第8話 間章・一 リヒテル
スラム街・バルムンク本拠地・銀の雀亭・副総統リヒテルの私室――――
「リヒテル様朝です、起きてください」
バルムンクの副頭領、リヒテル・ヴォルテールは少女の声で目覚めた……わけではなかった。
既に賛歌の鐘(午前三時)で目覚めていたにもかかわらず、ただ、暖かいベッドから出たくなかったという理由でかれこれ三時間もゴロゴロとしていたのである。
だが、部下に起こされたのであれば、起きないわけにはいかない。
そもそも規律を守らせる立場の身で寝坊などしては示しがつかないのだ。
「すぐに出る、ご苦労だったな」
声に……声だけに威厳を持たせてリヒテルがベッドから出る。
読みかけの本が掛布団から落ちた、ドスン。
食べかけのパンがシーツから落ちる、グシャ。
音が響く度にドアの向こうで緊張が走るのを感じる。
少女は律儀にも待っているらしい……その健気さを可愛く思い、あえて気付かないふりをした。
「今日の朝ごはんは……これでいいか」
リヒテルは机の上に乱雑に置かれた砂糖菓子をつかみ取ると大口を開けてほあぶった、朝食は軽く取る主義なのである。
そして砂糖で汚れた手を拭くため、ハンカチを探す。
まずは一段目の引き出しを開ける。
判子、紙束、千切れた帽子。帽子は……ハンカチではない。
二段目。腕輪に羽ペン、紙束。紙束は……そこでリヒテルはハンカチを昨夜読んでいた本の栞にしていたことを思い出した。
ベッドに取って返して床に落ちていた本を拾い上げ、ハンカチを回収する。
そしてまた本を床に戻したところで、ベッドの下に一通の便箋を発見した。
くしゃくしゃになったその便箋は埃にまみれていた。
拾い上げて日付を確認する、十五年以上も前のものだった。
*****
リヒテル、そして姉であるアーデルハイドの父は名の知れた盗賊頭であった。
勇猛果敢で頭もキレ、情に厚く、気前もいい。
子分、バルムンクのファーヴニルは彼を〈ザクセンの王〉と称えた。
いやその綽名もまた過小評価である。
その異名は遠く、首都マグデブルクにまで知られていたからである。
しかし、どれだけ知られていようと、所詮はファーヴニル、盗賊である。
法の外に生きる彼は街中では恐怖される鼻つまみ者であり、手配書には〈ザクセンの王〉を自称する犯罪者として書かれていた。
そんな境遇に我慢できなくなったのか、彼は知古の神官に官位目当てで十四になる娘、アーデルハイドを売り飛ばした。
人望ある盗賊頭は家族には不人情であったのだ。
娘を売って手に入れた職は神官の中では中間に位置する竜司祭。
代償に対して高いとも安いとも言えない。
それに満足していたのか、あるいはそれを足場にして更なる高みを目指したのか、今となっては分からない。
彼は一年後、口論の末に毒を盛られて殺されたのである……下手人は当時七歳になっていた息子、リヒテルであった。
*****
その手紙には娘に対する親愛の情や寂寥の思いが綴られている。
それが娘を騙す欺瞞なのか、はたまた残された父親としての情なのか確かめる術はもうない、父は殺した。
リヒテルはその手紙を破ろうとして、結局、できずにベッドの下に戻す。
今ならわかる……一時の激情であっても、父殺しを行った彼は確かに一線を超えたのだ。
十年前の敗戦による混乱の中、ただの盗賊団でしかなかったバルムンクを、黒きスヴァルトに抵抗できるように改変させるため、彼は反対者を次々と粛清した。
幹部の中には可愛がった〈息子〉であるリヒテルを排除するのに躊躇するものが少なからずいたが、彼は〈親達〉に容赦しなかった。
より悪辣な肉親殺しを行った故にためらいなどなかったのだ。
そして残ったのは、強固な組織に生まれ変わったバルムンク。
姉であるアーデルハイドや、自分の技術を叩きこんだヴァンなど極々少数の賛同者。
粛清は成功に終わった……しかし、それを喜ぶことなど彼にはできなかった。
その手は同胞の血で染められている、喜ぶことなど出来ようはずがない。
「罪には、罰を……そうでないのならば、バルムンクはまた、ただの盗賊に戻ってしまう」
自分はその理想を完成させるために生きている。
全てが解決した後、リヒテルの死でもって楽園は完成されるのだ。
正確には……そう思わなければ、リヒテルは罪の意識に耐えられそうになかった。
「リ、リヒテル様……いかがなされたのですか?」
リヒテルの回想は意外と長かったらしい。
沈黙の長さに不安を覚えた少女がドア越しに呼びかけてくる。
「少し考え事をしていただけだ。着替えたらすぐに行く」
言外に戻れと命令したのである、そう言われては少女には選択の余地がない。
少女は元奴隷であった……租税代わりに親に売られ、巡り巡ってバルムンクにたどり着いた。
十年前ならばそのまま神官か、あるいはスヴァルト貴族に売られたのだろうが、今は違う。
リヒテルは彼女に食べ物、着る物、住む場所を与え、そして今……身を守る術を教える。
「夕方までには仕事が終わる。そうしたら、みんなに剣の稽古をつけてやろう」
「はっ、はい、ありがとうございます!!」
少女の歓声にリヒテルは眩しそうに眼を細める。
ヴァンやテレーゼ程とは言わない。
だが身を守れる力があれば、理不尽な暴力にも抵抗できる……ただ、奪われるだけではなくなる。
(ある程度、戦えるようになれば、職を与えよう。そうしたら、そうしたら、自分の幸せを探せ……奪われた分、幸せになれ、私の分まで)
立ちはだかるは黒きスヴァルト。
貴族主義を貫き、自分ら白きアールヴを奴隷とするべく凶刃を振るう、弾圧者。
打倒できるとは思えない、だが奪われないように戦うことはできる。
リヒテルの視線は遥か遠く、未来を見据えていた。
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