第114話 剣に生き……・六
リューネブルク市・司教府・法王軍により陥落間近・少し前―――
「補給線を断れただと……?」
「はい、申し訳ありません。複数の集積所から同時に出火、タイミングが良すぎます」
「間違いない、バルムンク別働隊による放火だ……まだ兵力が残っていたのか!!」
イグナーツが転進命令を出す直前、圧倒的に優勢な体勢にある法王軍の背後から不穏な情報が流れ込んできた。
突如として現れた別働隊、それによって補給線を断たれた。
間断なく降り注ぐ砲弾の雨、それを維持する補給路の断絶の意義は大きい。
最大の攻撃手段を封じられたのだ。
「残弾数は……」
「十二……十数分で撃ち尽くしてしまいます」
「もう少し、陣地を叩いておきたいのだがな」
騎士セルゲイ、あるいはセルゲイ竜司教は、いかに崩壊寸前だとしてもバルムンクと言う組織を甘く見てはいなかった。
例え一時だとしても、砲撃を止め、攻勢を緩めればこちらの窮状を見抜かれるだろう。
そうなれば、どんな手段で反撃に出てくるか分かったものではない。
彼は部下を鼓舞するため、バルムンクに低評価を下したが、自分の発した言葉が欺瞞であることをよくよく理解していたのだ。
「……白兵戦の用意をしろ、突入の指揮は私が取る」
「竜司教猊下、自らですか!!」
戦場で躊躇するは最低の下策である。
迷いは兵士に伝播し、敵にも見抜かれる。
瞬時に決断し、次の手を実行しなくてはならない。
例えそれが、指揮官自らが先頭に立つ、無謀な策だとしても、手を駒ねるよりマシなのだ。
「そうだ、第十二、十四、十七歩兵大隊を前に……残りを再編し、防衛に切り替えろ!!」
数千の兵を指揮する竜司教が最前線に出る、その勇猛さと行動力は認められるだろうが、軍隊としてはいろいろと問題がある。
不合理と言うだけではない、全体の指揮を取る指揮官としての役職は高い能力が要求されるのだ。
そしてセルゲイの次席はその能力を有するまで成長してはいない。
能力がない人間に指揮官の役職を押し付けるその代償は、連隊全てに降りかかってくる。
それを理解していないセルゲイではなかったが、彼は簡単に言えばバルムンクを過大評価していた。
彼の主人、グスタフがそうであるように、あるいはそのためか、彼もまたバルムンクを強大な存在であると認識しており、またかつての主君、ミハエル伯を戦死させた彼らに直接トドメを刺したいという気持ちもあった。
だから、直接自分が乗り込む選択を選んだのだ。
「通常戦闘ならば既に物資は十分に集積している、指揮を任せるが、何があっても防御に徹し、軍を動かすな。戦力ではこちらが圧倒的なのだから、こちらがミスを犯さなければ負けることはない」
「はっ、ご命令通りに致します!!」
セルゲイに忠誠を誓う竜司祭長にして竜司教代行、彼は上官であるセルゲイと同じく実直ではあったが、臨機応変とは無縁な人物であった。
だから竜司教代行として選ばれたと言うべきか
「突入……!!」
選ばれた千名の法王軍の精兵達が、歴戦の勇士に率いられ、バルムンクの本陣である司教府になだれ込む、それに対するバルムンクの反撃はなかった。
もはや反撃する余力すらなくなっていたのである。
*****
司教府内部―――
セルゲイ率いる法王軍が突入より少し前、イグナーツらがバルムンクの兵士達に〈転進〉命令を出した頃、アマーリアは厳命されていた募兵を行っていた。
「イグナーツ様の部隊は総崩れです……このままでは敵が雪崩れ込んできます、いかがいたしましょう、アマーリア侍祭」
「……一時間も持ちませんでしたか」
半ば捨て鉢となったアマーリアが投げやりな色で言い放つ。
戦力を増強するために負傷兵や難民から兵を集めよとイグナーツに言われた彼女だったが、戦局はそんな小手先の補強ではどうにもならない程に悪化していた。
「あんなに大見得を切っておきながらこの体たらく……戻ってきたらどうしましょうか!!」
「侍祭、我々はどうしたら……」
絶望的な表情で、アマーリアのややヒステリー混じりの悪態を聞いていた兵士が蒼ざめて、再度命令を乞う。
しかし、もう彼女は〈答え〉を用意できなかった。
臆病な彼女は必死に恐怖を抑え取り繕って、平静を装い、〈命令〉という名のデタラメを兵士達に信じさせてきた。
