第91話 帰還

ブライテンフェルト草原・ウラジミール公国本陣―――


「私が上座か……」


 憎々しげに、法王シュタイナー三世が会議場の自分の席を見て吐き捨てるように言った。

 彼が会議場に来たのは一番最後、遅れたのではない、グスタフに拘束されていたのだ。法王シュタイナーを守る近衛の兵は斬られ、恐らくは、先の会戦の戦死者として、カウントされることだろう。

 それもまたグスタフの策、蜘蛛と呼ばれ、裏で暗躍するのを得意とするグスタフがここまで強引な方法を取るとは思ってはいなかった。

 つまり、グスタフは勝負に出る気でいる。

 しかし、グスタフの変化を察することが出来なかったこと、それは法王シュタイナーが政治屋として二流であることの証明でもある。

 彼のバルムンクをスヴァルトの対抗馬とする構想はバルムンクの壊滅という形で破綻し、むしろそれを成すために会戦でサボタージュをしたことが彼の弱点となってしまった。


「早くお座りください、グラオヴァルト法国元首、法王シュタイナー三世猊下」

「グスタフ……やはり、お前は」


 強引に上座、それはかつてウラジミール公が鎮座していた席に座らせられたシュタイナー、その瞬間、列席しているスヴァルトの貴族、騎士から一斉に憎しみに満ちた視線が注がれる。

 我らが父、ウラジミール公エドゥアルド亡き後、その座に座るのは彼らの王、次期ウラジミール公のみ、つまりシュタイナーはこの場では簒奪者でしかない。


「勘違いするなよ、お前はあくまで代行だ。知っての通り、我らが王にして父、ウラジミール公陛下が崩御なさってしまった。名目上でも指導者は必要だ」

「ならばグスタフ、お前がその名目上の指導者とやらになればいい。ウラジミール公、リューリク公家の現在の家長はお前だ。リューリク公家は王家、お前は事実上の国王であるのだぞ」

「まさか、そんな思い上がった振る舞いをするほど、俺は傲慢ではない……それに拾った王位では他に睨みが利かせられないしな」

「……」


 グスタフが何を考えているのかシュタイナーには分からなかった。

 だが彼の振る舞いの節々には自信が満ちている。何らかの策を、それも成功確実な策を用意しているのは明白だ。


(何としても、生きのびなくては、私はアールヴ人の王、私が死ねばこの国はスヴァルト、いや、グスタフの物となってしまう)


 決意を新たにするシュタイナー、だがそれとは別に、彼はもう自らの進退を決めようともしていた。

 全ての虐げられしアールヴ人のため、十年間もその屈辱や苦痛に耐えてきたが、ここにきて、もしかすると自分こそがアールヴ人に対する害悪なのではないかとも考え始めていた。

 自分の判断が、自分の態度がこの国を狂わせた、そうだと言うならば、ここで処刑された方が世のためではないか、と。


「お前もリヒテルの同じく、他人のためと抜かすのか……」

「……」

「他人のためなどと考えるからくだらないことで悩む。自分のためにその力を使え。今回の会戦、大勢の人間が死んだが、それで痛みは感じたか、腕が痛いか、脚が痛いか、痛みなどある訳がない。他人の痛みを人間は感じることはできない。全ては自己満足だ」


 どこか嘆くような、常のグスタフには似つかわしくない憂いが垣間見える、思わずシュタイナーは息を飲むが、その顔をいつまでも晒すほど、グスタフは間抜けではなかった。

 これ以上はもう話すことなどない、二人の価値観は違い過ぎる。

 故にシュタイナーは会話を打ち切り、会議の開始を促す。


「そろそろ、会議を始めてはどうかな?」

「会議? 何を言っている、シュタイナー、ここで話し合うことなどないぞ」

「何……?」


 グスタフはシュタイナーにしか聞こえないよう、顔を近づけて耳元でささやく、どこか始祖を惑わせたという蛇を思わせる蠱惑的な声音であった。


「俺は奴らに命令するだけだ、ウラジミール公継承戦はまだ続いている。先の会戦は勝者無し、つまりは意味がなかったということだ。第二ラウンド、今度はリューネブルク市攻略戦、今度こそリヒテルの首を撥ね、次期、ウラジミール公を決定しようじゃないか」


