第90話 朱に染まった夢を見た

朱に染まった夢を見た。

 泣き叫ぶ女の声は、すぐに何か、柔らかい物を踏み潰す音とともに静まり、もしかすると、それは母親だったかもしれない。

 ただ母という物はとかく、例えば自分とか、弱者に対して暴力を振るう存在であり、それがただの肉片に変わった所で一つの脅威が無くなっただけの事。

 だが、母親がいなくなっては金をくれる男を呼ぶことが出来なくなり、つまりは母親の仕事を自分が引き継がなくてはいけなくなったのだ。

 殴られ、詰られ、ヘラヘラと笑う仕事がうまくできればいい。十にも満たない幼子とも少年とも言いかねる彼はふとそんなことを冷淡に考える。


「……?」


 その時、ドアが叩き割られ、中から血まみれの男が飛び出してくる。その男はひどく怯え、顔が恐怖に引き攣っていた。

 男はまるで小動物のように忙しなく目を動かし辺りを見回す。ふと男は、家の外に出されていた、彼を見つけた。


「子供がいたのか……なんだ、折檻中か、それとも憂さ晴らし? まあ、弱い女だったからな」


 怯えていた男はわずかに落ち着きを取り戻す。目の前の彼は幼子で、上半身は裸、剥きだしの背中には何か鈍器で殴られたような跡が痛々しく残っていた。

 つまりは、弱者だ、食い物にできる弱者だ。


「悪いな、俺も余裕がないんだわ、裏切り者を連れて行かないと、俺が神官の奴らに殺されちまう」

「……?」

「恨むならば、スヴァルト人に股を開き、お前を産んだ母親を恨むんだな」


 そう言うと、男は手に持った木の棒を容赦なく彼の頭に振り落す。彼の頭から鈍い音が響くと、ぬるりと赤黒い汁が頭から流れる。

 ああ、死んだな。彼はどこか他人事のように感じた。

 頭が痛かった、何か、大事な物が流れ出ていく感触がする。母親の顔が思い出せない。そもそも名前は……あれ、自分の名前は……なんだろう、か。


「お前ら、スヴァルト軍と内通した裏切り者を見つけたぞ!!」


 彼が意識を失った直後、男が大声を張り上げた、彼は十にも満たない子供を片手で釣り上げ、得意げに自慢した。

 その異様な光景、年端もいかない子供を打ち据えて喜ぶ大人、だがそれ以上に異様なのは周囲の反応だった。


「おお、耳が尖っている。確かにスヴァルト人だ」

「早く赤の広場に連れていけ、首を括ってしまえ!!」

「後何人、裏切り者が……急げよ、もう間もなくスヴァルト軍が来ちまう、それまでに裏切り者を全て炙り出せ!!」


 これで救われる、絶望を前に人は偽りの希望に縋りついた。

 大敗した法王軍、止められぬスヴァルト軍の進軍、人々は無為無策でいることに耐えられなかった。

 自分達ができることをしなくては、それは裏切り者のあぶり出しである。少しでもスヴァルトと関わる者、わずかでもその血を引く者。彼らを抹殺する。

 統治階級たる神官もそれを奨励した。神官らも迫る絶望を前に何かしなくては精神の安定を図れなかったのだ。

 その努力が必ずやスヴァルト軍を打ち破る力となると信じなくては正気でいられなかった。

 正義は我にあり、民衆は我らの友軍なり。

 それは十年前の首都マグデブルク……スヴァルトによる首都陥落、そして五万もの人間が虐殺された、俗に言う、マグデブルクの虐殺、その三日前の情景であった。

 しかし皮肉にも男も、男を称賛した民衆も助からなかった。助かったのは彼のみ。

 ただ生きていること、それが罪とされて絞首台に昇った幼子だけが助かった。

 幼子の名前はヴァン、本名、ヴァシーリー・アレクセーエフ。その母親はベルンハルト枢機卿の愛人でもあり、つまりは世界を奪わんとするグスタフ・ベルナルド・リューリクの種違いの弟であった。


