ビール瓶どころではない
三科まさみこ
川内関が入場したとき、八方から湧き上がる歓声は熱狂に変わった。若干十九歳の大関は能面のように微塵も顔を変えない、それが彼の纏う年齢に釣り合わない貫禄の一因でもあった。色白い皮下の鎧の上からでも垣間見える筋肉質な肉体は力士の神の恩恵を受けていた。血の気が引いたように白い皮膚と瞳に宿した藍色の瞳を除いては、日本人特有の堀の浅い一重瞼であり、無愛想な性格も相まって力士の間では白カバ、白蛇と呼ばれていた。 その不気味さは神聖さすら感じられた。十七のとき初めて土俵に立った時から意図的に自身を鼓舞させても無駄だと理解していた。その心意気は初めて優勝決定戦に臨んだときも、そして最後の昇進、十代での横綱という名誉が掛かっている現在ですら。一瞬、視界を大漁旗が掠った。観客を見渡す。現に以前は高齢者が会場を七割ほど占めていたが今では老若男女の顔ぶれが両国国技館を満たしている。時の総理大臣と天皇も会場にいた。川内関は顔ぶれの中に同郷らしき人間がいないことを確認し、四股を踏んだ。
ふと対戦相手である加隈山関の姿を見る。齢は二十三、純粋な日本人の血を引いているという。彼もまた川内と同じく次期横綱候補であった。体格こそ外国人力士には劣っていたが、相手の動きを見切り、逆手に取る、一種の動物的なセンスは芸術の域と評されていた。相撲業界の主役は今や横綱ではない、二人の大関の躍進そのものであった。二十一世紀以降、相撲は最盛期を迎え、国技としての威信を取り戻していた。土俵に入った加隈山関は堀の深い、二重瞼を川内に向け、威圧するように一瞬眉をあげた。いつもの仏頂面で返すと彼の顔は元の清々しい男前に戻った。会場で確かに聞こえる黄色い歓声はほぼ全て加隈山に向けられたものだった。企業スポンサーも川内の三倍以上を有していた。川内は加隈山に勝てたこと、つまり白星をあげられていなかった。しかし、川内は恐怖を覚えていなかった。対戦の火蓋が近づくにつれ、観客の歓声の総和は金切り声に代わっていた。会場では既に座布団が投げられている。二人はこの熱狂の渦の当事者であることを無視し、ただ無心に取組への手順を進めた。
加隈山が川内の容姿とは対照的であったせいか、相撲界をけん引する二人の大関は虎と大蛇という比喩が定着していた。マスコミはライバルに仕立て上げ、国民を扇動させるような報道をするのが常であった。しかし、いざ二人が対戦するとなると、ピークに達した報道をあざ笑うかのように取組はあっさり幕を閉じた。現在までの対戦戦績は川内の五戦全敗。どの対戦でも川内関が土をつけた。 『川内関は加隈山関との対戦を苦手としている、先に横綱になるのは加隈山関である。』それがマスコミ、それを真に受けた国民の総評であった。ついに川内が加隈山に四連敗目を喫したとき、根も葉もない八百長疑惑が立っていた。川内はほぼ加隈山にしか敗北を喫していなかった。 加隈山もそれこそほかの力士に比べ、はるかに優秀な戦績を誇っていたが、横綱には四割ほど、稀に格下にすら負けることもあった。しかし、騒ぎ立てていたマスコミも遂には物的証拠も押さえられなかったので噂は風に流されてしまった。