 その内容にシュタイナーは激昂する。何万者の死者を生み出したブライテンフェルト会戦を無意味と、そうグスタフは言ってのけたのだ。

 何万ものの命、何万ものの人生、彼らに連なる親族、知人の嘆きをこともあろうに無意味と。


「貴様、まさか再びあの会戦を起こすと言うのか、誰がそれを望むと言うのだ」

「スヴァルト貴族にとって何万もの平民の命よりも、至高の座の方が重要だぜ、あのボリス公子のようにな……必ず食いつく」

「スヴァルト人が我らアールヴ人に劣る数少ない欠点だな」

「だがこれが現実だ。何、安心しろ、お前は俺の言うことを聞いていれば何も悩まなくてもいい」


 グスタフの顔に酷薄な表情が宿る。それこそまさに伝承にある、スヴァルトの荒ぶる祖、不死王シグムンド。

 無慈悲な彼の祖は暴虐で、アールヴの祖シグルズに斃されるまで、厳格で無慈悲な階級社会の上に君臨していたと言う。

 全てのスヴァルト貴族の崇拝を集めた不死王、それが現代に蘇った時、成すべきことは一つなのだ。


「俺は王となる。他人に自分の運命を委ねたりはするものか」


 そっけなく言い放つグスタフ、シュタイナーの心は絶望に包まれた。


*****


エルベ河・リューネブルク市への水運・バルムンク水軍旗船クリームヒルト・甲板―――


 甲板にて行われた会議、席は十、しかしその内、実に半分以上の六つが空席。その事実が何よりもバルムンク連合の置かれた窮状を示していた。

 空席の内訳は負傷した総統リヒテル、ヨーゼフ大司教、そして生死不明のエルンスト老、大隊長アンゼルム、死術士ツェツィーリエ、そしてとある理由から一早くリューネブルク市に帰還したブリギッテ竜司祭長である。

 そう、総統リヒテルはこの会議に欠席している。代わりに上座に座るのは、その補佐を務めていたヴァンである。

 両脚と左腕を切断することとなったリヒテルを会議の場に出すことをヴァンは認めなかった。これ以上の、育ての親であるリヒテルを酷使することに耐えられなかったのだ。

 リヒテルはこの戦いの発案者でもある、惨敗の責から休息など認められないと言う意見もあったが、ヴァンはそんな意見など握りつぶす気でいた。つまりヴァンは総統の重責を代わりに背負う気でいるのだ。

 その気概、何よりも喜んだのはヴァンに副官たるイグナーツであった。彼はヴァンのすぐ隣に座り、会議の進行役を買って出た。だがその積極性にヴァンはやや不審を抱く。

 イグナーツの、コンクラーヴェで見せた欠点が再び露呈しようとしていた。

 理想を現実に直結させる間違いを再び犯そうとしていた。


「まず、報告させてもらいます、我が軍はスヴァルトに殲滅されました。戻ってきた者はわずかに千名。実戦に参加できる者はさらに減るでしょう。それどころか、今後の展開次第では更なる犠牲が出るかもしれません」