*****


決戦より三日後、エルベ河・リューネブルク市への水運・バルムンク水軍旗船クリームヒルト船内―――


「死にそこなったか……っ、っ!!」


 ヴァンは体を内部から突き破られたような激痛で目が覚めた。

 職業柄、痛みに耐性があるヴァンが痛みで思考がまとまらない。それほどの苦痛だ。

 だが串刺しにされた、否、敵と刺し違える覚悟で自身を串刺しにしたのだ。

 そもそも生きていることが奇跡とも言える。そして体の変異は痛みだけではなかった。


(血を流し過ぎ、違う。これは……痛みでは)


 まるで自分の体ではないような不思議な感覚、たまらない不快感、元からその部位が存在しなかった、そしてふと左腕を見る。

 槍で貫かれ、醜く膨れあがった傷跡、しかしその中心がまるで石か何かのように硬質化していた。そう黄土色に染まり、そう、それはまるで……。


(まるで樹木のようだ……)


―――死術を使う貴方はいずれ、ただの樹木となる。動くことも、もしかすると考えることもできない、ただ生きるだけの樹木となる。


 誰かに、遥か昔に言われたような気がする。あるいはつい最近、だがその記憶は遠く、何より、それほど感慨をもたらさなかった。

 死に慣れている、死に麻痺している。他人の命も、そして自分の命すらも大した価値を持たない。

 故に冷徹、簡単に人を殺し、簡単に命を投げ出す。

 同じ死術士だが、付け焼刃のシャルロッテはまだその域に達しておらず、そしてツェツィーリエのように人を止めている訳でもない。

 中途半端だから悩むのだ。その冷徹が人と乖離していると苦しむのだ。


(誰だか知らないが、余計なことを……これでまた死に場所を探さなくては)


 そうヴァンは助けられておきながら不遜なことを考えて、ゆっくりと、バランスを取ってベッドから降りようとする。

 ヴァンは先の会戦の結果が知りたかった。休んでいる暇などない。

 ちなみにもし同じ状況にあのブリギッテ竜司祭長が陥れば、彼女は仮病も加えて一カ月程休暇(有給)を取るであろうが、ヴァンはそうではない。腕一本でも動けば仕事をする。

 閑話休題、そしてヴァンは部屋から出るためにベットから足を床に降ろそうとして……何か柔らかいものを踏んだ。


「えっ、うわぁぁぁ」


 迂闊にもヴァンは狼狽えた。足の横に何か蒼くて長い物が見える。

 それは髪だ、床には仰向けになったテレーゼがいた。その顔の中心にヴァンの足がある。

 まるで杭打ちのように足が顔にめり込んでいた。少なくとも動揺したヴァンにはそう見えた。慌てて足を引き抜く。


(まずい……もろに入った。体重をかけてしまった、それよりもなんで床に仰向けで倒れているんだ)


 動揺の余り、言葉が乱れていることに気付く余裕もない、ヴァンは珍しくオロオロと左右を見渡し、そして時が過ぎる。

 十秒、二十秒、心の中で数えた数が百を過ぎた頃、テレーゼの口から穏やかな寝息が漏れ出る。

 それを聞き、起きる様子がないのに安堵したヴァンはまずは枕を包む布を手に取り、テレーゼの顔を拭う。踏みつけてしまった証拠隠滅を図るためだ。

 そしてヴァンは推察した。テレーゼが、自身が愛し、そして自分を気にかけてくれる幼馴染がここにいた理由を……。


(もしかして看病をしてくれていたのか……)


 顔を拭う内にテレーゼの目の下に隈が見える。心なしか少しやせているような気もする。それが心配であった。


(あ、でも口の端にパンの欠片がついている。食事はちゃんととっているみたいだ)


 その子供っぽさに少しだけ心が温かくなるのをヴァンは否定できなかった。

 人を、人道を外れてもなお、自分を気にかけてくれる幼馴染、彼女の存在が自分を辛うじて人の括りに留めさせてくれる。

 ただ、それは認めたくないことでもあった。ヴァンにも男としての矜持がある。頼り切りでは沽券に係わるのだ。

 あるいはその考え自体が最も不遜であったかもしれない。頼り切り、それはテレーゼがヴァンに関して思っていることでもあった。

 互いに互いを必要不可欠であることを二人は理解していない。


「……ふぅ」


 そのまま、まどろみのような暖かな空気が漂う。必要以上に、あるいは気が済むまでテレーゼの顔を拭っていたヴァンはしかし、不躾な侵入者によってその至福は中断された。


「……お目覚めですか!!」


 恐らく、ずっと聞き耳を立てていたのであろう、ヴァンの覚醒を、ようやく感じ取った兵卒が室内になだれ込んでくる。数は三人。いずれも追いつめられたような引き攣った表情をしていた。

