紅色の彼方
碧靄
紅色の彼方
肌寒さをかんじてコートの襟を狭める。
秋も末に入り、朝方の外気が身に沁みるようになってきた。風の鳴き声が耳を抜けては身を屈める。
紅葉を見に行くことに異論はない。好きでも嫌いでもなく、とうに習慣と化した出来事だった。
習慣と出来事を同列に扱うのは妙かもしれない。日常の無味淡泊さのなかで非日常が描かれるから出来事として区別できるのだから。
だから紅葉を見に行くこと自体はすでにわたしのなかで咀嚼され切っていて、噛み締めることの楽しさを通り越したのだろう。それでもなお飽きとして認識されないのは、まだ特別な意味合いを残しているからだ。
それでも、いつまでこのことを繰り返しているのだろうという、疑問の残滓は持ったままだった。
そんな疑問を身の内に宿してから、まだそのことを繰り返し考えている。終わりない設問。答えが得られることはあっても、おそらくそれは遠い。
紅葉というと秋の風物詩であるように語られているが、実際に見頃を迎えるのは十二月を間近に控えてからになる。身を震わせる寒気の訪れとともに、自らの名を残すように木々は葉々を色づかせ主張する。そして存在の欠片を散らして眠り続ける。
どこに向かえばいいのだろうと、索漠とした気持ちが訪れることがままある。どこに向かうこともないのだろうと自問して片付けては日々を生きている。
張りがなくなった、とたとえればいいのだろうか。若さという言葉で片付けるには微妙な年齢になったのもある。こんな思考を続けていることがなによりの証左だ。
駅に着く。足下の手をつながれた子供に注意を置きながら、脇を通り過ぎる。側では来客を待つタクシーの運転手らが煙草をふかしている。千円札を二枚機械の中に吸わせて切符と釣り銭を手に取る。この財布もずいぶんとくすんできた。名残じみた記憶を背に、磁気カードをかざして改札を抜ける。
無意識に一連の動作をこなす。意識にのぼるのはここにいるのが一人だという認識と、一人でいるのが何年経ったかということだった。過ぎてみれば付き合いに取られる時間もなく、足かせもない。それが寂しい、と形容するには時間を食いすぎている。
休日の早い時間のせいか、構内の人影もまばらだ。ここにきて生き急ぐこともなく、鈍行で目的地に向かうことにする。
しばらく佇立したままでいると、アナウンスを引き連れて電車が滑り込んでくる。視線の端に空席を見つけ、腰を下ろした。
夢見の善し悪しにすこし懸念を抱きつつも、目蓋を閉じる。開けた視界にはまた、灰色の世界が待っているだろう。
乗り換え駅手前で目を覚ます。それとなく車内を見回すと座席の半分以上は埋まっていた。隣に誰も座っていないことを認めて、座りながら軽く身体をのばした。
数分ののち、乗っていた記憶もあまりない電車とは別れを告げ、乗り場を移動する。中途の階段で上り下りするひとの流れが混在する。押され避けながら踊り場を歩いてはまた階段を下る。人の流れに強制される動作がひどく煩わしい。
人の往来から、周囲の目指す先はわたしとおなじなのだろうと推測できた。それでも見ている景色はわたしとはことなっているのだろう。見慣れぬ景観に思いを馳せては歓声をあげて、家路につく。彼らには戻る場所がある。
いつから忘れてしまったのだろうと、記憶をたどっては行き着く先はおなじであることを知る。わかっていように一種の癖のようになっていてひとしきり自己嫌悪に陥る。
顔をあげることに疲れたのに、下を向けば徒労感しかない。とどまることにすら労力を払われるのがまた、面倒に思う。そうでなければ息を止めるほかないのだが、世俗には執着している。宗教的観念からは縁遠いから、死してなお救いがあるとは信じられていない。
ようするにとどまっていたいだけなのだろうと、無理矢理に思考と離別を告げてふたたび電車を降りる。乗客が吐き出されていくなかに埋もれる。エスカレーターに乗せられ、階段を下り、財布に入れた切符を改札口に投入すると、人だかりの背後に見慣れた街並みが広がる。
今年もいるのだろうか。そんな問いかけがノスタルジアのなかでわき出てくる。当然のように現れるのだろうと脳内から返答される。
どこからともなく。いずれともなく。いつの間にか隣を歩いている。そんな存在感をまとうのが彼だった。希薄さのなかに、日常のなかに希釈されても残った印象がわたしの顔を上げさせる。
いつから立っていたのか、彼はわたしの視線の先に佇んでいる。くすんだトレンチコートをたなびかせて。風のなかに埋もれるようにして、なおも視線を寄越してくる。
ひさしぶり、そう聞こえた声は一年越しの記憶と変わらない。消え入りそうで、しかしその静かな声は耳に届く。ひさしぶり、と鸚鵡返しに告げて、それきり会話が途絶える。
わたしの足は自然と彼の方向に歩き出す。目的地に着くにはここからバスに乗り継がなくてはならない。そのまま彼の脇を通り過ぎようとすると、当然のように彼は足並みをそろえて隣を歩いてくる。
