔えるぐらい近くにいても。
「お前とは、あんまり話したないねん。黙ってやろう」
怜司は苦しそうな伏し目になって、俺にキスした。冷たい唇やった。
そのまま怜司が俺の服を脱がすのを、夜の窓が写していた。真っ暗な世界に、阪神高速湾岸線の輝く橋が見えた。天空を走るような一直線の橋がきらきらライトアップされていて、その背景には神戸の夜景と、六甲山が見える。
綺麗やな。
怜司はたぶん、この景色が好きで、ここに住んでんのやろな。
別に俺や、甲子園の家が嫌いやからやない。
ここで二人で会うと、怜司はまるで俺が好きみたいな顔をする。一瞬やけど。ときどき。
それが見たくて、ここに来る。
俺は別に、お前とやりたい訳やないねん。そのへんはお互い不自由はしてへんはずや。
俺はほんまはただ、お前と座って話したいだけなんや。
お前がほんまは何を考えてんのか、教えてほしいんや、怜司。
「焦らしてんと早うして信太。なんも考えんでもええようにしてくれ」
怜司は俺を床に押し倒して、縋り付くような目をしていた。
それや。その顔。めっちゃそそる。お前のその、俺がいないと死にそうな、思いつめた目。
俺はずっとお前が、俺のこと好きなんやと思ってた。
そう思おうとしてた。
そやけど、そういう時のお前は、ほんまは俺を見てない。それに気づいたん、いつやったかな。もう、ずうっと前や。憶えてる限り、ずうっとそうやった。
初めはそうやなかったんやで。愛想のええ奴やった。いつもにこにこ機嫌がようて、誰にでも優しい。誰にでもモテるしな、皆に分け隔てなく、愛されてる。その愛にいつでも怜司が答えてくれるような気がして、俺もそれに、癒されてたんや。
こいつが変やと思うようになったんは、もうお前は大丈夫やでという話を、怜司が俺にしてきた日からやった。その日まで、怜司は俺のこと、仕事として面倒見てた。蔦子さんが、世話せえ言うたし。役に立つ
そやから俺が五体満足な虎に戻って、使えるようになってもうたら、もう、怜司はお役御免や。俺が好きで、付き合うてたんやないんやな。
俺はその日は、ほんまびっくりしたわ。だって昨日まで、俺が好きみたいやった怜司が、さあもう帰ってくれて、言うんやで。いきなりやで。恋人ごっこはもう
俺は別に、ごっこ遊びでお前と寝てたつもりはないで。遊びでもない。俺、本気やったんやで、怜司。そんな奴、お前には別に全然、珍しいことないんやろうけどな。
お前が飼うてる連中も、皆、甘い夢見てる。怜司が自分に本気やて、騙されてんねん。お前にだけは本気やでって、別に怜司が言うわけやない。でも、そうなんかな、って、思うねん。それがこいつの演技やとは、思えへんのや。その仕事が終わる瞬間まではな。
俺も怜司に金払うて、抱かせてもらえばええんかな。一晩いくらで、夢見せてって頼めば、怜司は何でもやってくれるで。
でも、俺が欲しいのは、そういう金で買える愛やないしな、怜司も俺とは嫌なんやて。客は選びたいんやって。別にもう、金に困ってるような身分やないし、別にそんなことせんでもええんや。ただの趣味、古い昔の習い性やし。寝たい奴と寝る。それやと足りん、もっと笑えていう奴には、しゃあないし、金払えばもっと愛してやるよって、言うんやて。金額しだいでな、金積めば、もっと優しいしてくれんのやって。
でも、そんなん、嘘やんか。ほんまの愛やない。お前がほんまに笑うてる顔やない。
いくら綺麗で、見とれるほどでも、俺が見たいのは、お前がほんまに笑うてる顔やねん。
そう頼むと、怜司はそれには値段のつけようがないわと、困った顔して笑うてた。
ほなお前は、客やない。ただのツレ。寝たい時には寝たるけど、俺の彼氏面すんのはやめて。お前はそういうのやないんや。それでもよければ、遊んでやるわ、って。
それでもええわって、俺、言うたんやった?
