過去の告白

 司は今日も私より先にベンチに腰掛けていて、私を見つけると軽く手を振った。

「よお兄弟」

「こんにちは。待たせちゃったかな」

「いや、せいぜい五分だ」

 司の隣に腰掛けようとすると、彼はそれを制止した。

「何?」

「せっかくだから今日はゆっくり話がしてえなと思ってさ。ここじゃ落ち着かねえだろ。喫茶店行こうぜ」

「そっか。そうだね」

 私が頷くのを見ると、司は微笑んで立ち上がった。

 立った状態で並ぶと本当に彼の長身が目立つ。私は中肉中背のお手本のような体型なのだが、司はその私より頭ひとつ分大きい。さらに言えば手脚が長い。ファッションモデルでもやっていればさぞかし人気者になったことだろう。

「何突っ立ってんだよ。行こうぜ」

 とん、と背中を叩かれた。それに押し出されるようにして歩き出す。

 司の歩みがゆっくりなのは元々なのか、それとも義足の私に気を使ってのことなのか、それは分からない。

 少し歩いてチェーンのカフェに入った。

 またコーヒーだ、と心のうちで呟く。気分は麦茶なのに。妥協案として、コーヒーではなくアイスティーを注文した。司はカフェモカのホットを選んだ。

「ゆっくり話してえっつったけど、いざ面と向かって座ると何喋ったら良いのか分かんねえな」

 司は照れたように笑う。私もそれにつられて口角を上げた。

「そうだなあ……」

 話題を探す。

「あ、そう言えば僕の友達に荒木ってやつが居るんだけど、彼が君のラジオ番組をよく聴いてたそうなんだ。最近は休業中らしいから寂しいねって言ったら、『そうだな』って」

「そうか、そりゃ嬉しいな」

 少し笑い、司はふっと真顔になった。

「……なあ兄弟」

「何?」

「俺はあんたを信頼してる。知り合ったの一昨日で会うのもたった三回目なのにこんなこと言ったら、あんた俺のこと変なやつだって思うかい?」

「……ううん、思わないよ」

 正確に言えば元々変わり者だと思っているので、今更そんなこと言われたって驚かないというだけなのだが。

 それに。

 私も、彼のことを身近に感じ始めているのだ。先ほどのファストフード店でも思ったように、こんな弟が居たらな、なんて考えたりして。

 司は大きく深呼吸をした。

「……俺が仕事休んでる理由はさ」

 おや、と思う。

 初めて会ったときは内緒と言っていたことを話してくれる気になったらしい。なんとなく、身構えた。

「どっから話せば良いのかな……まあ、端的に言うと病気扱いされてるからだ」

「病気……扱い?」

「うん、そう。……ちょっと話飛ぶし長くなるし、おまけに聞いて楽しい話じゃねえんだけど、聞いてくれるか?」

「……うん、何でも聞く」

 俺はあんたを信頼してる。

 そう言ってくれたのが本心なのであれば、私もしっかりと受け止めなければなるまい。

 それに司の「信頼してる」という発言には、「俺がこれからどんな話をしても嫌いにならないでくれ」という言葉が隠れているような気がした。

 なぜだか分からないが、私はそう確信した。

「俺と弟が双子で生まれてきたのは前に言ったな。子供の頃はマンションの一室に俺達と母親が居た。父親は居なかった」

 私と逆だ、と咄嗟に思う。

 家庭環境に逆も何もないのに。

「母親は、あんまり良い親じゃなかった。いつも煙草吸って酒飲んで、部屋が常に煙くて臭くて、嫌だった。飯なんか作ってもらったことねえし、それに『母さん』って呼ばせてくれなかった。あたしはあんた達を産みたくて産んだわけじゃねえっつって怒られた。『ひなこ様』って呼ばせてたんだぜ? てめえが産んだガキに」