しかしそれも限界は来る。
しょせん虚構、迫りくる現実と言う名の真実を前にもうごまかしは利かない。
そして彼女には現実を変える力はなかった。
「兵士は集まりましたか……」
「へ、兵士ですか?」
「募兵は、兵士を募集した結果はどうなりましたか」
「ひ、一人も集まりません!!」
半ば悲鳴を上げながら兵士は募兵の結果を語る。
予想されていた結果ではあった、負傷兵や難民から志願兵を募る、誰も手を挙げなかったのだ。
負傷兵は勿論の事、難民らは怪我、あるいは幼く、あるいは老いていて、身寄りがなくこのリューネブルク市から逃げられなかった人達である。
戦場に出れば生きては帰れない人間、そしてアマーリアもまた、彼らに「死んで来い」と命令する気はなかった。
そして呼びかけたのがリヒテルやイグナーツならば、彼らは渋々ながら手を挙げたであろう。
手を挙げて戦場に行かなければ殺されると言うある種の予感があるからである。
背後から味方を脅す督戦隊が必要であった、だがそれはもうない、とっくの昔に督戦隊は最前線に一兵卒として従軍し、玉砕していたのだ。
「逃げる……でもどこに、どこにも逃げることができない」
「俺らの出番がきたかな」
「えっ……」
そんな中、アマーリアの前に十数名の〈兵士〉が並び立つ、彼らは体の各所が傷つき、包帯で巻かれ、手や足、指が欠けている者も多数いた。
先頭の兵士はニヤニヤと薄笑いを浮かべてアマーリアの〈命令〉を待っていた。
下品なその口元の笑みは人の不快を誘ったが、アマーリアは咎めようとはしなかった。
彼は先のブライテンフェルト会戦において、凍傷により唇を失っていたのだ。
勇敢ある最期の小隊……死術士ツェツィーリエによって生み出された、影の魔物グートルーネを操る子供ばかりの影術士部隊であった。
「俺ら影術士部隊ならば、一人で十の兵士を倒せます、どうか命令を下さい、奴らを薙ぎ倒してやります!!」
天才であるシャルロッテは別として、ヴァンが十年かけて体を改造しながら会得した「死術」、それよりもさらに高い修練を必要とする「影術」をわずか半月で会得した彼らは、しかし代償として寿命を奪われていた。
彼らは、後どれぐらい生きられるのだろうか、その末路はどちらにせよ悲惨なものとなろう。
リーリエ……力の代償として、人格と記憶に障害を持ってしまった彼女がそれを証明している。
「あなたはいくつですか」
感情を抑えた低い声で、アマーリアが問いかける。
勇猛だが、何も知らない、己の危機すら知らされていない少年が元気よく答える。
「十歳だ!!」
その元気な声が終わるかどうかの時。
少年はアマーリアに抱きしめられていた。
ゆっくりと頭を胸に当てる、アマーリアにとって少年は温かった。
「あいつらの……もう終わった夢に、命を賭ける必要はないんですよ」
その瞬間、正門と裏門、表と裏の両方から何かを壊す音と、数十もの怒号が木霊した。
法王軍が突入を開始したのだ。
*****
リューネブルク市・市街地崩壊後―――
「律儀に待っていたのかしら」
いつの間にか月が中天に差し掛かっていた。
辺りが薄ぼんやりとした光に包まれる。
竜はまさに地上に降臨した神のように輝いていた。
その神秘的な光景は心を奪われるだろう、だがそれは神ではなく、竜の姿も見せかけだ。
あれはグスタフ……リヒテルのかつての親友、そして十年前に恩を受けた全てを裏切り、己の願望のために世界を狂わせた男だ。
スヴァルトの侵略、彼がウラジミール公を焚き付けなければ起こらなかった。
―――待っていたさ、これで最期だからな―――
―――それにしても、つまらない女にしてしまったなテレーゼ、母を殺したリヒテルの妄言に騙されて……あの時、母親であるアーデルハイドを守るために、バルムンク全てを敵に回していたお前は格好良かったぜ―――
(黙りなさい!!)
聞こえるはずのない仇敵の声を確かにテレーゼは聞いていた。
彼女はリヒテルの正義や大義に殉じている訳ではない、そんな難しいものを彼女は理解できない、したいとも思わない。
彼女が剣を取るのは自分の家族を守るためだ。
小姓扱いのリーリエ、いろいろとあるが友人でもあるアマーリア、母の仇、だが義兄でもあるリヒテル、そして、そして……幼馴染、大好きなヴァンを守るために。
その剣を取る……!!