「……どういうことですの?」


 会議に参加しているのは四名、ヴァンとイグナーツ、テレーゼ、傭兵隊長マリーシアである。

 そして他に二名、お付きという形でテレーゼの背後に影術士のリーリエ、そしてなぜかほとんど面識のないマリーシアの背後にアマーリアが立っていた。

 リーリエはツェツィーリエによる改造で感情や記憶が欠落しており、故に彼女は常の無表情、だがその分、体の各所、凍傷による傷がより一層、痛ましい。

 アマーリアは一目で分かる程、意気消沈している。別れた時のあの狂気という名の活力が消失している。

 何でも、ライプツィヒ市壊滅の折、難民を、半ば押し付けられる形で指揮を取ることとなり、その責務に押しつぶされたそうだ。

 確かに、彼女のせいではないが、合流までに大勢死んだ。アマーリアはイグナーツとの合流時、自己弁護に終始したそうで、大いにイグナーツの落胆と失笑を買ったそうだ。

 だが彼女をヴァンは笑えない。今この場の誰もがギリギリまで追いつめられている。追いつめられ、その者の最も醜い部分がさらけ出されていた。


「そんなことも分からないのかい、ヴォルテールのお嬢さん」

「分かりませんわ、それがどうしたと言いますの?」

「その程度の事が分からないとは、この会議に参加する資格を問われますね」


 皮肉っぽくテレーゼを嘲笑するマリーシア、それにイグナーツが余計な追従をする。

 だがヴァンは発言の当人、マリーシアの手が震えているのをヴァンは見逃さなかった。彼女は味方を見下し、自分を優位に思うことで心の平静を保とうとしていた。


「あたし達は大敗した。これ以上ない程ね。これからスヴァルトの追撃が待っている。だからそれの巻き添えを避けるのに、リューネブルク市の連中はスヴァルトに媚を売るためにあたし達を売るかもしれない」

「な、そんなまさか!!」

「それが人間アールヴという物さね、自分さえ助かればそれでいい、他人がどうなろうと知ったことではない、イエのために命を捧げられるスヴァルトの狂信者どもとはあたし達アールヴ人は違う。悲しいことだがね」

「一応、ブリギッテらを先行させていますが、どうなることか。彼女は我々ファーヴニルと違い、元々、市民にとって顔見知りと言うべき市の守備隊です。我々よりは裏切る心理的障壁が高い。彼女らが市民を説得して食糧や医療品を送って……いや、まあなるほど」

「イグナーツの旦那、どうしたんだい?」


 イグナーツが自嘲する、その後に出る言葉を予測したヴァンがそれを制止するべく初めて会議の場で発言した。


「イグナーツ殿、それ以上の言葉を謹んでいただこう」

「ヴァン……」

「なるほど、そういうことかい」


 イグナーツが言いたかったことは、ブリギッテが保身を図り、市民側に寝返って自分達をスヴァルトに売る可能性だ。

 だがそれは決して口に出してはいけない。仲間を疑う、それではもう自分達は底の底まで堕ちてしまう。そしてそれからもう這い上がれない。


「あたしの友人をここまで侮辱してくれるとはいい度胸だね、イグナーツの坊や」

「短気はよしてください傭兵隊長マリーシア」

「はん、ヴァン坊やは真面目だね、あっははは」


 眉間に青筋を生み出し、怒りを堪えるマリーシア、もし仮にイグナーツが発言していれば短気な彼女の事、席を蹴ってこの場を去っていた可能性もある。

 危ない所であった。


「徒にも格にも、リューネブルク市に帰還しましょう。少なくとも難民や負傷兵をこれ以上抱えるのは不可能です。このままでは体力が尽きた者から死んでいく」

「……わ、私のせいではありません」

「アマーリア、今その事を聞いている訳ではありません。黙りなさい」

「……」


 会議場が甲板などと言った屋外で行われている理由である。船内は倒れた負傷兵や難民で足の踏み場もない。既に食糧も医療品も底をついている。

 絶望的な状況だがヴァンはこうも思っていた。なぜこれほどまで難民や負傷兵を収容できたのか、もっと言えばなぜそれをスヴァルト側が邪魔しに来なかったのか、と。


「ですが、何の手土産もなく市には戻れませんよ。今回の会戦、市民にも金銭的、肉体的に多大な労苦を負わせました。全て無駄でした、では市民は納得しない。例えば、ウラジミール公の首を手にすればまだなんとか説得できたでしょうがそれを、無能な小娘のせいで……」