憶えてへんわ、もう。それがもう、何十年も前やねん。何十年ももう、この状態なんやから。
こいつが信太来いて誘えば行くし、誰かと三人でやろう、五人でやろうて言えば、それもええか、って。別にこっちも、そんなん無理やていうような、お綺麗な育ちはしてへんのやもん。
俺も異国の宮廷の虎やねん。そりゃあいろいろありますよ。人間の欲には切り果てがないしな、酒のんで酔うて、妙な薬で酔うて、到底食いきれんようなご馳走に塗れて、朝まで誰とも知れんような相手と、とっかえひっかえ抱き合うような夜も、そらあるよ。何度となく。
でもそれで、何か満たされるかていえば、そうやないやん。楽しいだけ。宴が終われば、散らかった部屋と、何か知らん底知れん虚しさが残るんやんか。
誰が俺を、愛してくれんの。俺は誰を、愛したらええんやろ。見つめ合うて笑う、そういう子供みたいな愛でええねん。その時、俺の手をとって、笑うてくれる誰かが、たった一人居れば、それで幸せになれる。
そういうもんやない?
何言うてんの信太。とんだセンチメンタルな虎やなあって、怜司が笑うし、俺はその話は、一回しかしたことはない。一回はあるんやで。
もう忘れてんのやろうけどなあ。怜司。
自分はお前のそういう相手やない。他をあたってくれって、言うてたわ。
あたったことないねんけどな。他を。
怜司が違うんやったら、他はもうええわ。もう、探そうと思ってへんのやもん。そんなもん、何百年も探してられへんのやで。諦めるほうが早い。
愛なんて、一瞬の気の迷い。たまには見つめ合うた人間や、物の怪の目の奥に、よぎって消える時はあるけど、それは、振り返ってみたら、ほんの一瞬の出来事ばかりや。
たった一瞬やけど、忘れがたく熱い、そういう想いが、永遠やったらええなって。思うんやけどな。おセンチな虎やから。
でも無理。怜司が用があるんは、俺の心やのうて、体だけやから。
あいつの愛しいご主人様をな。思い出すのに都合ええ。相手死んでて、もういてへんねん。思い出とは寝られへんやん。それでも俺はまだ生きてるし、代わりにやれって話やん。
俺はほんまに胸糞悪いんや。後ろで抱いてって言われると、絶対嫌やってなるんや。そら嫌やで。なんでそう言うか知ってるんやもん。それでいつも、五分十分、甘い格闘やん。どうやってやるか。俺はお前の顔が見たいんや。前向いてやろう。せめて横向いてやろう。他でもええけど、あれでもこれでも、とにかく顔見てやろう。俺の目を見ろ。頼むわ怜司、よそ見するんはやめてって、いつも頼むんやけどな。
無理無理。怜司には勝たれへん。あいつが後ろや言うたら後ろ。たまには情けで、こっち向いてしてくれるけど、それは特別大サービス。あいつ、それやと何も感じへんらしいんやわ。
そういうふうにできてるんやって。体が。客に抱かれて、そう簡単には逝かへんように、なってんのやて。
だって、お前、俺が往時、一日何人とやってたと思うんや? 毎回ええわあ言うてたら死ぬわ。こっちは相手の精気を吸うて生きてんのやで。毎回出しとったら飢えるやろ。フリでええんや。どうせ誰も気づいてへん。金払うて抱こかなんていう奴らはな、相手がどうかなんて、一個も思てへんもんや。適当に喘いどいてやったら、ほんまにええんやと思い込む。それで十分足りてるわって、怜司は怒って言うて、お陰で、ええご身分になった今でも、相手を厳選せな、全然気持ちようならへんのやって。
