第一章 師匠失格 【後編】
今日は雨だ。そうはいっても、
私は、ルタが読み終わった本を片づけ、新しい本を
それに
「おや、悩み事かね?」
ついた溜息を聞かれてしまった。私は背後の曲がり角から現れたゲルハードに道を
「王様は今日もお美しいなと感激しておりました」
私の視線を
「王は、
しとしとと降り注ぐ霧雨よりも静かな言葉が
「君のおかげだ」
「……いいえ。いいえ、とんでもないことでございます」
「君は、本当に王の
「それこそとんでもないことでございます。願うのはあの
もし私がルタに何か
抱えていた本を持ち直し、
「……君は、どうしてそこまでするんだね?」
「はい?」
質問の意図が分からず、思わず聞き返した私に、ゲルハードは言葉を探すように自らの
「いや、
ゲルハードの言いたいことが分かって
「私はただ、盲目になっている自覚があるだけです」
違いがあるというのなら、それだけだろう。若さ
「昔、一人ぼっちの子どもがいたんです」
「……子ども?」
「私はそれに気づけなかった。もしかしたらあの子自身も、そんな自分に気づいていなかったのかもしれません。私は、愛されて歩むはずだったあの子を
大事なものは彼だけだ。彼だけだったのだ。何より大事な、ではない。他に大事な物なんて何もなかったのだ。
私の
「私は、あの子が幸せであれば、他に望むものなど何もないのです」
私の
「あの子、王様にとても似ているんです」
真実と
「ああそれで、王様に
「そんなところです」
にこりと笑って頭を下げる。納得頂けたのなら、もう下がっていいだろうか。ルタに新しい本を届けなくてはならないのだ。それと、温かいお茶と
「……君は本当に
別にすり
お探しの相手を見定めていると、ルタは天に向けた
私はゲルハードに向き直り、本が落ちないようがばりと頭を下げる。
「王様が呼んでいるので失礼します!」
「ああ、気をつけていきたまえ」
穏やかな声に見送られ、私はルタの元に
一人で立っているルタの元に走り寄る。
「王様ー! 新しい本でしたらこちらでございます! お茶でしたらただいま
積み上げた本をずいっと差し出しながらクビを進言してみる。うきうきと待っていたけれど、反応がない。いつもの「うるさい」もなくてちょっと
「如何なさいましたか?」
具合が悪いのだったら大事だ。気分でも悪いのだろうかと、無礼を承知で下から
顔色を
「
「そうですか? ゲルハード様はよくお声をかけてくださいますよ」
「そもそも、お前とゲルハードは話が
「九割以上王様のことですので
「………………そうか」
「……残りは何だ?」
「雑多な物なので特に実のある話は何も」
「お前は、意外と自分の話はしないな」
「はあ。家族の話題もありませんし、友達の話題は女の子同士の秘密なので
胸を張って宣言したら、ルタが半眼になった。可愛い。
「人には色恋に走れとうるさいくせに」
「王様はおモテになりますので、歩いても全く問題ないと思います!」
「うるさい」
「そんな王様の初恋話など
「お前は?」
「はい?」
あからさまに書きとめると嫌がられそうだから、心の中に刻んで覚えようと構えていたのに質問が返ってきて反応が遅れてしまった。お前……私の初恋? そんな
掌を唇に当てて考え込む。ルタはその間じぃっと待っていた。いい子だ。
「あ! 思い出した! 確かち、……知り合いのお兄さんですね」
父の知り合いのお兄さんと言いかけて、
「
両親が
遥か昔の記憶を思い出し、しみじみ
「私の初恋はそんな感じですね。王様の初恋はどのような?」
「年上」
さらりと答えてきたルタに、私は静かに
「旅のご用意を致しますね」
「旅?」
「
最後まで言い切る前に、私が持っていた本が静かに取られ、脳天に
ローリヤの朝は早い。女の子の
すぅすぅと規則正しいローリヤの