「ウラジミール公は死んでいましたのよ、目的は達しましたわ。首を取る必要はありませんでした。あの時の選択に後悔してはおりません」

「開き直るのですか、テレーゼ・ヴォルテール」


 イグナーツは今度、その矛先をテレーゼに向けた。会戦の最中、スヴァルトの総司令官、ウラジミール公は崩御した。

 死因は恐らく衰弱死。元々かなりの高齢であり、そもそも戦場に出るのさえ危険であったのだ。

 その結果は予想の範囲内、だからイグナーツが問題にしているのは崩御直後の混乱の中、ウラジミール公の首を取れた機会をふいにしたテレーゼのことである。

 十年前の侵略を行ったその首魁の首の価値は図りしえない。その首を晒しものにすればアールヴ人の溜飲は大いに下がることだろう。

 だがそれは同時に臣民たるスヴァルト人の筆舌に耐えない強大な恨みを買うことと同義だということを、イグナーツは理解してはいなかった。


「ヴァン、私は提言します。もはやスヴァルトに抗う戦力はありません。もう講和するしかないでしょう。そして講和の条件にそこの無能な小娘が盗み出した、選定の剣、我々アールヴ人にとってはただの剣に過ぎませんが、奴らにとっては聖遺物にも等しいそれの返還、そして……」

「そして……なんだい」

「そして、彼らにとって恨み連なるヴォルテールの一族、つまりはリヒテル様とテレーゼお嬢様の身柄を明け渡すということですね、イグナーツ殿」

「……」

「スヴァルトはイエを重視します。今やアールヴで最も有名となったヴォルテールの血筋は彼らにとって大きな意味を持つでしょう」


 ヴァンはあくまで平坦な口調でイグナーツの言わんとしたことを続ける。その瞬間、はっきりとテレーゼが震えた。

 いつの間にか、彼女は背後にいたリーリエを抱きすくめている。

 思えば、母親であるアーデルハイドが兄リヒテルに粛清された時、茫然自失になった彼女が立ち直ったのはリーリエがヴァンに殺されそうとなった時ではなかったのか。

 守るべき者、守らなくてはいけない者をその手の中に、彼女はそれが例えどんなに絶望的な状況であっても、守るべきものがいる間はその精神が崩れたりはしない。

 だがそれにも限界がある。追いつめられた彼女が選んだのは、全てを受け入れると言う名の思考停止であった。


「既に講和の使者は送っています」

「勝手なことをする……なんだい、仲間を売って自分だけ助かろうと言うのかい、この腐れ外道が!!」

「では他に方法があるというのですか、マリーシア。代案を出しなさい、代案を出してから私を非難して欲しいものですね」

「手前!!」


 弱者を、虐げられしアールヴ人を救うために蜂起したバルムンク、その高すぎる理想の果てがこれであった。

 自由と平等を掲げ、決してまとまることのないアールヴ人、五倍の人口を有しながら、一矢報いることなく敗れた烏合の衆、スヴァルトが管理運営しなければならないと嘲笑した奴隷らの末路であった。

 だがその思想に間違いはあったのだろうか、弱者を守ろうとしたバルムンクの侠客としての信条は間違っていたのか、否、その正義に誤りなどなく、つまりは運用した人間の器量の無さが主因であった。