 司の言葉に微かな怒気が混じる。

 ひなこというのは司の母親の名前なのだろう。……それにしたってひどい親だ。いや、そんなやつは親でさえない。私まで怒りにかられた。

「……あんま話したくねえけどさ。貧乏な女が貧乏な男と薄汚ねえ恋愛して、考えもなしに子供作って堕ろすに堕ろせなくて、そんで男の方はどっかに消えた。そんなやつらの血肉で俺が構成されてるって思うと吐き気がする」

 司はもう一度深呼吸をした。

 想像する。

 狭いマンションの一室。煙草の煙。充満する酒の臭い。二人の少年。一人の女。血は繋がっているのに親でも家族でも何でもない。

 なんて冷たいのだろう。冷たくて固くて、凍えて死んでしまいそうな気になる。

「俺と弟はほぼ同時に家を出て上京した。逃げるみたいに。……いや、『みたいに』じゃねえな。逃げたんだ。そっからは母親にも弟にも会ってねえ。連絡も取ってない。そんで時間が経って母親の記憶も薄れて、まあそれなりに楽しく生きてた」

 司は話を続ける。

「……でもこの前、電話が来たんだ。あの女、死んだってよ。嫌なこと全部思い出しちまってさ、一回思い出すと、もう駄目だな。誰と居てもあの女の顔がちらついて人と話ができなくなった。そんで嫌になって仕事を休んだら病気扱いだ。やれ精神科だカウンセリングだって、どいつもこいつもうるせえ」

 うるせえんだよ、と司は吐き捨てた。

「そんで今現在に至る。俺の話終わり。つまんねえ話聞いてくれてありがとう」

 彼の言葉が途切れる。私はしばらく沈黙してから、司がこちらの言葉を待っていることに気がついた。

「えっと……人と話すの嫌になったってことは、その、僕と話すのも苦痛だったのかな。だとしたら、すまなかったね」

「いや、それは違う。あんたと話すのは楽しかった。嘘じゃない」

「……そうなのかい?」

 司の言葉が全て本当だとして。

 私とその他の人々にどんな違いがあったというのか。

 劇的な出会いをしたわけではない。特別なことを話したわけでもない。いわんや彼を救ったわけでもない。

「……何て言ったら良いんだろうな」

 司は言葉を選ぶように少し口ごもった。

「他人とは思えない……ってやつかな」

 ふ、と視界がクリアになる。

 驚いた。私が感じていた不思議な感覚を司も覚えていたらしい。

「……なあ兄弟。あんたは俺のこと、どう思う?」

 司は昨日と同じ質問を繰り返す。

 私は答えに迷った。

 下手なことを言えば、彼の体に罅が入って崩れてしまうような気さえした。

 しかし上手く取り繕うことができるほど私は賢くもなければ器用でもない。結局は、正直な言葉を吐かざるを得なかった。

「……僕は、君のことを弟みたいに思ってる」

 司は眼鏡の奥の目を微かに丸くした。

「僕も同じだ。君を他人とは思えない。君が嬉しそうにしてたら嬉しかったし、さっきの話を聞いて君の親に怒りを覚えた」

「……そっか」

 司は。

 柔らかく、微笑んだ。

「ありがとう。やっぱりあんた優しいな。あんたみたいな兄貴が居たら、俺の人生も違ってたのかな」

「……」

 返事に詰まる。

 それはどうなのだろう。

 私は所詮、野次馬で、情なくて、女々しくて馬鹿で小心者の嫌なやつだ。

 何とも答えられずうつむいた。

 と、ここで唐突に携帯電話が鳴る。

 あまり外に出ない私は携帯電話を使う機会も少なく、また周囲の人間からの電話もほぼかかってこない。さっきまで上着の内ポケットに入れっぱなしだったことを忘れていたくらいだ。