寝間着を
さらしを解き切ったそこには、厚手のガーゼを何枚も重ねて
恐らく生まれた時からあるその傷は、いつも血を流していた。私が養護院の前に捨てられたのは、この傷を気味悪がられたのだろうと予想をつけている。
昔、私がまだ
ルタは私を許してはくれないのだろう。
私が憎悪を
年を取るごとに傷口は生々しくなり、流す血も多くなった。昔は
どんどん開いていく傷口を見るに、私が死んだ辺りの見た目になったら死ぬのだろうと思う。そして、それはもう目の前だ。だって私は、そろそろ十七歳になる。
だから、その前にルタの前から消えるつもりだった。なのに、クビにはならないし、ルタは会話してくれるし、友達は出来るし、毎日楽しいし。
「ルタ、どうしてくれるのよ。私、幸せじゃない」
あなたが過ごした千年の
あなたのおかげで、私は寂しくなかった。ずっと、ずっと、あなたの手で終わったその時でさえ、寂しさはなかったのだ。だから今度こそ、あなたもそうであればいい。そうであるのなら、私はもう何も思い残すことなんてないのだ。
ここにいるのは、私の未練か、あなたの
記憶を持って生まれ直したところで、時が
あれだけあなたが
かしゃんと
「手が
ぱたぱた手を振って追い返すのに、ルタは立ち去るどころか私の手首を
「……お前、最近どうしたんだ」
「何がですか?」
「その、死人のような顔色だ」
「やだなぁ、王様。私はいつでも墓から
胸を張って答え、次の瞬間飛んでくるであろう手刀に身構えたのに、ルタは動かない。それどころか、まるで自分が手刀をくらったかのような顔をしている。
その顔に、ああ、もう時間切れだと気づいた。本当はとっくに気づいていたけれど、天神の
私はきっと、そろそろ十七歳になる。正確な年齢は
私は手首を
「王様、ごめんなさい。私、持病があって、あまり長くは生きられないんです」
息を飲んでも美しいルタ。優しいルタ。
私のルタはもういない。いや、きっと最初からいなかった。ここにいるのは、一人の美しい青年だ。ずっと見ないふりをしていた。ずっと、あの
「だから、王様、私をクビにしてください。故郷に帰って、静かに余生を過ごします」
「…………養護院に戻るのか?」
「あら、ご存知でしたか」
「調べた」
あっさりと白状したルタに
「養護院は十五歳までですから。今まで
空が見える場所がいい。かつてはあの空の中で生きた。養護院はみんな優しく
「……行くなと言ったら、どうする」
「行きます」
「お前を愛していると言ったら、どうする」
今度息を飲んだのはルタではない。重ねていた手を引き
「私、以外で、お願いしますって、言います」
「……嫌だ」
「お願いします」
「お前がいい」
「王様」
「お前が俺の前に世界を開いた。だったら、最後まで見届けろ!」
息を吸ってルタの胸に額をつける。どうせすぐに
終わりだ。終わりだよ。
「ルタ」
ぴたりと、時が止まった。
耳をつけた胸から、大きく
最後の王族。最古の王族。最後の
「…………アセビ、お前は、誰だ?」
震える声が私を呼ぶ。
「あら、私の名前をご存知でしたか。お前ばかりだったので、てっきりお忘れかと」
「アセビ!」
「あなたの師だと言ったら、もう一度殺すのかしら?」
赤い
「…………師匠?」
「そんなに
苦笑して
「だから、私以外でお願いしますと、何度も言ったでしょう?」
「俺を、殺しに、きたのですか?」
「
ああ、
じわりじわりと
「俺は、
「私があなたの仇よ。あなたが私の仇だと言うのなら、それは私の
込み上げてくる笑いを
「何がおかしいのですか!」
どんっと壁を
時間と
「俺は貴女からもらった恩を
ルタが激情のままに
「私、あなたに、
「……憎んでいました。生を捨て、人であることを捨て、貴女を殺す
ルタは
「愛しています」
