ほんとうのかぞく
扉を開くと、荒木はソファに座り、膝の上で手を組んでうつむいていた。
私が声をかけ挨拶をしても顔をこちらに向けて微かに表情を歪めるだけで、普段の軽口も何もなかった。
「初めまして。荒木紅造だ」
「羽鷺です。羽鷺司」
全く和やかではない簡潔な自己紹介が交わされ、私達は荒木の正面に並んで座る。
「……順を追って話そう」
荒木はきっぱりとした声でそう言った。覚悟を決めたような、または何かを諦めたような、そんな声で。
「花吉という苗字は難読でも特徴的でもないが、実はかなり珍しい苗字だ。人を探すにはかなりの手がかりになる。しかしハナヨシヨウコという名前に、めぼしい人物は居なかった」
それは電話で聞いた。
言い方は少し違っていたが。
「だから俺は『陽子』という名前の方に目を向けた。もしかしたらヨウコではなく別の読み方をするのかもしれないと思い、ハナヨシハルコやハナヨシアキコなどの名前の人物も探すよう指示した」
「ああ……そういうことだったんだ」
お前の母親はハナヨシヨウコはではない。
その言葉の意味がようやく解せた。
「ヒナコ」
「え?」
「お前の母親は、
……ひなこ?
何かが引っかかって、少し沈黙してから理解した。
「……俺の母親とおんなじ名前だ」
司が呟く。
嫌な予感が物凄い勢いで膨らんでいく。嘘だ。そんなわけがない。だって司が語った彼の母親と父が語った私の母親は、あまりにかけ離れている。
そんなことが、あるはずない。
私の母親は……。
「ハナヨシヒナコという女はお前が産まれるまで宮崎県に居た。まあ、これは俺達の出身地だから言うまでもないな。お前を産んだ直後に一人で東京に出ていってから地方を転々とし、最終的には札幌に住んでいたようだ」
違う。違うに決まっている。
叫びたい衝動を必死に堪える。
助けを求めるような気持ちで司の横顔を見ると、彼もまた真っ青な顔をして口を固く結んでいた。
「花吉陽子は札幌に移ってからからすぐ内縁の夫ができた。羽鷺昴という男だ」
ああ。
もう勘違いだとは言えない。
結果だけが、目の前にある。
荒木は両手で顔を覆って、そのまま手を滑らせてうつむいたまま頭を掻きむしった。
「本人同士では、分からないのだろうな。……似ている。顔が似ているんだよ、お前達は」
司を連れて来いと言ったのは、そして不必要だが確認したいと言ったのは、こういうことだったのか。
「……この人の母親と俺の母親が同一人物で間違いねえってことは、分かった。でも、でもさ荒木さん、何で一人で東京なんか行ったんだよ。動機が分からねえ」
司が辛うじて弱々しい反論をする。
荒木は電話口でもそうしたように、深く息を吐いた。
「……お前達は、悪くない。何も悪くない」
そして小さくそう言って、何かを取り出してテーブルに置いた。
古いノートだ。小さな、白茶けたノート。分厚さからするに手帳と言った方が妥当だろうか。
「花吉陽子が札幌に来た直後暮らしていたアパートに、これが残っていた。管理人の老夫婦がいつか取りに来るだろうなどと考えて捨てずに居たらしい」
私は恐る恐るそれを手に取り、ページをめくった。
『十二月三十日
ついに子供ができた。
鶴影さんと私の子。
すてきな家庭になりますように。』
『一月四日。
鶴影さんは赤ちゃんの名前は私に任せると言う。
良い名前を考えなくっちゃ』
これは、日記?
花吉陽子の日記だ。私の父親とのささやかな日々が綴られている。
さらにページをめくって、整った筆跡を追っていく。
『十月一日。
もうすぐ赤ちゃんが産まれる。
名前はまだ迷ってる。
込めたい願いが多すぎて決められない。
困った困った。』
『十月十七日。
生誉という名前を赤ちゃんにあげることにした。きよ、と読む。
ちょっと読みにくい名前だけど。
生まれてきた誉れ。私たちのところに来てくれてありがとうという意味を込めて。』
生まれてきた誉れ。それが私の名前の由来なのか。私は、愛されているではないか。どうしても司の母親と結びつかない。
もしかしたら、やはり別人なのではないかという気さえする。
しかし私の儚い期待は、次のページで崩れ去った。
『十月二十日。
生まれてきた子に片足がなかった。
どうして鶴影さんは平然としていられるのだろう。
怖い。気持ち悪い。
育てられる自信がない。』
『十月二十二日。
これからずっとこの子と一緒に居なきゃいけないと思うと頭痛がする。
もう限界だ。
でも、鶴影さんのことは今も愛してる。
傷つけたくない。
だから明日、誰にも何も言わないで一人で東京に行くことにした。
鶴影さんごめんなさい、ごめんなさい。』
手が震える。呼吸が乱れる。
これが、私の母親? これが居なくなった理由?
