第一章 師匠失格 【後編】

 今日は雨だ。そうはいっても、たたきつけるようなものではなく、しとしととやわらかなきりさめが一日中降っている。今日はずっと世界を湿しめらせるだけの雨が降り、晴れ間が覗かない。こんな時は気分までじめじめするけれど、いつだってルタを見るだけで世界は全て晴れ模様だ。

 私は、ルタが読み終わった本を片づけ、新しい本をかかえたまま、向こうのろうを歩いているルタをうっとり見上げた。ルタは、通りすがりに出会った神官を呼び止めて何かを話している。ずいぶん、話をするようになった。最近、口を開いたルタを見る回数が増えている。だれかと話す姿がめずらしくなくなった。相手だって、話しかけられたら老いも若きもみな一様にぽっくりいきそうなほどおどろいたりしなくなったのだ。きんちようでがちがちになる人は多いけれど、ひょうきんな人なんてちょっとしたじようだんまで交わすようになった。

 それにともない、私の胸からじわりじわりとき出すものが増えたように思う。

「おや、悩み事かね?」

 ついた溜息を聞かれてしまった。私は背後の曲がり角から現れたゲルハードに道をゆずりながら、へらりと笑う。

「王様は今日もお美しいなと感激しておりました」

 私の視線を辿たどったゲルハードは、神官と言葉を交わすルタを見つけてうれしそうに目を細める。じりかぶしわはくっきり太い。笑い皺だろうか。

「王は、おだやかな顔をなさるようになった」

 しとしとと降り注ぐ霧雨よりも静かな言葉がつむがれるので、じろぎするのもはばかられる。この神殿は、いつもゆっくりと時間が流れていく。誰も彼もが王のために働く、王の為の楽園であれと定められた場所。

「君のおかげだ」

「……いいえ。いいえ、とんでもないことでございます」

 やさしく穏やかな、いつだって不変であったこの場所が変わったというのなら、それはあるじであるルタが変わったからだ。変わろうと思ったのか、それとも気づかぬうちに変わったのか。そんなことはどうでもいい。ルタが心穏やかに過ごせるのなら、ほかには何もいらなかった。

 もつたいないお言葉ですと重ねた私に、ゲルハードは大きな身体からだをゆっくりとらす。年を感じさせる動きを見ていると彼にも若いころがあったことを忘れそうになる。だが、誰も彼もに幼年時代はあるのだ。母のたいないに抱かれ、赤子として泣き叫び、幼児として手を引かれる。そんな当たり前に愛される時代があるはずなのだ。

「君は、本当に王のとなりに立つつもりはないのかね?」

「それこそとんでもないことでございます。願うのはあのおんかたこころが穏やかであること、ただ一つです。私は王様が幸せになってくださるならば、りよくではございますがちよちくも命も人生もすべてをささげる所存ではございますが、あの御方から何かを頂くつもりは毛頭ございません」

 もし私がルタに何かえいきようおよぼせていることがあるのなら、かけられる言葉はおかげなんて優しいものであるはずがない。所為せいなのだ。私の所為で、ルタは幼年期を失った。ほんぽうに生きる自由を許され、愛される幸いが当たり前で、世界の全てが自分のものだったあの子の幼さをうばったのは私だ。

 抱えていた本を持ち直し、くずさないよういつもより浅めに礼をした私に、ゲルハードはさっきの私みたいな溜息をついた。

「……君は、どうしてそこまでするんだね?」

「はい?」

 質問の意図が分からず、思わず聞き返した私に、ゲルハードは言葉を探すように自らのくちびるに指を当てた。

「いや、勿論我われわれ人間にとって、無論私にとっても、王は何物にも代えがたい大切な御方だ。だが、君のように財も人生すらも全てをなげうちお仕えしたいと言い切れる者は、どれほどいるだろう。まして、君のように若いむすめが……失礼だが、こいもうもくだというのならまだ納得がいく。だが、君はそういうあやうさとはちがって見える」

 ゲルハードの言いたいことが分かってしようする。

「私はただ、盲目になっている自覚があるだけです」

 違いがあるというのなら、それだけだろう。若さゆえの恋におぼれて招いた身のめつが、気づかぬうちに追いついてきたわけではない。最初から、終わりは決まっていた。だが、だから全てを擲つことに躊躇ためらいがないのかと問われればいなだ。終わるものに意味がないのなら、命の全てに意味はなくなってしまう。理由は、そんなものではない。