かち、かちと、時計が時を刻む。私とルタの時間を刻む。やけにゆっくりと針が刻まれるように思った。けれどそれは気のせいで、時間はいつも変わらず、同じ速度で流れていく。変わるのは、同じ時の中で生きているはずの私達の感じ方だけなのだ。
「俺の
残りわずかな時間を刻んでいく。
「愛しています、師匠。貴女を愛しています。愛していますっ……!」
悲鳴のように
「私はきっと、どこか
零れ落ちた一筋の
「本当に、幸せだったの」
その頰に赤い
「私も、あなたが大好きよ、ルタ。あなたを愛してる。だから」
私以外と幸せになって──……。
最後に見えた羽の美しさに心を奪われながら、二度目の
私は本当に至らない師だ。
「ルタ……あのね」
「はい、師匠」
顔を覆っていた骨のような両手を外すと、色の変わった朝焼け色の
「確かに、天人の羽は人間を持ち主と同じ生の中に包み込むことが可能です」
「はい、師匠」
「だけど、それはね?」
「はい、師匠」
殊勝に
「相手と同意の上に成り立つものなのよ!」
私は大きなベッドに
頰っぺたを抓り上げる私の手をするりと
「
「誰がこんなややこしい関係の相手を選びなさいと言ったの!」
ルタの羽を得た私は、
「大体あなた、こんな傷を今生に残すほど私を
「申し訳ありません。その傷は
「死にかけたのは私ですけど!?
私は片手で顔を覆って、がっくりと
「命を救ってくれたことには感謝します。ですが、いいからあなたは誰か
「師匠、一つ質問しても
「
「今までの師匠と今の師匠、どうやって切り
「うぐっ」
それ聞く? 聞いちゃう?
「どちらが本当の師匠ですか? どちらもですか?」
それ
どっちも私だけど、アセビは素で、師匠はちょっといいとこ見せたくて
どう答えたものか、もうしれっと
「俺はどちらも好きですが」
「うぐっ」
誤魔化そうとしたところにこれである。もういいから、ルタは
ぐったりと項垂れているのに、ルタは追及の手を
「師匠は、まさか
「私が
「俺は、
「私も愛しているわ、ルタ。だから、幸せになってね」
あの時は死ぬと思っていたからつい白状してしまったけれど、さすがにそこまで師匠失格になりたくない。まだ
それに、ルタは私を憎んでいなかった。私を師匠と呼んでくれる。私を師と、認めてくれているのだ。その期待に応えられなくて、何が師匠だ。
だから私は、師匠らしくにこりと笑顔を
「私はあなたの幸せを祈っているわ」
祈る天神はもういないけれど、私達がいた空に祈っている。何だったら、あなたが千年間持ち続けてくれた
ルタには、私よりその
「だから、ルタも私との関係を他の人に言ってはいけませんよ? 特に老身には
今までの分も含めて師匠らしさを発揮する私の手を
「せめて、もう少しだけ、いては頂けませんか? 俺は、貴女に話したいことがたくさんあるのです。あの
「ルタ……」
ルタが悲しそうだと私も悲しい。ルタが苦しそうだと私も苦しい。
「俺は、貴女に手を引いてもらえて嬉しかったのです。ただ一人の王の子として厳格に育てられていた俺は、初めて子ども
私は、
「そんなことはないわ! 私はあなたとこうやって話せる日を夢見ていましたからね。分かりました、ルタ。出発はもう少し後にします。でも、他の
「はい、分かりました。師匠」
私は、そう言って顔を上げたルタが浮かべていた微笑みを見て、天神に、世界に、運命に、命の全てに感謝した。
昨日と何も変わらない世界は、それでも何もかもが
私は、タイルを
「……アセビ」
「今日もいい天気ね! ローリヤ!」
「……アセビ」
「あ、ローリヤ、そこのブラシ取ってもらっていい?」
目の前に
「はい、師匠」
「ローリヤ、ブラシ取ってもらっていい?」
「師匠、このブラシではありませんか?」
「ローリヤさーん?」
頭ごとずらして無理やり視線を外した先のローリヤは、次の
「王様の手からブラシを