笑うわ。怜司、めっちゃやるのに、何も感じてへんのやで。ほんまは好きやないねん。セックスが。おかしいなあ、めちゃめちゃセックスマシーンやのにな。
お前は上手いよな、信太って、俺は時々、褒めてもらえる。厳選された相手の一人やからや。多分今は、俺しかおらへん。俺はそう、自負してる。何でか言うたら、いくら俺と揉めても、大喧嘩しても、怜司が俺を振らへんからや。俺と離れとうない。あいつがそう思うんは、あいつが時々、欲しいてたまらんようになる、あの人に抱かれてる心地にしてくれる男が、今は俺しかおらへんからや。
独占市場やで。そうかて、全然何もええことないけどな。
今日も
長い付き合いやな、この骨と俺は。怜司はここ、感じる所らしいわ。骨に沿って舐めると、すごいゾクゾクしてるしな、俺と体を繋げてる、中のほうも違う。熱い。あいつがいつも隠してる、誰にでもは絶対触らせたくないところが、触ってくれって、解けてくるんや。
そういう場所は誰にでもあるねん。ただそれが、ちょろい奴と、怜司みたいに、何重にもロックされてて、めったな相手には触れさせへんようになってるやつが、居るだけで。
そこに触れていいって、怜司がいっぺん体を許すと、あとは熱い息が喘ぐ、めくるめく世界やで。怜司は別に何も感じへん体なわけやない。誰にでもいかされるんは嫌やっていうだけや。
案外、固いんやな。そういう変な純情が、怜司にはあるんやで。
それ言うと、帰れ! て怒鳴られるしな、もう言わんのやけどな。
でもちょっと、可愛いやろ。
思い出し笑いして、俺はずっと怜司のその、気持ちええとこ責めてやってた。
ああ、今夜もええ感じやで。段々、燃えてきたやん、怜司。中も全然違うてる。まるで俺が好きみたいやで。床に爪立てて震えてる、お前の白い手に、痩せた骨が浮いてるのを見ると、我慢せんと喘げばと思う。演技やない、お前のほんまのええ声出して、俺もええ気分にさせてくれよ。
そやけど大体、怜司は意地張って、堪えてて、やっと鳴くようになるんは、もうあかんていう頃合いや。ほんのちょっとの間だけやで。気難しいて、下手すりゃ何時間も励むのに、ええわあ言うんは、ほんのちょっとの時間だけやん。まあそれが、天国の時間やけどな。
「気持ちええわ信太」
急に怜司が、俺に負けたみたいに、絞り出す声でそう呻いた。めっちゃ甘い声やった。
「あかん……もっとして……」
「まだまだ余裕やで。安心して」
汗かいて滑る怜司の背を抱いてやって、軽く反ってるポーズの耳元に、大丈夫やでって教えてやった。お前が普段相手にしてる、下手くそどもとは、俺は違うんやで。お前がどうしてやったら、ええ気分になれるんか、俺はそれはそれは深く知っとう。研究した。お前が、ああもう死にそうっていう、あれとかこれとか、いくつか手はある。安心して俺に抱かれて、体預けてくれたらええんやで。
あとは心も預けてほしいけど、それは無理か。それはプライスレスなんやもんな。
お前の心は、もう誰かが、盗んでいった後で、もう、空っぽやねん。
俺の嫌いなあの名前を、もうすぐお前が呼ぶやろう。こうして段々、熱く濡れて、昇りつめる階段の途中、あと何段目くらいかな。ゴールが見えてきたな、ていう頃合いになると、お前はいつも叫ぶ。
「暁彦様……!」
小さい悲鳴のような、押し殺した声で、怜司が泣いてた。
俺はそこで萎えんようにするのに必死や、いつも。ここで止めたら、ぶっ殺されるで、後で。この、役立たずの虎め! あとちょっとやったのに! 何してくれてんのや、このドアホ!
