第12話 汽車
歩いてヒマラヤまで行きたい気分だったが、同時に早く行きたい気分でもあった。私は汽車でヒマラヤまで行く事にした。
私は巨大なだけで限りなく殺風景な駅のホームで一人ポツねんと汽車を待った。だが、人だけはやはり殺人的に多い。
「大丈夫なのかなぁ」
私は線路のその先を見つめた。インドは時間に相当ルーズだと聞く。ちゃんと汽車が来るのか私は不安だった。
「あれっ」
しかし、予想に反して、汽車は時間通りにやってきた。しかもちょっと早い。
「なあんだ、インドも結構しっかりしているじゃないか」
私は到着した汽車に意気揚々早速乗り込んだ。
「ええっと、私の席、私の席はと」
見慣れない古めかしい座席の間を席番号を見ながら、私は歩いてゆく。
「あ、あったここだ。この席だ」
しかし、そこには変な太ったおっさんがもうすでに座っていた。
「あれ?」
何度も切符に書かれている席番号と座席に表示されている番号とを確かめるが、確かにこの席だった。この汽車は一日一本だと言っていたし、この汽車に間違いはない。
「あの、ここ私の席なんですけど」
おっさんにそう言ってみたが、おっさんはまったく動こうともしない。
「・・・」
というか、私を見ようともしない。
「あの、ここ私の席なんですけど」
少し声を大きくし、私はおっさんに自分の切符を突きつけるように見せた。が、おっさんは切符をちらっと見ただけで、やはりまったく動じることなく座り続けている。
「あのぉ、ここ私の席ですよ。どいてください」
私は段々腹が立ってきた。
「あのぉ、ここ、私の席。わ・た・し・の・せ・き」
ボディーランゲージまで加え全身で訴えたがまったく効果はなかった。
「あのぉ」
声が怒声に変わり、私はもう完全にキレそうになったその時だった。
「お前の席はな」
突然おっさんがこちらを向き、口を開いた。
「はい」
「お前の席はな」
「はい」
「お前の席は」
「もったいぶらずに、早く言って下さい」
「お前の席は明日来る」
「えっ!」
意味が分からなかった。
「お前の切符の日付けを見ろ」
混乱する私に、おっさんが偉そうに言った。
「・・・」
私は自分の持つ切符を見る。
「二十五日になっているだろう」
「・・・」
確かに今日の日付けだ。
「これは二十四日の便だ」
「・・・」
私の乗る汽車は一日遅れていた。
「インド恐るべし」
愕然と一人再び駅に降り立った私は、まだインドを舐めていた自分を恥じた。
駅のホームで一夜を明かし、次の日、私の乗る汽車はやって来た。一日と十時間遅れで・・。
「私の席、私の席はと」
私は再び、昨日と同様、座席の間を席番号を見ながら、通路を歩いてゆく。今日こそは私の乗る汽車だ。
「あっ、あった」
しかし、また人が座っていた。今度はがりがりにやせた子ども連れのおばさんだった。私は、席の番号と、汽車の番号を確認した。確かにこれは私の乗る汽車で、私の座る席だった。昨日の便でもない。
「あの、すみません。ここ私の席なんですけど」
私はそのおばさんに声をかけた。
「・・・」
しかし、おばさんはまったく動こうとしない。というかそんな気配さえなく、こちらを見ようともしない。
「あのぉ、ここ私の席なんですけど」
今度は、ちょっときつめに言ったが、おばさんは微塵も動ずることなく座り続けている。私の声など蚊の羽音程にも届いていない。
「あのぉ、私の席なんですけど」
今度は、さらに声を大きくし、かなりきつめに言った。だ
が、完全無視だった。
「ううううっ」
何安打子のおばはんは。私は完全にキレた。
「ちょっと、ここ、私の席っ」
私はおばはんに顔を近づけ、耳元で怒鳴った。が、おばはんはまったく、微塵も眉一つ動かさず、心の動揺すらなく、石像の如くそこに鎮座してる。声が、というか言葉がというか私の存在が届いている感触すらがなかった。
おばはんはその席に座ることは絶対的な揺るぎない自分の当たり前で、私の存在などまったく関係なく、いや、そもそも席番号など、人間社会のルールなどまったく関係ない別の世界の、自然の流れの法則の中で生きている生物の如くそこに鎮座し続けていた。
怒りで震える私がふと下を見ると膝に乗っているこのおばはんの子どもであろう、小汚い男の子が珍妙なものでも見るような目で私を見上げていた。それがさらに私をむかつかせた。