 音を鳴らすそれをわたわたと取り出し、司に断ってから通話を繋ぐ。

「もしもし」

「もしもし……荒木? 珍しいな、君から電話かけてくるなんて。母のこと何か分かったの?」

「ああ。まだ尻尾を掴んだ程度だがな。今、情報の分析の真っ最中だ。手短に言う」

 一呼吸置いて、荒木は言葉を続けた。

「お前の母親は、『ハナヨシヨウコ』ではなかった」

「……どういうこと?」

「もう少し調べてから再度報告する」

 ブチッと嫌な音がして通話が途絶える。荒木の言っていた意味が分からない。

 母は花吉陽子ではない? ならば、あの人は誰だ。赤ん坊の私を抱いていたあの女の人はどこの誰だと言うのだ。

「兄弟、大丈夫か?」

「え……ああ、うん、平気。ちょっとわけ分かんないこと言われて混乱しただけ」

「ふうん……」

 司は目を細め、カフェモカを一口飲んでこちらを見つめた。私は彼の視線の意図が分からず、ただ見つめ返す。

 その状態がしばらく続いて、私はようやく気がついた。

 彼は先ほどの電話の内容について私が話し出すことを待っているらしい。「話してくれ」の一言もないのだから、司は見た目よりずっと不器用な男だ。

「……あのね、僕は、母を探しているんだ」

 私は司に全てを話した。

 生まれてすぐ母が居なくなったこと。父が最後に残した言葉のこと。アルバムの写真のこと。荒木に調査を頼んだこと。ハナヨシヨウコは母親ではないと言われたこと。それから、私がとても嫌なやつであること。

 司は私の話を黙って最後まで聞いて、ゆっくりと深く息を吐いた。

「あんたは嫌なやつじゃないよ」

「……どうかな」

「人の感情に罪はねえんだ」

 俺の勝手な考えだけどさ、と司は微笑む。

「思うだけならタダって言うだろ。頭の中にどんな感情を抱いてても、行動に移さない限り誰にも迷惑はかけない。寂しがるのも自分を嫌うのも好き勝手やって良い。それに、あんた誰も傷つけてねえじゃんか。充分だよ」

「……」

「少なくとも俺は、あんたの寂しさを埋めるための友人に選ばれて嬉しいぜ」

 例えば頑張れと言われて頑張れたら。気にするなと言われて気にしないで居られたら。元気を出せと言われて元気になれたら。

 他人の言葉で自分の考え方や物の感じ方を変えられたら誰も苦労はしない。

 司の優しい言葉で私が自分を許せるかと言われたら、それは違うと言わざるを得ない。

 しかし何も届かないというのも、違う。

 私は自分が独りではないことをようやく理解した。気づくのが、少し遅すぎたのかもしれないけれど。

 私は不幸なんかではない。そんな考えは馬鹿げた勘違いだ。

「ありがとう。……なんか、お礼の言い合いみたいになっちゃってるね」

「そうだな。いい年こいた男二人が何やってんだろな」

 司は声を上げて笑った。

 そこからはくだらない世間話をして、私のグラスも司のコーヒーカップも空になってからカフェを出て帰路についた。

 明日も会う約束をして。



 それ以降、私達の雑談場所は公園のベンチから喫茶店に変わった。そちらの方が落ち着くということもあるが、「昼間の公園で不審なおじさん二人がベンチに座っている」という噂が近所で流れ出したらしいことを知り、居たたまれなくなったことの方が大きな理由だ。

 近くのチェーン店だったり少し奥まったところにある個人経営のカフェだったり、その日の気分でいろんな場所に行くようになったが、話す内容はいつも同じだった。

 天気の話とか、時候の話とか、仕事の話とか、部屋の片付けが面倒だとか、靴下に穴があいていたので仕方なくタンスから別の靴下を取り出したらそちらにも穴があいていた、とか。