あかんあかん、それを思うと、さらに萎える。もっと怜司の気持ちええことしよう。いやらしい声で泣かせよう。俺が心底、そそられるような、怜司の甘い声。上気した肌の匂い。指に触れる、興奮した体のあちこちの、今はもう無抵抗な、敏感なところとか。
そういうものだけを見て、俺は耳を閉じる。怜司が口に出す、お前が好きやっていう話。もう、離さんといて。お前とずうっと一緒にいたいんや。俺を遺して、ひとりで逝くんは、もうやめてくれって、お前が誰かに言うてる声が、俺の脳みそまで届かへんように。
俺こんなん嫌やで。正直言うて。別に全然嬉しいないし、気持ちよくもない。でも他に、怜司と肌を合わせる手もないし、自分だけ
それに比べたら、まだ、ほんまに感じて、泣いてるほうがマシ。少なくとも怜司はほんまに夢心地なんやわ。俺は地獄みたいやけど、でも、体は気持ちええやん。出せばスッキリはするで?
頭はモヤモヤするけどな?
さあ。今夜も、そろそろ頭モヤモヤしよか。怜司が悲しい声で泣いて、ひとりで早々に逝ってもうたわ。こいつほんまに俺を待たへん。独りよがりなんやしな。ほんまに玄人なんか?
暁彦様はそれで良かったんやってな。めちゃめちゃ上手うて、体も合うし、ただ夢中でやれば、お互い
そんなこと、言わんけどな。もう。怜司が泣くとこ、見るの嫌やし。
頭モヤモヤしよか。俺がまだ、萎えへんうちに。この上さらに欲求不満になるんは御免やし。
俺もいっとくわ。怜司が正気に返って、もう出て行けて言う前に。
俺、最高に可哀想やんな。ほんま自分でも泣けてくるわ。泣いたことはないけど。泣いてええなら泣きたいで俺も。
泣きそうにいい、怜司の体を貪って、最後の坂を駆け上がるものの、何となく、残飯食うてる感のある
ほんまにつらい。俺は悲しい。こんな悲しい気分でいってる男、そう居らんで、きっと。俺くらいやろう。そうでもない? 皆さん似たような苦労はなさってるんですかね!
もうほんまに、毎回やけくそ。俺は怜司の体を好きなようにして、中にめちゃめちゃ出してやった。それでも別に平気やしな。こいつ妖怪やもん。もともとそういう奴やねん。
まあでも、たまに運が良ければ、怜司が狂わへん回もあるわ。けっこう最後のほうまで、信太、気持ちええわ、ああ、どうしよう、どうしようって、言うてるときもあるねん。
可愛いで、怜司。そういう時は。
どうしようって、何がどうしようやねん。悦べばええやん。俺やったらあかんのか、クソ。
ああ、今夜もまた超絶微妙やった。ものすご頭モヤモヤした。モヤモヤするぜ畜生。
怜司はまだ、肩でぜえぜえ言うてて、まだ呆けてんのかなって思える、呆然の死体みたいやった。よっぽど疲れるんやろうな、怜司は。何にか知らん。たぶん。幻に。
俺らこれでええんかなって、また二つの身に別れ、俺が煙草吸おうかなって思うてると、急に怜司が俺の手を握ってきたんで、びっくりした。何かすごい、優しい指使いで、まるで俺の恋人みたいやったわ。
まだ夢見てんのかと、俺は怖くて、怜司の顔を見んようにした。俺に愛しいあの人の代役までさせんといてくれ。それは無理やわ。勘弁してって。
「
怜司が、くたびれきった薄笑いで、そう言うんで、俺はまたびっくりした。お前、もう、正気やったん。
「今抜いたばっかりやで」
「おぼえてへん……」
苦笑して、怜司は正直に言うた。記憶がな、とぶんやって。
暁彦様、暁彦様言うてる時の怜司は、記憶がないねん。
おぼえてへんのかよ、お前。俺が今回、何十分頑張ったと思う? いちばん肝心のとこ憶えてへんのやん。もう嫌んなるわ。
腹が立つより、可笑しいなってきて、俺は笑いながら、まだうつ伏せで寝てる怜司の横に倒れた。
もうちょっと待って。いくら化けもんでも、そうすぐには
「次はお前がサービスしてよ。俺もう嫌んなったしな」
ちょっとごねつつ、俺が寝転んで煙草を吸うと、怜司はこっちに顎上げて見せて、自分にも吸わせろて、無言で言うた。その唇に、吸付け煙草を押し込んでやって、俺は怜司の頬にキスした。
半眼の
「なんでもええわ。吐くまでやろ。お前とは、抱き合うてる時が一番好き」
俺に煙草を返してきて、怜司はぼんやりと言うた。
「いろんなのと寝たけど、お前がいちばん上手い。というか、優しいよな、扱いが。お前と寝ると、俺も自分がちょっと、マシなやつになった気がするわ」
真面目に言うてる怜司が、ちょっとアホみたいで、俺は苦笑した。
それは俺が、お前のこと愛してるからとちゃう?