「アマーリア、私の横へ」

「は、はい」


 言い争うイグナーツ、マリーシアを無視する形でヴァンが会議中、ずっと蒼白な顔を貫いた彼女を呼ぶ。

 椅子を手で寄せる。ぴったりとヴァンの席に密着する形でアマーリアの席を作った。

 彼女はフラフラとした足取りでまるで倒れるように座り、そして寄り掛かるようにヴァンの左腕に縋り付いた。

 アマーリアは震えていた。そしたてその肌が凍ったように冷たい。歩き方でも分かった。彼女もまた負傷している。


「リヒテル様、テレーゼお嬢様が責を取る。長は責任を取らなくてはいけませんのでその意見は間違ってはいません。ですが……まだその時と断じるには早くはないですか」

「なっ、ヴァン」


 イグナーツはヴァンの意志を図りかねて困惑する。そしてマリーシアはお手並み拝見とばかりに含んだ笑いを浮かべた。

 そしてテレーゼ、彼女はなぜか少し不機嫌そうな顔をしている。さかんにヴァンの左腕を指しなんらかのジェスチャーをしている。

 くっつき過ぎ……ヴァンには意味が分からなかった。アマーリアを呼んだのは、この中で一番初めにに倒れそうだったから手を差し伸べたからであり、少なくともヴァンの自覚では他意はない。

 ないのだが……なぜかヴァンは何かいけないことをしているような気になってくる。だが勿論、今、そんなことを考えている暇はない。

 それはテレーゼも理解したのか、どこか子供っぽく、拗ねたような視線を向けて押し黙った。


「私達は負けました。ですが、相手は勝ったとは思っていないかもしれませんよ」

「説明をお願いできますかな」


 ヴァンの突然の指摘にイグナーツが当然の問いを発する。惨敗、敗北、絶望的な戦況、それはイグナーツが理解した全てであった。


「なぜ、私達は生き残ったのです。エルベ河まで逃げ切れたのです」

「それは偶然、いや、相手側も混乱していたからですか……」

「そうです、スヴァルトもまた消耗している。戦果は相対的な物です。私達が負けたからと言って相手が勝ったとは限りません。忘れないで下さい、殲滅と言う名の勝利は初めからこちらにはなかった。引き分けに持ち込んでこちらの勝ち、ならば今の状況は引き分けと言えなくはないですか」

「それは詭弁です。一万もの同胞が、勇士が討死したのです。それで引き分けとは、ヴァン、貴方は妄想に取りつかれているのですか?」

「追撃をかければ私達はエルベ河まで逃げ切れなかった。その機会も余力もあった。それでも彼らはしなかった」


 あくまで淡々と、ヴァンが続ける。平静を乱してはいけない。乱せば皆が不安がる。

 それはリヒテルが長になるにあたって決めた戒め、それを今、ヴァンは模倣する。


「確かに……いくらでも機会はあったのにおかしいさね。あたしらはともかく、あんたらライプツィヒ戦線の人間は多数の難民を抱えてブライテンフェルト草原を横断している。二日かけて……狙ってくれと言っているようだ、まあ、その決死行を成し遂げたところは評価するよ、イグナーツの旦那」

「旦那と言ったり、坊やと言ったり、忙しい女ですね、マリーシア」

「……」


 そしてヴァンは自身の耳を指さした。それは尖っている。否、かつては尖っていた、スヴァルトとの混血を隠すために斬って、揃えたのだ。

 遠目にはアールヴ人と区別がつかない、だがヴァンはそのわずかな差でもって差別された。

 それはアマーリアもまた同じ。そしてそれを恐れて正体を隠し続けた宿敵グスタフ。ヴァンが唯一グスタフに勝っている部分だ。

 グスタフは周りを敵だと思っている。自身は正体が知られれば弾圧されると考えている。だがヴァンは違う、彼は差別した者もまた人間だと知っている。

 以前は違かった、だが今は分かる。同じ人間だと知っているのだ。


「スヴァルトもまたこの会戦で多くの犠牲を払った。追撃が来なかったのはこれ以上の犠牲を出せなかったから、これ以上、同胞が死ぬのに耐えられなかったからです」

「まさか、死をも恐れぬスヴァルトですよ」

「スヴァルトもまた同じ人間ですよ、イグナーツ殿。半分だけスヴァルトの私には分かります」

「……」

(そう、大多数の兵士は戦いたくない。では誰が戦いを望むのか)