 なぜかは知らない、だがヴァンはその顔に既視感を覚えた。昔見たような顔だ、だがその在処を思い出せない。

 ヴァンの最も古い記憶は首都マグデブルク、赤の広場の絞首台、そこからリヒテルに助けられたものである。それよりも古い記憶は思い出せないのだ。


「良かった、ヴァン様だけでも目が覚めて……」

「何事です……会戦の結果は?」


 忙しなく目を動かし辺りを見回す彼らにヴァンが不審の色を浮かべる。追いつめられた彼らはヴァンに対し、すがるような視線を一応に見せていた。

 だがヴァンは死術士、邪法使いだ。人道に外れたことを幾度となく行い、このバルムンクの汚れ役を一手に引き受けてきた。

 先の会戦では督戦し、兵士を死地に追いやった。

 間違っても人から称賛される立場の人間ではない。その外道が縋り付かれる。その理由はあまり多くない。

 例えば、他に頼れる人間がいないという最悪な状況など……。


「すぐに案内してください、総統は、リヒテル総統は無事ですか」

「総統は重傷の身でまだ意識が戻りません。もう、ヴァン様しか全体の指揮を取れる人間が……とりあえずイグナーツ様の元へ」


 ヴァンはバルムンク全体の采配を握ったことはない。単に総統リヒテルの第一の部下であったことがあるだけだ。

 ただそんなことをわざわざしゃべる程彼は愚かではない。事は一刻を争う。

 ヴァンは負傷と疲労で立つことすら苦痛でしかない、ただ誰かに肩を貸してもらってはその重傷が知られ、周りが不安になるだろう。

 自力で何とかするしかない。痛みも疲労も、悟られてはいけない。自分は腐ってもバルムンクの幹部だ。


「私は少なからず負傷の身、ゆっくり歩いて行っても構いませんね」

「は、はい構いません!!」


 大声が頭に響く。だがそれを表に出すことなくヴァンがゆっくりと歩きだす。

 本来ならばヴァンは立つことすら体を痛みつける程、衰弱している。そのことを彼らはどうやら察することはできなかったようだ。

 しかし彼らは追いつめられている。追いつめられた人間にそこまでの観察力を要求するのは無理、あるいは要求するのを自らの狭量とヴァンは判断した。


(テレーゼお嬢様、行ってまいります)


 心の中でそれだけ呟いて、ヴァンが退室する。すぐそばに迫る破滅を予感しながら。


*****


ブライテンフェルト草原・ウラジミール公国軍本陣―――


「全体集会に三日もかかるとは……貴族連中は何をしているのだ」

「申し訳ございません、グスタフ様。やはり陛下の崩御と選定の剣が奪われた事実が大きく、動揺が激しいようです。そして何よりも、ライプツィヒ市での虐殺……その事後処理に時間を有しました」