「■■■!!」
竜の額が割れ、何か、白い物が顔を出す。
人間離れした視力を持つテレーゼでもそれが何なのか分からない、だが研ぎ澄まされたテレーゼの直感が閃いた。
(竜の額……あそこが弱点ですわね)
あえて弱点を晒して挑発する。
あるいはグスタフは余裕を見せたつもりだろうが、それは油断という物だ。
スラムの戦いでも、あの男はつまらない拘りで勝機を逃した。
もしテレーゼがリヒテルならば、さらに確信を持って断定できるだろう。
グスタフは詰めが甘い男だ。
十年前からしてそうだ。リディアの件、父親であるウラジミール公が娘を殺すことを予測できなかった。
父親が娘を殺すことなど別段不思議なことではないのに、予測できなかったことこそがグスタフの甘さ……。
「炎が来る……別れるぞ!!」
「分かっています!!」
横に並び、竜目掛けて疾駆する二人の勇者、それを迎え撃つのは漆黒の炎。
生あるモノより、その命を奪い尽くす業炎が寸前まで二人がいた場所を通り過ぎる。
炎に巻かれるは木造の家屋。
炭化するのではない、養分を吸われたかのように黒ずみ、カラカラに干乾び、柱だけとなったそれがすぐ後にはチリへと変る。
骨の髄まで、粉になるまで絞りつくす強欲すぎる収奪だった。
―――ほう、内側に入り込んだか、これでは良く見えないな。ははは、この身体、大きすぎて小回りが利かないのが欠点だぜ―――
ふざけたようなグスタフの軽口を聞き流し、テレーゼが流れるような動きで竜の右側に回る。
グスタフは左目が見えない、故に相対するテレーゼにとって右側は比較的安全なのだ。
「グスタフ、踏みつけてきた人間が何をするか見せてあげますわ!!」
竜の巨体はもう、その全貌が見えない。
目に映るのは所々影のような黒でおおわれた樹木の身体……取りつくのは不可能ではない。
行く手を遮る触手の群れ、まるでキングを守る最後の兵士のように立ちふさがる。
「はぁぁぁぁぁ!!」
放たれた矢のように……振るわれた矛のよう、砕ける運命のツブテになったかのように突き進み、立ちふさがる壁を踏み越えて、ついに竜の身体にたどり着く。
着地と同時に激痛、脇腹に欠片が突き刺さった、だが抜いている暇はない。
―――俺はお前の母、アーデルハイドの世話になった、だから娘であるお前を殺すのは心が痛むんだよ―――
竜の鱗を駆け上る、一歩、一歩進むたびに体中の傷が開いた、今はもう指の感覚がない、その傷は死に至るもの、軽傷は重傷に、重傷は致命のそれに。
命が吸われているのだ、同じ死術の呪いを受けし者、故に収奪の呪法より逃れられたのだが、肌を這う至近では意味をなさないのか。
後少し、後少しで竜の額にたどり着く、だがテレーゼの軍事に限って発揮される冷徹な思考が不可能と告げていた。
足りない、奪われる量と、残された体力を比べて……しかし絶望するより前、奪われる生命が減じる。
「ここだ、グスタフ……貴様のかつての友はここにいるぞ!!」
リヒテルだった。
テレーゼとは逆、危険な左側を担当した彼は囮になるべくその存在を見せつける。
竜の見える右目の視界に収まりながら、リヒテルは竜の攻勢に孤軍奮闘していた。
掠るだけで砕け散る、人間を遥かに超えた暴虐、それを紙一重で躱しながら、彼は己の生命を燃やし尽くしている。
先を行け、我が義妹テレーゼよ……グスタフを倒せ!!
グスタフの声と違い、リヒテルの声は聞こえない。
だからこれはテレーゼの妄想、自分を前に進ませるべく、全てを犠牲にする肉親を夢想する。
だがそれでもいい。
それに答える、でなくば何が侠客か、ファーヴニルか。
私の名前はテレーゼ、その剣は常に守りたい人達のために!!
「行ってきます、お義兄様!!」
グスタフは、その標的をテレーゼからリヒテルに移したようだ。
生命を奪う術法がテレーゼを離し、リヒテルの周囲を襲う。
リヒテルの、輝くような金髪が色褪せ、白く染まっていく。
肌は干乾び、そこで剣を握っているのは既に朽ち果てそうな老人であった。
―――だから俺はお前に手加減する、例えお前が俺の首元に剣を突きつけようと、俺はお前を見逃すだろう―――
グスタフの余裕に満ちた声、相手は油断している、まだ……私達の事を無力だと信じている。
テレーゼは最後の力を振り絞り、竜の肩より跳躍した。
グスタフはリヒテルにトドメを刺しきれない、リヒテルに意識を集中させている、その瞬間、テレーゼは勝利を確信し、そして義兄の安否を確かめるべく、視線をわずかにそらした。
そらしてしまったのだ……。
「……あねうえ?」
リヒテルが制止する。
彼の、老人となった彼の、黄色く濁った目に刹那の間、怯えが混じる。
リヒテルは、仇敵たるグスタフへ振るっていた剣を止めていた。
(……なんで)
その瞬間、テレーゼのすぐ横を巨大な質量が通り過ぎた。
それはテレーゼが狙っていた竜の頭であった。
竜は咢を広げ、怯え、隙を見せたリヒテルを……飲み込んだ。
「……」
空間が凍り付く、勝利を手にするべく空を駆けたテレーゼが、所在なさげに宙を漂っている。
―――家族を守るためにお前は剣を取った……だがお前の家族は、お前を家族だとは思ってはいないようだぜ―――
グスタフの、先ほどの余裕じみた嘲笑ではない、どこか憐れむような、同情するような、あるいは兄が妹を慈しむような優しい声が聞こえる。
―――リヒテルはお前の中に、自分が殺した姉を見た―――
―――約束したな、お前は殺さないと―――
―――生きながら、お前が家族だと信じていた者達の末路を見届けろ―――
竜が身を揺する、ゴミを落とすような挙動。
まるで枯葉のようにゆっくりと竜より墜ちながら、テレーゼの目の前は真っ暗になっていた。
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