 イグナーツ、マリーシア、そしてテレーゼもまた知らない。だがリヒテルの側近であり、あの男と会ったことがあるヴァンだけが悟った。

 ウラジミール公が崩御した今、スヴァルト、グラオヴァルト法国軍を総べるのは誰であるか、傀儡の法王ではない、スヴァルト貴族は強大だが、頭一つ抜けた人間がいない。

 互いの思惑が絡み合うグラオヴァルト法国正規軍。その醜い黒き糸を操り、その上に立つ一匹の蜘蛛。

 混血の出自が露見するのを畏れ、全てをひれ伏せようとする臆病なる簒奪者。


「敵はグスタフ……あの男がいなくなればもう法国軍は戦えない」


 その時、甲板に一人の兵士が現れる。その顔は緊張で固まり、その手には一枚の紙切れが握られていた。


「イグナーツ様」

「我らが主はヴァンです、ヴァンへ……」

「はっ!!」


 イグナーツに促され、兵士はヴァンに駆け寄る。ヴァンはそのままその紙切れを掴み、ゆっくりと目で内容を確かめる。


「な、内容は……」


 それを見る勇気がないのか、ヴァンにくっつくアマーリアが震える声で聞く。だがヴァンは口元を緩め、まるで意地悪でもするように答えない。

 代わりに目の前の傭兵隊長に向き直った。


「マリーシア」

「なんだい、ヴァンの旦那」

「人間、捨てた物ではないかもしれません」

「そうかい、あたしはひねくれ者だからね、穿った見方をすることもある、間違うこともあるさ」


 マリーシアが視線をそらし、遥か彼方を見やる。その先にはリューネブルク市、夜の河がほのかな灯りで見たされている。


「おかえりなさい、だそうです」


 河を埋め尽くす数えきれないほどの迎え、それを見て旗船クリームヒルトが歓声に包まれた。


*****


ブライテンフェルト草原・グラオヴァルト法国軍本陣・夜明け前―――


「ほら、言った通りだろう、スヴァルト貴族にとって平民の命よりも公爵位の方が大事だと……」

「散々に煽っておいて良く言う、彼らは武人、お前みたいな謀略家の風下に立つことの恥は知っている」

「くだらない矜持だ。そんなに気に食わないのならば腐敗神官のように俺を暗殺しようとすればいい。だが武人としての矜持が邪魔してそれが出来ない。汚い手段で王位を手に入れるくらいならば何万人の命を費やした方がマシ。まあ、自分が死ぬわけではないからな」

「嘆かわしい」


 貴族会議、もとい、グスタフの命令は滞りなくスヴァルト貴族らに伝わり、昼過ぎから進軍が開始されることとなった。

 皆、誰にもウラジミール公爵位、つまりはリヒテルの首を渡したくはないのだ。

 高まる欲望は戦闘への渇望となり、恐らく一日後か、一日半後には数万の軍勢がリューネブルク市の手前に集結することだろう。

 グスタフの思った通りだ。だが無論、リヒテルの首をグスタフは他者に渡す気は毛頭ない。

 逸るスヴァルト貴族はしょせん露払い。やや遅れて進軍するグスタフ率いる法王軍こそがリューネブルク市攻略の本命なのだ。

 そして今、グスタフは最期の戦いを前に法王シュタイナーの元へ挨拶に赴いた。

 自らの軍を奪われた傀儡の王、だがそんな男に何かを期待してグスタフは訪れたのだ。


「やはり、戦うというのか、相手は首に縄をかけて降伏しているのだぞ」

「講和の使者か……あれならば斬り殺した、あそこまでやった連中を生かしておけるわけないだろう。時間稼ぎの可能性もある。講和なんて認めないぜ」


 グスタフが訪れるとシュタイナーは開口一番、講和を懇願してきた。足に鎖を括り付けられている状態で己が心配よりも国政を重視するところはさすがアールヴ人の王と言えたが、グスタフは取り合わない。