「……何が、生まれてきた誉れだ」
そんなもの無いではないか。生まれてこない方がよっぽど良かったではないか。私は、母親に愛されてなんかいなかった。
涙が零れた。古ぼけた紙に染みが広がる。
頬に流れ顎を伝うそれを無視して、さらにページをめくる。
日付は一気に飛んで、私が生まれ母が逃げた翌々年の冬。
『十一月七日。
羽鷺昴さんに出会った。
お金はないけど、私を愛してくれる優しい人。
もう子供なんか要らない。
二人で幸せになる。』
『十二月一日。
昴さんに、来年の春になったら一緒に住もうって言われた。
これで1からやり直せる。』
『一月十日。
どうしよう。子供ができた。
お金がなくて中絶できない。
昴さんとも連絡が取れなくなった。
どうして私ばっかりこんな目に。
私は、幸せになりたいだけなのに。』
そこでページは最後を迎えていた。
私はテーブルに日記を叩きつけるように放って、震えた息を吐き出した。
涙が止まらない。それを情けないと思う余裕もない。
知りたくなかったなんて無責任なことを言うつもりはない。
知りたいと思ったのは私だ。私を思いとどまらせようとした荒木に、それでも知りたいと言ったのも私だ。全ては私の責任だ。誰のせいでもない。
……それでも、これは。
こんな結末は、あんまりではないか。
司は私に続き陽子の日記を読み、無言で天井を仰いだ。
誰も何も言わない。
どのくらい時間が経っただろう。私の涙が枯れた頃、司がため息混じりに声を発した。
「何でこんなやつから生まれちまったんだろうな。馬鹿で身勝手で、短絡的で浅はかなクズじゃねえか」
クソが、と吐き捨てる声を聞き、私は小さく笑った。
どうして笑いが込み上げてきたのか分からない。楽しくもおかしくもない。それでも、口からは乾いた笑いが漏れた。
「……悪い人では、なかったんだよ。日記に書いてあっただろ、この人は幸せになりたかっただけだ」
「んなわけあるかよ。あんなの絵に描いたようなクソ野郎じゃねえか。あんた正気か?」
「どうだかね。分かんない。でも僕はそう思うよ。この人は悪人じゃない。……ただ、僕達の母親ではなかっただけだ」
ただ、それだけ。
それだけのこと。
だって私達のことは愛していなかったが、添った男のことは愛していたのだから。
誰の母親になれなかった、哀れな女だ。
「……でも、そうだな、君が弟だってのは、ちょっと嬉しいな」
司に笑いかけてから、ぐしゃぐしゃになった顔を両手でぬぐい荒木を見る。
「荒木、嫌な思いさせてごめんね。ありがとう」
「……」
彼は黙って、青色の瞳でこちらを見つめた。
分かっている。私が無理をしていると思っているのだろう。しかし嘘をついていると思われそうだが、胸中は穏やかだ。
つらくなんてない。驚きや動揺は涙が全て吸い取っていった。怒りもない。悲しみもない。
どうしてだろう。諦めがついたからだろうか。納得したからだろうか。私の母なんか居なかったと。
あの人は母親ではなかっただけ。
本当の家族ではなかっただけ。
「……もう帰るよ」
ソファから立つ。
一瞬の間のあとに司も立ち上がった。
荒木は何も言わず、右手を軽く振った。
外に出る。もう夕方だ。曇っているせいで美しい夕焼けは見えないが、これはこれで悪くない。
私はやっと気づいた。
私の心は穏やかなのではない。空っぽになったのだ。
あまりにしょっぱい真実に、心の中にあったあれこれが連れて行かれてしまったのだ。
「……他人とは思えねえっつってたら他人じゃなかったな。笑えねえ」
司が皮肉げに言った。
「救われねえな、お互い」
「……そうだね」
それ以降は私も司も黙って歩いた。
やがて分かれ道に差しかかり立ち止まる。
「じゃあ、ここで」
「ああ」
私と司は別々の方向へ歩き出した。
また会う約束は、しなかった。
ほんとうのかぞく 九良川文蔵 @bunzou
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