他にもお前のこと好きな奴がいっぱいおるで、お前がそれを無視してるだけ。啓ちゃんとかな、お前のこと割と好きやで。あいつお前を虐めんの? そんなことせえへんやん。
お前が俺と抱き合おうて、マシな気分になるんやったら、それはお前も俺が、好きやってことやで。そうやない?
まあ、そんなん、言わへんけどな。言うたら、キレた怜司に、窓から突き落とされる。案外、照れ屋さんやからな。
「ベッドいこか」
煙草を灰皿で消して、俺が誘うと、怜司は頷いた。
「そやな。ここ膝痛いわ。次はベッドのほうがええな、後ろでやる時は」
「また
俺が愚痴ると、あははと怜司が珍しく、声あげて笑った。
その顔が、天井見てるだけやったんが、俺にはすごく悔やまれる。
「キスしてくれ信太。お前のキスは甘くて好きや」
ねだる怜司に、嫌やていう気もなくて、俺はまだ煙の臭う、怜司の唇に触れた。そして引き寄せてキスすると、それがものすごく甘い。甘い味がするような気さえする。たぶん錯覚なんやけど、ただ唇が、息が、お互いに触れるだけで、何か猛烈に甘く、痺れるような多幸感があって、やめられへんようになるんや。
それは愛の味やないんかな。俺は時々そう思うんやけど。
でも怜司に言うてみたことはない。違うわアホって、言われたくない。そう言われへん限りはまだ、俺と怜司は恋人同士やない?
なんせキスに、愛の味がするんやしな。まあ、とりあえず今は。時々は。
怜司。めっちゃ好き。俺のこと見て。今だけでもいい。そう思ってキスを解くと、怜司の目が、俺を見ていた。
俺を、見てた。
そして、お前のこと好きやでって、言えたら。
この物語も、ハッピーエンドになるんやけどな。
「ベッドいこ。次はお前を悶絶させたる」
歯を見せて笑い、怜司は嫣然と言うた。やばあ。俺、殺されるんやわ。
怜司に手を引いて連れ去られながら、でも俺は、ちょっと思うた。
あともうちょっとの間、お前とキスしてたかったな。あの窓で。甘い味のするキスを。
「脳みそドロドロなるまでやるで。頭真っ白にして」
そう言う怜司に俺は苦笑した。お前はいっつもそうやな。
俺の気持ちなんか、全然考えてくれへん。
それでもお前と抱き合えるんやったら、まあええかって、俺は思うてた。
そうまでしても離れたくない想いが、まだ胸のどこかにあって、燃えて溶けそう。その熱が、まだ、愛やないって、誤魔化せるうちに。いっぱい怜司とキスしたいねん、俺は。
それがあと何回かは、まだ知らん。考えたらあかん、何も。
頭真っ白にして、何も考えへんように。目も耳もない、俺は怜司のお人形さんやで。
抱かせて。今夜も、お前がまだ、正気のうちに。
そう祈って、俺は暗いベッドルームの冷たいシーツの間で、怜司の体を抱きしめた。
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