「あのぉ、ここ私の席っ」
私はありったけの声で叫んだ。しかし、得られる感触は、私が感じ得る、ありったけの虚しさだけだった。
「おいっ」
その時、おばはんの隣りに座っていた身なりのいい紳士が見かねて口を開いた。やった、この人も、私の味方になって説得してくれるんだ。これで私は自分の席に座れる。私はホッとした。
「お譲ちゃん」
「はい」
「諦めな」
私が説得された・・。
その後、何度も、何度も執拗に声を枯らし、この干からびた悪魔みたいなおばはんの耳元で私の席だと叫んだが、石像に叫んでいるような無駄な体力と時間と虚しさがその場に垂れ流れていくだけだった。
私は不承不承、自分の座る席のない他の客がそうしているように、自分の席の隣りの通路に座り込んだ。
恨めしげにおばはんを見上げるが、悪という概念が欠落しているかの如く平然としている。
「チックショー」
汽車に揺られながら、私の中で、殺意にも似た怒りがふつふつと煮えたぎってゆく。
超超満員の汽車がゆっくりと重厚に発車してからしばらく経つと、親子は私の席で、スヤスヤと穏やかな寝息をたて始めた。こっちは地べたに座りケツが痛いのに、その幸せそうな寝顔にさらに私は腹が立った。
「チックショー、なんて国だ」
ギリギリギリギリ私の歯が鳴った。
汽車が発車して一時間ほどが経った頃だった。
「あっ、車掌さん」
この汽車の車掌さんがこちらに歩いて来る。やった。これでこいつも動くだろう。
「車掌さん、聞いてください。ここ私の席なのにこいつら勝ってに座って、全然動かないんです」
私は車掌さんに切符を見せ、必死にアピールした。車掌は私の話しが分かったらしく、それは大変でしたねぇと言わんばかりににっこりとほほ笑んだ。
「ほっ」
私は安心した。これで座れる。
「お嬢さん」
「はい」
「諦めなさい」
それから十五時間、私が自分の席に座る事はなかった。
もはや、目的地などどうでもよく、ただただ早くここから脱したいただそれだけの思いに駆られ、長時間絶え間なく続くガタガタと直に尻に響く振動と、ぎゅうぎゅう詰めの車内の喧騒にくたびれ果てたその時だった。
「あっ」
遂にあの悪魔の親子が立ち上がった。今まで何をしてもびくともしなかった巨石はついに動いた。遂に遂に・・、私は感動で涙が溢れ出そうになった。
「やったぜ~、やっと座れる」
長かった。本当に長かった。長時間、冷たい床の振動を直接お尻に受けながら、怒りと憎しみに苦悩しながらの難行苦行だった。それが遂に報われる。
「夢にまで見た私の席」
悪魔の去った席に私は座った。
「ふ~、やっと座れた」
全身の疲れが一気に癒される思いだった。
「やっぱり座席はいいね」
私は気分よく一人ごちた。
「お譲ちゃん」
すると、その時、隣りの紳士が話しかけて来た。
「はい」
「ここ終点だよ。どいてくれないか。私は降りたいんだ」
「・・・」
「チックショー、あのばばあ」
汽車を降りた私は痺れるお尻を引きずりながら、一歩一歩大地に満身の怒りを押しつけながら歩いていた。
「チクショー、あのばばあ、今度会ったらガキもろとも首絞めて、ギッタギタにしてガンジス河に沈めてやる」
盗られた席の恨みは深かった。
「あのばばあ、今度会ったらぜってぇ・・、あっ」
そう独り言を言いながら、ふと顔を上げた時だった。
「うわあぁー」
目の前に今まで見たこともない巨大な山の連なりがそびえ立っていた。それは、私の求めていた、あのヒマラヤ山脈だった。
「すごい・・」
今までに経験した事のない光景を目にした時、人はそこになす術なく圧倒されるのだと初めて知った。
「っていうかこれを山と呼んでいいのか」
ヒマラヤは神々しくすべてを超越していた。
「・・・」
私はしばし、言葉もなくその圧倒的な光景を見つめた。
「う~ん、来てよかったぜ」
静かだが、それでいて熱く湧き出る感動が、私の全神経を満たしていた。これを見れただけで、来たかいがあった。そう思った。
神様は明後日帰る 第2章(インド篇) ロッドユール @rod0yuuru
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