彼は律儀な男だと思う。
咎められる必要もないのにこうして自らの責任であるかのように毎年この地を訪れてはわたしの到着を待っている。
到着する時刻をずらしても変わることなく駅を出た先で決まって出くわす。以前、どのくらい前から待っているのか、と訊ねてみたら、朝から、と抽象的な答えが返ってきたことに呆れをおぼえた。いつ来るかもわからないが、来るとわかっていれば待てばいい。そういう理屈を持ち出すあたり、彼の感覚はわたしと似てずれているのだろうと思う。
バスの車内は乗客であふれている。密度の濃さに息が詰まる。せめて気を紛らわせようと窓の外に視線を投げる。行き過ぎる木々と家屋の群れ。家々のあいだに道のりが続き、石造りの塀を見上げるようにして階段を上っている。行き過ぎる人々の表情は明るく、あちらこちらから談笑が聞こえてくる。そのひとりがわたしの姿を見つけて手を上げる。気のない返事をかえすわたしに不満そうにしながらわたしの手を握り、周囲に馴染ませようと手を引いてくる。
もうすこしで着くよ、と隣から声が聞こえた。足からは車のエンジンが響かせる振動が伝わり、周囲は幾分かまえよりは人の数が減っている気がした。
想像から引き戻した声のもとを振り返ると、すでに視線を外して流れる景観を眺めている彼の姿がいる。手を開いても、そこに感触はなく、温度の上がった室内で汗ばんだ手が開いているだけだった。
わたしはどこにいるのだろうと、疑心に駆られることが何度もある。はじめて見た景観、通りがかったこともない街並みをすでに歩いている感覚、既視感が前触れもなく訪れる。
点在するわたし。わたしのなかでわたしは、外在するわたしを求めて、なにひとつ統合されることなく存在し続けている感覚を味わっている。わたしという自己はひとつところに収まることなく、現実味という言葉を嘲笑いながら実感をもたらしていく。わたしという現実が薄らいでいく程度には。
わたしがそこにいるという感覚は、いまここに立っているという実感のもとにある。世間の通論ではそうなっているけども、こうしてわたしが旅立っているあいだには身体という枠組みからは遠のいている。外感覚とでもいうわたしに現実という言葉は意味をなしてくれない。
気がつけばどこかで見た川の側に立っていたり、自分の部屋に座っていたりする。幻想と片付けるにはいかにも現実味を帯びていて、わたしはめまぐるしく空転しつづける世界の様相に当惑する。
感触がある。わたしはなにかに手を握られているらしい。なにかをつかんでいるらしい。わたしはどの場所に立っているのだろうと、実感が追いついていかない。
それでも足下の感覚を頼りにタラップを下りていく。降車し、外気に触れると次第に実感がよみがえってくる。代金はポケットに忍ばせていた。事前にこうしておけば、手持ちを出すだけで事足りる。
気がつけば手はすでに離れている。すぐ側に視線を向ければ人混みに揉まれて疲労した様子の彼が背を伸ばしている。
「ここに来るのも久しぶりだ」そうして周囲を見回すあの人は毎年違う場所を行き来しているから毎年おなじことをいう。笑いを堪えるようなわたしの姿を見て不思議そうに笑顔を向けてくる。翻すように背を向けると大股で先陣を切っていく。たまに置いていかれそうになるが、決まってそのときは振り返り、足を止めてくれる。
行こう、と声がかかる。目の前に立つ彼の姿。背は高いはずなのにその姿に柳を連想する。流れるままに生きているようでいて、意思を曲げることはない。
だからこうして、隣を歩いてくれているのだろう。そこに一抹の罪悪感がないとはいえない。しかしこの分だと、恩を返せるあては当分予定にない。
田園風景と住宅地が半々ほどになった車道の隅を歩いていく。刈り終えた田は遮るものもなく、遠くまで見通しがきく。それがまた寂しげな寒さを助長する。
塗装のはがれたガードレールに沿うように歩いていて、行き過ぎる車が風を巻く。そういえば、と記憶に浮かぶ自分の姿は髪を伸ばしていたことを思い出す。ある日から面倒に思ってばっさりと切り落としたのだ。
あの人は「女性は髪で遊べるからいいよな」となぜだかうらやましそうに頭上を見つめてくる。自分は多趣味に分類されるだろうに、まだ遊びの手段を考えようとする。その子供っぽい仕種がおかしい。そんな隣を歩いている姿はといえば堂々としていて自信に満ちている。そこに合いの手を入れるようにして別の声が挟まれてから、ようやく意識がそちらに向いた。
わたしはどちらを見ているのだろうと、疑惑が浮かぶ。わたしのいまはここにあるはずなのに、気がつけば過去を放蕩している。見ているのが過去と気づくのは夢が過ぎ去ってから。どちらを見ていたのだろう。あの人か、彼か。あの人を通して彼を見ていたのかもしれないし、彼を通じてあの人を見ていたのかもしれない。