川内、本名イヴァン・ヴォロフロフスキーはウラジオストクの出身だった。十五歳のころ、相撲の経験すらないまま今の親方部屋の門をたたいた。このころはまだ筋肉質ではあったがまだ体格は出来上がってなかった。何故入門したのかを訊かれると彼は既に出来つつあった仏頂面で、横綱になりたかったから、とぎこちない日本語で答えた。それまで彼が相撲の試合を観たのは一度しかなかった。十四歳のころ、偶然見かけた日本人観光客がきっかけだった。それが相撲のファンだった。ウラジオストクにも太った人間はいくらでもいたが、決して裕福ではない老夫婦の唯一の孫息子として暮らしていたイヴァンには鍋を囲むぶくぶくと太った東洋人は衝撃であった。引き取ってくれた老夫婦にはもう迷惑をかけたくなかった、それにこの顔なので日本に移住した方が都合はいいのかもしれない。彼はすぐ力士になる手続きを調べた。入門が決まり、日本に出向くためのフェリーを待っている間、イヴァンはサッカー選手について想いを巡らせた。ふと彼のプレーを初めて観た時から浮かんでいた疑問を思い出した。彼をサッカー選手になるよう仕向けたのはサッカーへの愛なのかと。 故郷を発つ孫息子が乗ったフェリーを老夫婦は涙ながらに見送った。
土俵中央に進み、仕切り線上に立ち、四股を踏む。加隈山は目をつぶりながら一連の動作を行う。それ自体が加隈山にとって『組込』を行うためのルーティンだった。その様相を川内は表情を変えず注視する。小さく息を吐き、吸った空気がひりついていた。それが皮膚から神経に伝う。観客の金切り声に紛れて右耳に入り込み三半規管を微かに揺らす。土俵の砂が微かに震えているのが足の裏から伝わってくる。
過去五回の取組では負けた。屈辱的な黒星であったが今後の大一番のために投げておくべき布石であった。加隈山に五敗目を喫したとき、加隈山は同業者として勝つしかない相手だと悟った。
仕切りに入る。声の出し方を忘れたのか、異様な静けさに包まれる。加隈山の整った顔立ちが目に入る。雑なのをもらったが手の込んだ返答をしておいた。姿勢を低くした加隈山の肉体は意図せずに川内の方へ向かった。加隈山は目を見開いて眉をあげていた。男前の顔は恐怖で塗られていた。川内が鉄砲の構えを取っていたからだ。頭の中が空っぽになる、もう一度彼に組込みを試みる。悪寒がした。冬の、港町のものであった。
元の父は自分の国の血統とは異なる容姿をした子どもに興味を示さなかった。人里離れた港から船を出し、ニシン漁で生計を立てていた。港に近い、壁が破れ、風きり音のする冷え切った六畳間で天井から吊るされたランプが照らした父の姿は抜け殻であった。荒れた父の顔を眺めながらイヴァンは一体何を考えているのか、気になっていた。見えるかもしれない、とイヴァンは眉間に力を入れて、父をのぞき込んだ。それが初めての侵入だった。生きる気力もなく、なりいきで抱いた東洋人の女との子どもを如何にして罪を背負うことなく捨てるかを決めあぐねながら無心に働く人生の嘆きが聞こえた。血の気が引いた。父は心の嘆きを漏らしたにも関わらず静止し、抜け殻であり続けた。イヴァンは放心しながらも父の心に入り込んだことを悟った。以降は毎日返ってきた父に侵入した。三回目の侵入でどうやら記憶から生きる術を得られることに気づいた。その日はニシン漁の手順を取得した。一ヶ月して、イヴァンは家を出た。父は行方不明届を出さないまま、イヴァンが消えた二日後に首を吊った。
加隈山は仕切りの時に対戦相手に侵入して、どう動くかを命令するのが定石であった。結果、彼は相手の動きを読みきって、芸術的な勝利を演出していた。侵入経路次第では侵入に失敗することもあった。しかし、持ち前の容姿で人気が出るにつれて彼の取組には黄色い歓声が上がるようになった。その波長に合わせるように信号を組込み、右耳から侵入する。その方法が最も成功率が高かった。川内は例外なく右耳から入りこんだ加隈山の信号を彼ですら感知できない中耳の神経回路にて潰した。代わりに土俵上の砂を経由して足の裏から侵入した。原則として何かを経由して侵入を行うほど気付かれにくいが、対象に辿り着いたときの信号は弱くなる。川内であるから成し遂げられる芸当だった。耳から二度目の侵入が入った、冷静に潰したと同時に左耳からも入ってきた。油断していた、大半はつぶしたが一部が脳にたどり着いてしまった。信号は海馬まで侵入を許したところで信号は途絶えた。加隈山に記憶を読み取らせてしまったことを悟り、引いた右腕を頬にぶつけた。