 そんなくだらない話。どうでも良い話。

 それこそいい年のおじさん二人が何をやっているのかと思うほど、つまらない話で盛り上がった。

 そんな日々が続き一週間が経った頃。

 そろそろ司との待ち合わせ場所に向かおうというときに電話が鳴った。

 出ると、向こうに居るのは荒木である。

「もしもし」

「……ああ」

 荒木の声は妙に沈んでいる。落ち込んでいるのか、あるいは言いにくいことを言おうとしているのか、そんな感じだ。

「どうしたんだい?」

「……お前の母親が見つかった」

「え、本当に?」

「……」

 心臓が早鐘を打つと同時に、違和感を覚える。やはり荒木の態度が変だ。まるで悪いことでもあったみたいではないか。

「……何かあった? 大丈夫?」

「……花吉。お前は本当に、母親に会いたいか?」

「何だよそれ。そりゃ会いたいよ」

「……」

「ねえ、何か会わない方が良い理由でもあるっていうの?」

「……違う。会わない方が良いのではない」

「じゃあ何なんだよ」

「会えないのだ」

「どうして?」

「……」

「荒木、君本当に変だよ。何かあったならはっきり言ってくれ」

「……お前の母親は、今年の夏に亡くなっていた」

「……え」

 ……亡くなっていた?

 言葉の断片が体の中を回る。

 聞いた瞬間は、存外動揺はやって来なかった。

 すうっと頭が真っ白になって、言葉に詰まる。それからようやく驚きだとかショックだとか、そんな類の感情を覚えた。

「……で、でも」

 舌が上手く回らない。急速に喉が渇いていく。

「亡くなったところまで分かったんなら、それ以外のさ、それまでどこに居たかとかどんな仕事してたとか、そういうことも分かったんだろう?」

「……そうだな」

「それを聞きに行くよ」

「いや、駄目だ」

「どうして?」

「……」

 この期に及んで、荒木は何を口ごもっているのだろう。さらに言いにくいことでもあるのか。

「とにかく、そっち行くから」

「……それでどんな思いをすることになってもか?」

「え? ……ちょっと言ってる意味が分からないよ」

「血が繋がっていても、会ったこともないのなら赤の他人ではないか。そこまでして知るほどの価値が本当にあるのか?」

「何が言いたいんだ、君は」

「お前は母親が居なくたってここまで生きてこられたじゃないか。今さら……」

「だから何が言いたいんだよ!」

 煮え切らない、むしろ母親について知ることを諦めさせようとしているような口調の荒木に腹が立った。

 思考が鈍った頭に血が上り、受話器の向こうへ怒鳴りつける。

「なんで君にそんなことを言われなくちゃいけない? ……ああそうか、そうだよな! 君はちゃんと父親も母親も居て! 妹だって居て! まだみんな生きてて仲良しで、だから僕の気持ちが分からないんだろ!」

「……」

「何とか言えよ! どうせ腹の底では僕を見下してるんだろ!」

 荒木は何も言わない。ただ黙って私の罵声を聞いている。

 さんざん汚い言葉を吐いてから、ようやく私は冷静になった。

 荒木を責めてどうなる。そもそも、荒木はこんな悪趣味な冗談を言うやつではない。恐らく……いや、確実に、何かあるのだろう。

「……ごめん、荒木。ひどいこと言った。本当にごめん。……でも知りたいよ。どんな思いしたって構わない。初めから覚悟してる」

「……そうか」

 荒木は深く深く息を吐いた。

「なら、今からこちらに来れば良い。……花吉、まだ羽鷺司との繋がりはあるか?」

「え? ……うん。これから会いに行こうとしてたところだけど……それが?」

「彼も連れて来い」

「どうして?」

「確かめたいことがある。……ほとんど不必要な作業だが」

「……分かった」

 よく分からないまま返事をして、受話器を置いた。

 正直に言えば、怖い。

 荒木にはああ言ったが、初めはただの出来心だったのだ。ただの浅はかな好奇心。それだけで彼を巻き込んだ。楽観的な性格の荒木があそこまで口ごもるのだから、大きくて暗い何かがあるのだろう。

 それを知ることを恐れている自分と、それでもむきになって諦められない自分が混在している。

 私は思考の整理がつかないまま司との待ち合わせ場所へ向かい、彼に事情を話して夜深探偵社へ向かった。


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