 ヴァンが目覚めた頃、そこより数リュード(約10キロメートル)東の大草原では未だスヴァルトの大軍勢が留まっていた。

 元は遊牧民であるその侵略者はそもそも荒野や草原にて簡易な住居を組み立てて生きる者達。

 住居環境に文句はつけない。最低でも文句をつけるのを憚れる空気があった。

 それはこの十年、侵略の結果としての贅沢に浸っていた貴族であってもである。


「レオニード伯か、まったく、決闘に負けた腹いせに市内を焼き討ちとはな、どこまで堕ちるつもりだか」

「彼はそれを誅罰であると申しています。貴族に逆らった当然の報いだと、しかしだからといって……」

「不満か?」


 どこかからかうようにグスタフが騎士セルゲイに隻眼で見つめ、問いかける。

 彼はハノーヴァー砦で左目、そして今度はバルムンク総統リヒテルに右腕を奪われた。

 だがそのことを気にしている様子はない、むしろ逆だ。

 自分の片腕を奪った相手、つまりは敵がより強大であると感じ、闘志を燃え上がらせている。

 ましてやその相手が幼馴染であり、ライバルでもあるリヒテルならば尚更。

 ゲームはまだ終わらない。終わるはずだったゲームに延長戦ができたのだ。それならば愉しめばいい。 

 常人には理解しがたい考えであった。


「私はスヴァルト人、貴族様に意見したりはしません。ですが正直な所、レオニード閣下が私の仕える主でなかった事を安堵しています」

「ほぉ……十年前のマグデブルクの虐殺に、槍持ちとして参加した人間とは思えないな」

「そ、それは……」


 狼狽える騎士セルゲイ、彼とて侵略者の尖兵、バルムンクの現本拠地、リューネブルク市を統治していた時には自分達に逆らったファーヴニルらを串刺し刑にし、晒し者にしていたくらいである。

 ただ、まったく罪のない人間には手を出しておらず、何より味方にこそ厳しい性格ゆえにそれほど一般市民には恨まれてはいなかった。


「いや、別に攻めている訳じゃない……少し変わったか、と思っただけだ」

「そうですか……私は何も変わってはいないのですが」


 グスタフの指摘が腑に落ちない様子のセルゲイ、だがグスタフにはそれで合格だった。


(……アールヴ人中心の法王軍の未来の長はこいつで決まりだな)


 グスタフはセルゲイに見られないように満足そうに微笑んだ。

 先の会戦でセルゲイは侵略者であるスヴァルト人でありながら、被征服者であるアールヴ人の神官兵を自由自在に、それこそ命までかけさせた。

 その統率力、あるいは魅力は低い地位で腐らせるのはあまりに惜しい。

 グスタフがこの国を簒奪する上で正規軍たる法王軍の支持を取りつけるのは必須、実の所、グスタフは自身が貴族でありながら、貴族の力をあまり信じてはいなかった。

 精兵を持ちながらも、それを有効に活用できない愚物共、能力が低いのではない、単純な能力では十年前に勝利した貴族連合の方が法王軍よりも高い。

 だがそれを使いこなせない、あるいはその力を敵にではなく、味方を牽制するのに使うのではどうしようもない、そして何よりも……。


(上に立って指示するのは俺だけでいい)


 グスタフは自分を頂点にした独裁体制を築きたいのである。気位が高く、何よりも頭のいい貴族は邪魔でしかないのだ。

 そのためには、彼らを打倒、彼ら自身に気付かれない方法でその力を削げばいい。何、簡単だ、目の前にはバルムンクというエサがある。


「しかし、未だバルムンクを支持するファーヴニルも多く、彼らがゲリラ戦に徹すれば、リューネブルク市進軍には危険が伴います。あるいはここは講和するのも一つの手かと……」

「馬鹿を言うな、ここまでやった連中だ、このまま逃がすかよ、地の果てまで追いつめてその首を刈る。そこまでしないと、十年後に第二のブライテンフェルト会戦が起こなわれるぞ」

「……」

「大丈夫だ、手は考えている。バルムンクの手足を引きちぎる方法をな」


 二人は全体集会を行う天幕にたどり着いた。しかしいささか早過ぎたかもしれない。そこにはまだ誰もたどり着いておらず、従者達が会場の飾りつけを行っていた。

 その中で、入り口を塞ぐように死術士シャルロッテが屹立していた。相変わらずの戦場に似つかわしくないドレス姿。

 今回はアールヴ風のディアンドル(エプロンドレス)、木の実を象ったチョーカーが良く似合っていた。テレーゼにやられた傷を隠すためにつけた左だけの仮面と同じ意匠だ。


「……」

「これはこれはグスタフ卿に、誰でしたかな、セル、セル、セルセル?」

「……これは」


 無言のシャルロッテ、彼女は声を出さず、口元でモゴモゴと何やら呟いていた。それに合わせて、彼女の隣に立つ老戦士がしゃべる。まるで腹話術でもしているかのようだ。


「さすがは俺の奴隷、うまくつなぎ合わせたものだ」

「つなぎ合わせた……まさか、これは死体、これが死術なのですか!!」


 セルゲイはこのアールヴ人、無礼な男を詰問することを躊躇った。何かは分からない。だが何かが違うのだ。

 まるでこの老人の胴体と手足が別箇の意志を持っているかのような違和感がある。

 繋ぎあわせた、だとするならばこの男は、いや、この物は……。


「わしの名はエルンスト・バーベンベルク、バルムンクの次席、あのリヒテルの小童、その補佐じゃよ」

「さすがにセルゲイ、お前は気づいたな、ああそうだ、これは死体だ。シャルロッテの死術で蘇らせた。本当は他の死体を組み合わせるのはあまり良くないそうだが、あの爺さん、内臓をぶちまけさせてやったのに抵抗を止めなかった。死んだ時には胴体が使い物にならなくなってな」