「アハハハ、オウサマナンテドコニー」
「いやぁあああ! アセビが
大好きなルタが、目の前でにこっと笑ってくれる幸せの
「王様」
「どうぞ今までのようにルタとお呼びください、師匠」
「……王様」
「ルタ、と。別にルタ・ミソギハギとお呼び頂いても結構ですが。師匠のよしなに」
「……ルタ」
「はい、師匠」
「………………ここは人手が足りていますから、
ローリヤは
「アセビ、たぶんそれじゃない!」
「違う! そうじゃない!」
遠巻きというにはかなり近い
「分かりました。では、また後ほど」
師匠の気持ちを
室内なのになぜか
「……アセビ?」
「……はい」
「……私、あなたに言っておかなきゃいけないことがあるの」
「……はい」
私達は、ルタが去っていった方角を見つめながら立ち
「昨日いきなりアセビの
「ん?」
「わ、私ね? その……あ、あいつと、その……け、
「ええ!? お、おめでとう! うわぁ! おめでとうローリヤ!」
「あ、ありがとう!」
耳まで真っ赤になったローリヤの両手を握って飛び
我がことのように、
「仕事は続けるけど、部屋は家族用の宿舎に移動になるの。だから、残念だけど、あなたとの同室が解消されてしまうのよ」
「あ、そうか……うん、残念だけど、おめでたいことだもんね!」
仕方がないことだ。でも、それだったらもう、新しい人と同室になる前に
「あのね、アセビ」
「うん?」
「私、昨日それを室長へ報告に行ったの。そしたら……その……王様の
木枯らし再び。室内だというのに、木枯らし達は
両手で顔を
「老臣様方がアセビのこと
「……ローリヤ、私ね、ルタのこと愛してるの。もう、目が合うだけできゅんきゅんする」
がたがたがたと周り中から音がした。
「でも、私、これ以上師匠失格になりたくないの!」
「え!?
「え!?」
「私の両親師弟よ!? 別に立場乱用して強要とかしないんであれば、師匠失格だなんてならないわよ!?」
「ええ!?」
ちょ、待って、今の無し。いま走り去っていった人待って! どこに何しに行ったの!? それをルタに伝えるのはほんと待って! 慌てて追いかけようとしたけれど、はっと気づく。いま走り去っていった人が向かった方向は私達の宿舎がある方角だ。なんであっち行った?
そして、その方向からローリヤの
「ローリヤ、アセビ! 王様が師匠の寝室を整えるのは弟子の務めと
「ルタ──!」
最後まで聞かずに
「歴代側近の方々の墓前に報告だ! 王様の
「疑問形ありがとうございますー!」
走り去りながら、心からの感謝の気持ちを込めて叫んだ私に、早く
「!!!!!!!!!!!!!!!!」
「お前それどうやった!?」
感嘆符だけを固形にして周囲に散らばらせて、今度こそ止まらずに走り去った。
出来の良い弟子は、私に
羽の具合を確かめることも
けれど、アセビとしての私は上だけを見て生きたわけじゃない。地上で前だけを見て走り
そんな私の
ルタは、ぶつかった額を押さえ、残りの手で私を支えてくれた。そして打ち付けた頭を押さえ盛大に
笑ってくれた。ルタが笑ってくれた。私を見て、笑ってくれた。
声を上げて泣きだしてしまいたい。でも、弟子が笑っているのに師が泣いてどうするのだ。それくらいの
この先、どんな師匠失格をやらかすのかは自分でも分からない。これまで以上の失格はない気もするけれど、何があるかは分からないのが運命だ。それでも、ルタが私を師匠と呼んでくれる限り、私は彼の師で、彼は私の弟子なのである。たとえそこに別の関係が加わったとしても、変わらないものはあるのだから。
淋しき王は天を堕とす -千年の、或ル師弟-/守野伊音 角川ビーンズ文庫 @beans
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