分からないことがあれば侵入した相手の脳から引き出せばいいし、都合が悪くなれば書きかえればいいだけだった。 市場で売り子にお金を払う嘘の映像を転送することを覚えてからは食料に困らなくなった。家を出てから最初の冬が近づいていた。雨風をしのげる場所が欲しくなっていた。イヴァンは港近くの倉庫で寝泊まりしていた。ある深夜、港を早歩きで横切ろうとした男に侵入した。彼は密輸船の乗組員だった。裏社会の人間の記憶は決して味わうことのない臨場感にあふれていた。普段より長く二十分ほど詮索した。気づくと肉塊になっていた。男の脳が耐えられなかったのだ。イヴァンの顔から血の気が引いた。慌てて港からから出来るだけ離れ、市街地近くの家に上がり込んだ。自分を匿ってくれる家が必要だと直感した。本能からか、いつの間にか会得していたのか、イヴァンには分からなかった。六十を過ぎたであろう白髪の老婆がキッチンで湯を沸かしていた。視線が合うや否や孫息子である記憶を書き込んだ。その後、その夫の起き抜けにも書き込んだ。度々記憶が薄れるのでその都度継ぎ足した。老夫婦との生活が半年を過ぎると、彼らに引き取られている事実を書類として提出された。イヴァンは学校に通った、先生への侵入は知的好奇心を満たせて楽しかった。放課後は友人たちと遊び、夜は中心街で人々の頭に入り込んで見知らぬ人の思い出を楽しんだ。老夫婦は優等生で聡明であるイヴァンに誇りを持っていた。
加隈山は何が起こったのか分からなかった、身体が機械ように駆動した。突進するよう命じた川内関は減速して腕を引いていた。慌てて川内関へ信号を送ると膨大な情報量の何かが流れてきた。あれは彼の過去か、ならば彼もやはり能力者だったのか。その事実にたどり着いたときは、力いっぱいの鉄砲を頬に食らっていた。脳が揺れる。平衡感覚を失うほどの衝撃だった。天地が逆さになる。いや、三半規管をも操作されているのか。
加隈山は自分が地面に前のめりに倒れるまでの数秒がとてつもなく長く感じられた。侵入した川内の記憶の再生速度との相対差が原因であることは知っていた。意識がまた川内の記憶の方へ飛ぶ。
十歳の誕生日プレゼントとしてもらった中古のテレビをくぎいるように眺める川内関、彼はイヴァンと呼ばれていた。画面に映っているのはサッカーの試合だった。川内は一人の選手のドリブルに魅入られている。ロシアの絶対的エース、加隈山もその選手くらいなら知っていた。イヴァンは驚嘆し声を漏らした。『同業者だ...』ロシア語であったが言葉の意味を理解できた。彼は知りえていたのだ、直感敵であるがほかの能力者を見抜いていた。私のことも知っていたのであろう。彼のドリブルは鮮やかだった。本当にディフェンダーの裏をかいて敵陣地に攻め込んでいるようにみえた。同時に複数人に侵入し、選手を、そして観衆を欺く動作を埋め込んでいた。試合はロシア代表の勝利で終わった。テレビを消したイヴァンは手の平を見つめ問いていた。彼をサッカー選手へと仕向けたのはサッカーへの愛なのか、と
あまりに早い幕切れだったので、一瞬だけ間があり観客は声を取り戻し、座布団を舞わせた。以降は、最年少の横綱誕生の前夜祭のような様相だった。首相が土俵に上がりトロフィーを授ける、あらかじめ用意したセリフなのだろう、『感嘆した』とだけ言った。川内にとってはどうでもいいことだった。加隈山関は土俵降りて拍手をくれていた。案外と理解の早い奴だ、川内は感心していた