「昔、一人ぼっちの子どもがいたんです」

「……子ども?」

「私はそれに気づけなかった。もしかしたらあの子自身も、そんな自分に気づいていなかったのかもしれません。私は、愛されて歩むはずだったあの子をどくに引きずり落としてしまった。それなのに、あの子を生きる意味にしたんです。自分がしでかした事にも、あの子の痛みにも涙にも気づかなかったくせに、自分だけが救われた。……私は、何もむくえない。あの子にさちもたらす何物にもなれない。自分が持っている全てをけても、とうてい足りないんです」

 大事なものは彼だけだ。彼だけだったのだ。何より大事な、ではない。他に大事な物なんて何もなかったのだ。自己犠せいう為の自分の存在理由すら彼だった。あなただけでよかった。あなたの幸せさえあれば、他には何もらなかった。そのゆいいつかなわないのに、他を擲つ何を躊躇うというのか。

 私のぞうがあの子から人間の生を奪った。私のおろかさがあの子に千年の孤独を齎した。

「私は、あの子が幸せであれば、他に望むものなど何もないのです」

 私のいびつさは、私が一番分かっている。

「あの子、王様にとても似ているんです」

 真実ときよの真ん中でめくくった言葉でようやく話の流れをんだゲルハードは、めていたと思われる息をいた。

「ああそれで、王様にくそうと?」

「そんなところです」

 にこりと笑って頭を下げる。納得頂けたのなら、もう下がっていいだろうか。ルタに新しい本を届けなくてはならないのだ。それと、温かいお茶と美味おいしいおの用意もしたい。これからの予定を頭の中で組み立てていると、困ったような笑い声が降ってきた。

「……君は本当につかみどころがないな」

 別にすりけたつもりはないけれど、ゲルハードは苦笑して視線を上げた。私の背後に向けられた視線を追えば、さっきまでルタと話していた神官がこっちを指さしている。指した先を辿ったらしいルタと目が合う。本に集中していたから声をけずに出てきたけれど、何か用事だろうか。お茶か、新しい本のお届けがおそかったか。それとも別に私は見ていないか!

 お探しの相手を見定めていると、ルタは天に向けたてのひらを少しだけ折り曲げた。ゲルハードをそんな雑な呼び方で呼び寄せるわけがないので、相手は私で間違いない。ルタが、ルタが私を呼んでる。かんちがいでも自意識じようでもなく、ルタが私を呼んでいる!

 私はゲルハードに向き直り、本が落ちないようがばりと頭を下げる。

「王様が呼んでいるので失礼します!」

「ああ、気をつけていきたまえ」

 穏やかな声に見送られ、私はルタの元にけ出した。

 とうちやくした時、さっきまでルタといつしよにいた神官の姿はなかった。下がらせたのか、下がっていったのかは分からないし、さしたる問題ではないので別に気にならない。

 一人で立っているルタの元に走り寄る。

「王様ー! 新しい本でしたらこちらでございます! お茶でしたらただいまれて参りますのでもう少々お待ちをー! ついでに、おくれたばつでクビなんて如何いかがですか!?」

 積み上げた本をずいっと差し出しながらクビを進言してみる。うきうきと待っていたけれど、反応がない。いつもの「うるさい」もなくてちょっとさびしかった。

「如何なさいましたか?」

 具合が悪いのだったら大事だ。気分でも悪いのだろうかと、無礼を承知で下からのぞきこむ。承知も何も、この程度でひるまぬほどの無礼を重ねてきたクビ志願者の私には、おそれるものなど何も……ルタの不調はやだな。

 顔色をかくにんしていると、開いた形のいい唇からぽつりと言葉が降ってきた。

めずらしい組み合わせだと思っただけだ」

「そうですか? ゲルハード様はよくお声をかけてくださいますよ」

「そもそも、お前とゲルハードは話がみ合うのか?」

「九割以上王様のことですのでちやちや嚙み合います!」

「………………そうか」

 いやそうな、あきれたような、何ともいえない表情が可愛かわいい。しかし、この表情を見たゲルハードが「穏やかな顔をなさるようになった」と言ってくれるかは分からない。ルタはちょっと考えて、会話を続けてくれた。今日はいい日だ。