 彼の中で既にリューネブルク市攻略戦、つまりはリヒテルとの決戦は規定事項となっていた。


「既にリューリク公家軍は戦線離脱を表明した。もはや兵士は物理的にも精神的にも限界に達している。連戦に耐えられる状況ではないぞ」

「リューリク公家が離脱するのは当たり前だ。ウラジミール公が亡くなった以上、俺以外に爵位を継げる貴族はいない。そして俺は公家の従者から嫌われている。爵位を継げない、つまりは公爵位選定の可能性がない以上、戦う理由はないな」

「策略や欲望では人は動かせないか」

「なんだ、意外に正当性にこだわるんだな、猊下」


 ケラケラと笑うグスタフはまるで友人と会話しているような仕草だった。だがそれは錯覚だ。彼は対等な存在を必要としない。

 十年前、自らが混血でしかないと理解したその時。自分がスヴァルト人、愛する女もスヴァルト人、そして生まれた子供がアールヴ人だった。

 愛する女は汚れた子供を産んで殺された。

 その体に隠されたその血を呪った夜、ならば自身が頂点に立てばいい。弾圧する者、卑下する者。彼らより強く、彼らよりも強大となれば自身を脅かす者はいなくなる。

 十年前、その力があったならば……。


「所でバルムンクの様子はどうだ。これだけの大敗北、バルムンクを信じた奴らはさぞ失望しているだろうよ」

「間者の報告を総合するに、各地のファーヴニルはかなり動揺している。ただバルムンク連合そのものは会戦直後は混乱していたものの、今はそうでもない」


 含むようなシュタイナーの言いようを、グスタフは正確に理解した。


「つまりリヒテルは健在ということだな」

「そうだろう、組織は必ず頭から腐る。そしてその逆もまた然り。難民や直属の兵士の動揺が静まっている。恐らくは彼らを統率する各々の長が抑え込んだのだろう。そして各々の組織の長らを宥めたのが総統……リヒテル」

「シャルロッテのグートルーネに腹を喰われたと思ったが、どうやら配下を統率できるところを見ると、大した怪我ではなかったらしい」


 グスタフの脳裏にリヒテルが五体満足な姿で宿った。正確にはグスタフはそう錯覚した。彼の中では未だ幼馴染は自身に匹敵する存在なのだ。


「それでこそ俺の宿敵。そうでなければ面白くない。抵抗しろ、俺の体を切り刻み、焼き尽くす程に、そうでなければ玉座を手に入れる意味がない」


 誰もが手に入る王冠では意味がない。数多の犠牲と、流された血の果てに手に入る王冠、その王冠を手に入れるにも維持するにも生贄が必要。

 そして皆が王冠を忌む、誰も王になろうとは思わなくなる。

 だからこそ王冠は、玉座は輝くのだ。誰もが忌避し、誰もが恐れるその冠を被る王を人は畏れる。


「流される血の上でしか玉座は輝かない、俺が欲しいのはそんな玉座だ」

「愚かなことを……だが私にそれは止められないのだろう」

「そうだ、無力なる法王猊下、お前には何もできない」


 せせら笑うグスタフ、だが法王シュタイナーはこれで最期とばかりに言葉を紡ぎだす。


「できることはあるよ、私は十年の時間を稼いだ。例えば、五歳の幼子が十五の元服に至る時間を稼いだのだ、幼子だったその者は今、抗うことも従うことも、逃げることも出来るようになった」

「ならば抗って欲しいものだ。俺を引き立てるためにな」


 それが終いだった。グスタフは会話する時間が尽きたのを朝日の到来とともに知る。


「宣言しよう、今から三日、七十二時間の間にリューネブルク市の司教府に俺の旗を立てる。さらばだ法王猊下、次に会うのは首都マグデブルク、俺の凱旋式だ」


 そして静寂が訪れた。

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