観客の前から去ると、同部屋の力士たちが彼を祝福した。軽く応えてから一人にさせてくれと言った、しばらく歩き、ようやく誰もいないロビーに着いて一息をついた。力士としてはエンディングを迎えた。加隈山にも正体を知られた。この先には何があるのか。川内は普段は思うこともない感慨に耽った。突如、背後から気配がした。慌てて振り返る。天皇がいた。 白髪交じりの凛々しい顔つきに笑みをこぼしている。巨大な神木の前をたたずんでいるようだった。優勝おめでとうございます。彼は顔を変えずにそういった。口は動いていない。ここで川内はもう一つ人影があることに気づいた。むせかえりそうなるほど、張り詰めた、密な匂いを放っていた。。息が聞こえる真横にいたが気づかなかった。日本を代表する政治家は土俵で観た時とは見違える、光を全て吸い込む、完璧な黒い人影と化していた。気づいたのと同時に膨大な容量の信号として流れてきた。脳が激しく熱を発しながら言葉を読み込んでいく。首相の声だった。 史上最年少横綱にしておくにはあまりにも惜しい。君は日本に来てわずか三ヶ月で日本語を操っていた。能力だけでは説明がつかない、一種の才能だ。君は取組では三半規管を操作するくらいしか能力を使っていなかった。加隈山は川内の能力を計るための使いだった。第二次世界大戦で能力者が大勢死んだことを契機に日本ではファームと呼ばれる能力者の育成を目的とした機関を設けても、他国との競争に大きく出遅れた。君のような逸材は五十年に一度しか現れないだろう。自覚なく野放しにしたならば人を殺めたのも仕方がない。川内は首相の信号に意識を傾けるのをやめ、天皇への侵入を試みた。天皇は微塵も顔を変えていない、何も見えてこなかった。密な空気を通じて自分の中をまさぐられている感覚すらあった。逆位相波を理解していないのか。首相は憐れむように言った。横綱になって何か見えてきたか。まだ、何も。川内は短く答えた。我々は、日本は、君の力を必要としている。日本は今や影の代理戦争の中心にある。各国の諜報員にあふれている、舐められたものだよ。だが、私たちは選ばなければならない。国、いや組織単位に対して躱すのか、ぶつかるかを。そのためには前もって情報がいる。そんな代物は何処にもない、盗まない限りはね。あらかじめ言っておきたい。わたしたちは君の力を求めている、しかし、危険な橋だ、命の保証はできない。責任も重い、間違えれば一瞬で幕引き
だ、国技も何も国の威信がなくなる。なるほど、確かに国技だ。川内は率直な感想を想起した。思考を読んだ首相は破顔した。確かにいいたとえだ。骨のある相手だらけで手を焼くがな。サッカー選手、警察、政治家、それぞれが一つの土俵に収まっている。
脳が焼けるように熱かった。語りかけてくる首相の言葉のすべてを理解できたわけでもなかった。ただ、山頂の先にまた別の山々があった、それだけであった。 息を切らしていた川内に向けて、天皇は少し笑みを緩めて言った。君を横綱へと導いたのは相撲への愛ではありませんでした、そうでしょう?強引であることは承知しておりますが、これはあなたのお役に立てるかもしれない。『どうか私たちと共に来てくれますか?』初めて発した言葉は柔らかな口調であった。川内はこの瞬間まで力士であることを努めることにし、いつもの仏頂面で短く返答する。
『ごっつあんです』
ビール瓶どころではない 三科まさみこ @mishima_masamiko
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