「……残りは何だ?」

「雑多な物なので特に実のある話は何も」

「お前は、意外と自分の話はしないな」

「はあ。家族の話題もありませんし、友達の話題は女の子同士の秘密なのでないしよですし、仕事は王様もご存知ですし、いろこいかいですので、本気で話題がありません」

 胸を張って宣言したら、ルタが半眼になった。可愛い。

「人には色恋に走れとうるさいくせに」

「王様はおモテになりますので、歩いても全く問題ないと思います!」

「うるさい」

「そんな王様の初恋話などちようだいできましたら、お好みに合った方を今すぐお探しいたします!」

「お前は?」

「はい?」

 あからさまに書きとめると嫌がられそうだから、心の中に刻んで覚えようと構えていたのに質問が返ってきて反応が遅れてしまった。お前……私の初恋? そんなはるか昔の話をされても覚えていない。けれど、ルタからの質問にはちゃんと答えたいからがんろう。

 掌を唇に当てて考え込む。ルタはその間じぃっと待っていた。いい子だ。

「あ! 思い出した! 確かち、……知り合いのお兄さんですね」

 父の知り合いのお兄さんと言いかけて、あわてて口をつぐむ。生まれてすぐ捨てられた赤子が父の知り合いのお兄さんを知っていたらこわい。不自然なちんもくを取りつくろおうと、つらつら言葉を続ける。一度思い出すと、後はいもづる式におくが引っ張り出てきたから楽なものだ。

やさしくて格好よくて、よくおままごとに付き合ってもらってました。今考えるとめいわくこの上ないことをしでかしていて、大変申し訳なかったと思います」

 両親がくなってからはえんになってしまったけれど、本当に優しいお兄さんだった。その辺の雲を千切って丸めただけの雲団子を「はい、どーぞ」と食べさせようとしていたのに、優しく相手を務めてくれたのだ。養護院で年少組の相手をしている時、どろだんを「はい、どーじょ」されて、私は初めてそのきようを理解したのである。食べなきゃ泣くけど、食べたら自分が泣く羽目におちいる。らしい恐怖体験だった。

 遥か昔の記憶を思い出し、しみじみなつかしんでいた私は、はっと気づく。この流れでルタの初恋なり好みの相手なりを聞きだせないだろうか。

「私の初恋はそんな感じですね。王様の初恋はどのような?」

「年上」

 さらりと答えてきたルタに、私は静かにうなずいた。

「旅のご用意を致しますね」

「旅?」

じゆれいにせんね」

 最後まで言い切る前に、私が持っていた本が静かに取られ、脳天にちよくげきした。痛かった。


 ローリヤの朝は早い。女の子のたくは時間がかかるのだ。だから、私の朝はもっと早い。

 すぅすぅと規則正しいローリヤのいきえないよう、そっとベッドを抜け出してクローゼットを開ける。かけていたメイド服と、小物入れから厚手のガーゼとさらしを取り出す。朝方はねむりが浅くなっているローリヤが起きていないかもう一度確認して、えを始める。

 寝間着をいで眼前にかかげ持つ。よごれていないか確認してベッド上に投げ捨て、さらしをほどいていく。何回か解いた辺りから色が見え始めてきて、まゆひそめた。やっぱり、かなり増えている。当てるガーゼをもう一枚増やしたほうがよさそうだと結論付け、ためいきをつく。

 さらしを解き切ったそこには、厚手のガーゼを何枚も重ねてなおさらしを汚すほどの血が流れる傷口があった。

 恐らく生まれた時からあるその傷は、いつも血を流していた。私が養護院の前に捨てられたのは、この傷を気味悪がられたのだろうと予想をつけている。

 昔、私がまだおろかにもルタの良きしようになろうとしていた最後の日、ルタがつけた傷だ。

 ルタは私を許してはくれないのだろう。

 私が憎悪をつなげなければ、ルタは人間として生き、人間として死ねた。長い長い時を、罪にさいなまれながら生きなくてよかったのだ。すべてのげんきようである私を、しようがい許してはくれないのだろう。許せるはずもないだろうし、許す必要もない。私があの子を引きずりこんだのだ。にくしみのれんに引きずりこんだのに、自分だけ満足してさっさと降りてしまった。あの子を置き去りにして、長い長い命の中に取り残したのだ。