わたしはあいだに生きている。空想と現実のあいだに。過去と未来のあわいに。現在なんてあるのだろうか。時間軸をたやすく飛び越えるわたしの空想は現実からシフトする。わたしのなかのあの人はいつも微笑みかけてくるのだ。
歩を止めるわたしの面もちをのぞき込むようにして見つめている。彼は誰だろう。知っているはずで、でもわたしは彼の本質を覗けないままでいる。
行こう、と彼の背後に視線を向けたままでいる私の手をすくい取る。彼が彼であったことをふたたび知る。何度も、何度も。
境内に足を踏み入れる。石畳状の階段が視線の先に伸びている。無性なまでに階段に胸を焦がすとき、わたしは目的地といまここにいることに遠い感慨が沸き立つ。
狭間に揺れるわたしの心がここにいることを望みながらも足を進めることをやめない。始点と終点。近寄る距離感と遠のく距離感。揺られる心と不確かな足取り。
背丈を超える高さの塀に沿うように歩いて、連なる階段を上がっていく。突如として視界が開けて、その景観が視界を覆う。
広がるのは鮮烈な紅色。燃え上がるように染まる木々。血に染まったようにすら映る見事な紅葉は、妖艶さすら漂わせてわたしを魅了し、息を継ぐことすら忘れさせる。
紅葉は唯一わたしをこの場に繋ぎ止める存在だった。焼け尽くされていくような景観がいまここに立っていることを告げ知らせる。鮮やかな紅色がわたしのどんな空想をも凌駕して押し寄せてくる。
それらは死の感覚なのかもしれない。燃え上がるようでいて、凍てつくように寒い、緋色。終わり過ぎゆく刹那の輝きが、いまわの際に紅に染まる。そんな退廃的なにおいが扇情的にわたしをこの場にいざなう。いま、ここへと。
歩みは止まらない。いま、この場にいるわたしがすべてでわたしはどこにも向かわない。その先に、慎ましやかな外観の寺が紅葉に埋まるようにして建っている。
それを目前にしてわたしは隣の彼を見やる。彼は、あくまで穏やかに口元を曲げるだけ。
賽銭箱に五円玉を放り込み、綱を引っ張り鈴を鳴らす。願うことなどないが、祈ることは赦しを請うことでもある。わたしがいまここに立つことに。この場にとどまっていることに。
生命は必然なんだ。因果を求めることは間違っていると思う。そう、見透かしたような声が聞こえる。突き放した物言いも彼の優しさの裏返しなのだと、理解している。ただ、わかっているとは、いえるはずもない。その結果がこうなのだから。
半時間ほど見回りながら紅葉を背に翻す。またわたしはさまよい歩く。いずことも知れない場所に気持ちがすれ違う。
理解しているはずの記憶の深奥に、まだくすぶっている。それが振り払える日がはたして来るのだろうか。
気がつけばまた駅の構内に立っている。いつもこうだ。紅葉を見たあとはそればかりイメージが先行して足取りがふらついている。
今日はまだしっかりしていた、と脇から茶々を入れるように告げられる。もしそうだとしてもまだ先の話になるのだろう、と遠い気持ちで考える。
忘れようと思っても変わらない景観が広がることは幸せなのだろうかと、この歳ではじめて抱く考え。人は忘れる生き物だから前に進むことができる、そう諭してきた教授がいたことを同時に思い出す。しかし記憶という概念において、覚えられず忘れられない、という形態ははたして正しいのだろうか。
それに対し、良いも悪いもひっくるめて人間だろう、そう笑い飛ばすのはどちらだったろう。あの人かもしれないし、彼かもしれない。その言葉には救われる気持ちを抱いた。
そろそろ帰るよ、彼はコートのポケットから片手を取り出し軽く持ち上げる。その姿にわたしはこくり、と頷き返すにとどまる。
たったそれだけで満足そうに目を細めて彼はきびすを返していく。別れの挨拶など告げない。蜃気楼のようにゆらめく背中。その背を見えなくなるまで見送ったのちに、嘆息をひとつついた。
たぶん、また来年も壁に背を預けて待っているのだろう。一年にたった一回。ただ紅葉を見に行くだけのために。それだけの関係性で私たちは付き合いを続けている。
わたしはいつから彼の手を借りずに立つことができるのだろう。歩くことができるのだろう。
醒めない夢が網膜を焼いてわたしを縛り続ける。そんな日に別れを告げることができる日がいつかくるのだろうか。
あわいに生きるわたしが、境目を踏み越える瞬間がいまはまだ、想像だにできない。
刹那のあいだ、燦然と染まる紅葉のように、あのころの記憶だけが色づいて離れずにいる。黄金と深紅。そんな、きらびやかな記憶が。比較するには、世界は灰色に染まりすぎていた。
紅葉は散り、また冬が来る。
そのことを遠い思いでかんじながら、わたしは街に背を向ける。
夢の中を錯綜するような、そんな足取りで。
紅色の彼方 碧靄 @Bluemist
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