「……」


 老人がねっとりとした不愉快な言い方をした。

 それはどこか、奴隷であるシャルロッテを虐待したあのグレゴール司祭長を思わせる嫌らしい喋り方であった。


「グスタフ卿、ご命令を……わしは貴方の下僕でございます、あのリヒテルを陥れるどんな手でもためらうことなく使いましょう」

「あっははは、そうか、ならば遠慮なく使ってもらおう、リヒテルを苦しめる手をな、今度は逃がさないぜ!!」


 バルムンクを陰ながら補佐し、先の会戦ではリヒテルを庇い、その身を持って活路を開いた男、リヒテルが想う父親、それが邪悪な術でもって蘇った。

 老人の魂はそこにない、あるのは邪悪な術者と、それが使う触媒のみ。

 死術の外道、ヴァンが言う人道を外れた道。それが今、ここにあった。


*****


バルムンク水軍旗船クリームヒルト船内・船長室手前―――


「リヒテル様がいない、どこに行かれたのだ!!」

「探せ……遠くには行けない体だぞ!!」


 ヴァンが四苦八苦しながら会議を行う甲板に向かおうとした頃、にわかに船内が騒がしくなった。

 どうやらこのクリームヒルトには負傷した総統リヒテルも休んでいたらしい。それがいなくなった。まるで蜂の巣を突ついたような騒乱だ。

 その喧噪、何よりも兵士達の無能ぶりにヴァンが顔をしかめる。ヴァンを先導する兵士も動揺するが、ヴァンは彼らを制した。


「会議を行う甲板にはリヒテル様はいましたか?」

「えっ、ヴァン様……いえ、いませんでした」

「では、軍事関係の資料を保管しているのはどこですか?」

「それは……船長室に」

「では、船長室にリヒテル様はいます」


 仕事中毒のヴァンは、同じく仕事中毒のリヒテルの思考を良く理解していた。恐らく、ヴァンよりわずかに早く意識を取り戻したのだろう。

 ならばやることは一つだ、総統としての職務、恐らくは自分と同じく会戦の結果を確認、あるいはその資料の作成のため、船長室に向かったのだろう。

 そしてその推理は正しかった。


「リヒテル様、ヴァンです、そこにいらっしゃいますか」


 できるだけ急ぎ足でヴァンは船長室に赴く、その負傷が悟られないよう、務めて常の声音を維持し、ドア越しに呼びかける。


「お前のために閉ざす扉はない、入ってくるがいい」


 意外に元気そうな声、それに安堵し、ヴァンはゆっくりとドアを開ける。予想は正しかったのだ。

 そしてさらにヴァンはリヒテルがそれほど疲労していないと推察した。恐るべき体力、少し休めばある程度の怪我は物ともしない。

 自分などとは違う、そうヴァンはリヒテルを頼もしく、あるいは信じていた。


「……っ!!」


 そしてヴァンはドアを開け、自分がとんでもなく愚かであったことを理解した。


「少し、驚かせてしまったかな」


 顔色は悪い、死相が出ているとも言える。そしてその服が埃まみれであった。そうだろう、ここまでくれば埃で汚れるは道理だ。


「無能が、無能なファーヴニル共が、あいつら、何の役にも立たない給料泥棒が!!」


 ヴァンが叫ぶ、這ってここまでくれば汚れるだろう。

 リヒテルの左足はない、脚と腿の付け根から断ち切られている。

 リヒテルの右足はない、脚と腿の付け根から断ち切られている。

 リヒテルの左腕がない、腕の付け根からその下がなく、ただ包帯だけが巻かれていた。


「義足も義手もリューネブルク市につくまでは作る資材がなくてな、少し不便だが、何、片腕さえあれば仕事はできる」


 そう、机に向かって職務を全うするリヒテル。

 ヴァンは自分を育ててくれた男が、自分よりも小さくなっている光景を見て、流れる涙を止められなかった。

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