 年を取るごとに傷口は生々しくなり、流す血も多くなった。昔は蚯蚓みみずれのようにふくらんだ傷からにじむだけだったのに、今では、つい先日刺されたかのように傷口が開いている。

 どんどん開いていく傷口を見るに、私が死んだ辺りの見た目になったら死ぬのだろうと思う。そして、それはもう目の前だ。だって私は、そろそろ十七歳になる。ねんれいは推定になってしまうけれど、生まれてすぐに捨てられたみたいだと聞いていたので、大差はないだろう。

 だから、その前にルタの前から消えるつもりだった。なのに、クビにはならないし、ルタは会話してくれるし、友達は出来るし、毎日楽しいし。

「ルタ、どうしてくれるのよ。私、幸せじゃない」

 あなたが過ごした千年のどくあがなすべはちっとも見つけられないのに、私はこの十六年の人生さえ幸せになってしまった。

 あなたのおかげで、私は寂しくなかった。ずっと、ずっと、あなたの手で終わったその時でさえ、寂しさはなかったのだ。だから今度こそ、あなたもそうであればいい。そうであるのなら、私はもう何も思い残すことなんてないのだ。

 ここにいるのは、私の未練か、あなたのぞうか。それとも、はやくした私の神のさいはいか。

 記憶を持って生まれ直したところで、時がもどらぬ以上、何一つやり直すことはかなわない。両親が殺されるのを止めることも、私がルタの両親を殺さないせんたくを選ぶことも、あの子の憎悪に気づくことも。何も叶わない。戻るものは何もない。あの子の千年がなかったことにはならない。私は何も取り戻せないし、何も返してあげられない。何一つとして贖うことは出来ず、あの子にむくえるものは何もない。それなのに、本来なら可愛い子どもを得るはずだった今生での両親に気味の悪い思いをさせて生まれてきてしまった私は、それでも。嗚呼ああ、それでも、ルタ。私は本当に、今の時間に感謝しているの。そして、本当にごめんなさい。

 あれだけあなたがだれかを愛するしゆんかんを見たいと願ったのに。今は、その瞬間を見たくて見たくて、死ぬほど見たくないと思う私を、どうか許さないでください。


 かしゃんとうす硝子ガラスのコップが割れる。音に気づいてり向いたルタは、険しい顔をしてこっちに戻ってきてしまった。

「手がすべってしまいました。申し訳ありません。すぐに片づけて、新しいコップを持って参りますね。ですから、王様はそのまま本を選んでいてください」

 ぱたぱた手を振って追い返すのに、ルタは立ち去るどころか私の手首をつかんでとどまってしまった。これでは割れたコップの後片付けも、新しいコップを取りに立ち去ることもできない。

「……お前、最近どうしたんだ」

「何がですか?」

「その、死人のような顔色だ」

「やだなぁ、王様。私はいつでも墓からい出てきた死人のような顔ですよ!」

 胸を張って答え、次の瞬間飛んでくるであろう手刀に身構えたのに、ルタは動かない。それどころか、まるで自分が手刀をくらったかのような顔をしている。

 その顔に、ああ、もう時間切れだと気づいた。本当はとっくに気づいていたけれど、天神のまくに包まれたてんかいの日差しのような温かい時間に、もう少しだけまどろんでいたくて、気づかないふりをしていた。

 私はきっと、そろそろ十七歳になる。正確な年齢はさだかではないけれど、大きなずれもないはずだ。思っていたよりったのは、それだけ、私がこの時間にしゆうちやくしたからだろう。

 私は手首をにぎるルタの手に反対の手を重ねた。骨がき出たみっともない手。れいなルタの手にさわるにはみすぼらしくてずかしくなる。それなのにルタは、振りはらったり、いやな顔一つしない。なんて優しい、いい子なんだろう。

「王様、ごめんなさい。私、持病があって、あまり長くは生きられないんです」

 息を飲んでも美しいルタ。優しいルタ。可愛かわいいルタ。

 私のルタはもういない。いや、きっと最初からいなかった。ここにいるのは、一人の美しい青年だ。ずっと見ないふりをしていた。ずっと、あのころから、手放す決意をしてから見る見る成長していく彼を愛しただなんて、本当に、師匠失格にもほどがある。

