5.藤島真央は茂の浮気を知っている
『――とは馬が合わない』。
今までの恋愛はおおむね、馬が合わない状態で進んだ。
だと言って浮気は――せめて真央は――してなかった。冷めた関係をうやむやに続ける性格ではないから、代わりに別れを告げた。
珍しくこの因果の鎖は大学時代に茂と出会って絶たれた。
茂の場合、3回だった。3回。茂も真央以外の女性と浮気をしたし、現在も進行中だ。
今の相手は同じマンションで住む19歳の女の子だ。
名前は
その小夜ちゃんが茂と付き合い始めたのは去年の夏、ちょうど真央が休みで萌と韓国アイドルのコンサートに行った日だった。
二人の浮気話について、真央も詳しくは知らない。だが、二人は真央がいない間にお互いの愛を確かめているらしく、デートもわざわざ毎週土曜日と日曜日にしたようだ。
ばれなかったら問題ない関係は――ある日偶然――買い物をして帰って来る『第三者たち』に知られた。
第三者たちの一人は真央の友達である萌で、もう一人は小夜ちゃんの母だった。
小夜ちゃんの母はまっすぐ真央の部屋に尋ねて親切に教えてくれた。「あなたの彼氏は今私の娘と交際しています」、と。「サヨが可哀想だから茂とはもう会わないでください」、とも言われた。
とっさの事で真央は不愉快な感情すらわき上がらなかった。
可笑しい要求をする小夜の母に失望でもしたなら、正直なところ、気まずくても挨拶するくらいの関係にはなっただろ。
けれども、次の瞬間に――はるかに年上である――小夜ちゃんの母にほっぺたをひっぱたいたことは覚えている。
手のひらがしびれるまで叩いた。それで小夜ちゃんの母は、「ありがとうございます」、と言い返して帰った。
数日後。小夜ちゃんの母は家に茂を自宅に招いて一緒に食事をした。
まるで完全に茂を小夜ちゃんの彼氏として受け入れたように。あるいは自分の娘が浮気してい事実を隠すための工作のように、平気で手作りの料理を食べさせた。
それをまた翌日のデートで嬉しげに語る茂にはだいぶ、あきれた。あきれても
食事くらいは常識的に見逃せるレベルだし、相手は若い大学生だから。いつでも恋愛対象を探せる年頃だ。
冷静にこの時期が去るまで大人しく待っていれば、済む。
――しょうがない。茂も男だからしばし若い娘に目をそらすよ。当然でしょ?茂が私を捨ててまで小夜ちゃんを選ぶ理由はないわ。もうじきだ。もうじき茂はいつものとおり小夜ちゃんと別れるさ。
だと。
藤島真央はやたらに茂を、信じた。
浮気をしたって必ず最後は真央を選んでくれた。小夜ちゃんともだたの火遊びに過ぎないと思う。
『茂くん』
〔話がある〕
〔この間デートした銀座の店で待つね〕
昼過ぎに茂からメッセージが届いた。萌と気分転換の一環としてカラオケに行ったから、返事は随分待たせた。
――話……。
急に鳥肌が立った。ただの風邪気味か、それとも1月の東京の寒さが理由なのか。視線はラインのメッセージをじっと留まって、深く考え込んだ。
「ごめん、急用が出来てしまった」
取り止めもないことを言い残して真央は近い駅に向かった。銀座に向かいながらもメッセージの内容が目にありありと浮かんだ。
『この間デートした銀座の店で待っている』。
――電話で聴いた方が良かったな。
付き合う前に電話で茂の声を聴いて、「
一言で、『耳元に絡みつくしめやかな口調にりんご飴を舐める感覚を呼び覚ます声』、見たいな?感じだと思う。あまり説明しがたいから無理やりに説明することは辞めた。
もし茂に電話をかけたら例に漏れず、くすぐったくてもイヤホンをしながら夜遅くまで眠りにつく。
重症と言えば重症だ。真央も認める部分だ。
割と顔は真央の好みではないことは、まだ本人には言えない秘密だ。
――あの声にあのビジュアルは……正直、印象がうすくって名前すら覚えられなかった。まさかここまでの関係になるとは……ね。
週末、午後7時に乗った電車の中は、人ごみに溢れた。
汗ににじんだYシャツにデート中の女性から匂う香水の香りが被ってみえる風景が見慣れる頃、真央は目的の銀座駅に到着した。
『藤島真央』
〔今銀座駅に着いたよ〕
送ったメッセージはすぐ『即読』になった。
普段携帯でゲームをする茂は誰が送ったってメッセージを無視する。彼女でも、実の家族でも、ゲームに集中する性格なのだ。
それが、今はゲームもしないままで待っている。
しばし真央の口元がほころびた。
改札口を通って、銀座駅の地下直結からA8出口に出ると、待ち合わせ場所として有名なライオン像が現れた。銀座三越前にあって、像の周りにはいつも人だかりができている。
周りには高級な店が軒を並べていて、なおここがセレブエリアの雰囲気を催す。特に夜は、東京の星空が店のガラスに映って輝き、ネオンサインの明かりが人の心を惑わして町から立ち去れなくなる。
茂と銀座に来たのはちょうど真央が社会人になって一年になった日だった。
その日は記念として、茂が奮発して銀座でももっとも有名な店を予約して真央を連れて行ってくれた。
6階建てビル。
夜景が綺麗に眺めるテラスとロマンチックに食事を楽しめるこの店は、一ヶ月前から予約しないと入れない、いわゆる高級レストランであった。
評判に比べて値段も、大学生には払えないレベルだった。
当時の茂は色々ごまかして真央を喜ばせようとした。もちろん、真央はそれを見破って早速レストランから飛び出した。
「気持ちだけいただくわ。だから、出よ。私、茂くんに無理させたくない」
茂は真央の言うことをよく理解してくれた。
「銀座は茂の就職が決まってから来ても遅くないよ?今度は私がよく行く店に行こう。そこも夜景は観れるから」
真央が選んだ店は日比谷公園の近くにあるイタリアンレストランだった。店には先にどこかの同窓会で集まった客で賑わった。
騒がしい雰囲気で、真央と茂はまともに会話も続けなかった。案内された席も店で一番奥で、食事が出るまで時間も長かった。
真央は大丈夫だった。気にしなかったと言うか、茂が祝福してくれることで真央は満足にいられるのだ。だから茂と付き合っている。
『都合がつき次第、愛も継続する』。
格好つけたセリフでも真央のお気に入りだった。
馬が合わないと言った人とはすんなりと、別れてあげた。いや、自然に関係は終わった。
真央と別れた元カレたちがあれからどんな女性と出会ったのかは、分からない。いやしくても、別れてからは浮気をしないで欲しい真央だった。
「また傷つくよ?」
萌の声が耳元に喚いた。
――違う。真央は誤解している。茂は、茂は特別だ。茂は絶対私を裏切らないよ。今も十分幸せ。幸せで涙が出そうだわ。
真央が暴走する妄想の流れにおぼれてもがきまわっている間、足元は茂が言った店の前に立ち止っていた。
ドアの向こうに茂がいる。そう思い、真央はかたずを呑んで中に入った。
「いらっしゃいませ――」
ノック! キセ! @min92119
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