「だから、王様、私をクビにしてください。故郷に帰って、静かに余生を過ごします」

「…………養護院に戻るのか?」

「あら、ご存知でしたか」

「調べた」

 あっさりと白状したルタにしようする。今生では両親にえんがなかったけれど、私はすでに両親の温かさを知っているから悲しみはない。

「養護院は十五歳までですから。今まではずんで頂いたお給金で、景色のいい場所に家でも借りて、ゆっくりします」

 空が見える場所がいい。かつてはあの空の中で生きた。養護院はみんな優しくおだやかだったけれど、やはり私の故郷はあの空なのだ。美しい場所だった。時間によって染まりゆく雲の上で生きたおくは、さびしさの中でもやっぱり美しかった。

「……行くなと言ったら、どうする」

「行きます」

「お前を愛していると言ったら、どうする」

 今度息を飲んだのはルタではない。重ねていた手を引きこうとしたのに、からられてしまう。美しいルタ。綺麗なルタ。そのルタの指の間に、私の骨のような指が重なっている。昔、嫌がるルタの手を取って歩いた頃は、私が彼の手を包んでいたのに、今ではそんなこと考えもつかないくらい大きな手。

「私、以外で、お願いしますって、言います」

 ふるえる声はもうしようがない。でも、もういい。もう終わりだ。無様でも無礼でも、もう全ては終わるのだ。

「……嫌だ」

「お願いします」

「お前がいい」

「王様」

「お前が俺の前に世界を開いた。だったら、最後まで見届けろ!」

 息を吸ってルタの胸に額をつける。どうせすぐにき飛ばされるのだ。少しだけだと甘えて、ほおこすり付けた。

 終わりだ。終わりだよ。

「ルタ」

 ぴたりと、時が止まった。


 耳をつけた胸から、大きくねるどうが聞こえてくる。

 最後の王族。最古の王族。最後のてんじん。いろんな呼び方がある彼の名は、長い時の中で失われた。だって、呼ぶ人間がいなかったのだから。だからどの本にもっていない。語りがれてもいない。この世でその名を知っているのは、当人であるルタと、あの時代を知る誰かだけだ。王様という役職名でも、種族名でもない。彼個人だけを示すその名を、私は知っていた。

「…………アセビ、お前は、誰だ?」

 震える声が私を呼ぶ。

「あら、私の名前をご存知でしたか。お前ばかりだったので、てっきりお忘れかと」

「アセビ!」

 かたを摑まれて引きがされた。うつむきたくなる顔をこんしんの力で持ち上げる。ただのアセビはもう終わる。ここにいるのは、の気持ち一つ見つけられなかったおろかなしようだけだ。でも、どんなに愚かでも、師匠として弟子の前にある以上、みっともない姿はさらせない。

「あなたの師だと言ったら、もう一度殺すのかしら?」

 赤いひとみが絶望に染まる。震える手が私からはなれ、きんこうを失ってよろめいたルタの背がかべを打つ。支えを得てなお、ルタの震えは止まらない。

「…………師匠?」

「そんなにおびえなくても、取って食ったりしないわよ」

 苦笑してそばほんだなに背をつける。ちょっと、眩暈めまいがして立っていられない。

「だから、私以外でお願いしますと、何度も言ったでしょう?」

 むなもとを握りめてあらくなる息を何とかおさえる。何も今、今来なくたっていいじゃない。さいくらい、今度こそ、血のにおいをさせずに終わらせたかったのに。

「俺を、殺しに、きたのですか?」

何故なぜ?」

 ああ、ことづかいがもどってしまった。胸を打つ寂しさを苦笑で振り払う。それでも、俺が残った。それだけで幸せを感じる私はもうどうしようもない。もっとあなたを見たかった。もっとあなたを知りたかった。でも、もう、終わりにしなければ。

 じわりじわりとにじみだす血は、いつの間にかどくどくとあふれだしていた。待って、もう少しだけ、待って。この子の、この人の前から消えるまで、もう少しだけもって。

「俺は、貴女あなたかたきです」

「私があなたの仇よ。あなたが私の仇だと言うのなら、それは私の所為せいだもの。私があなたにぞうを植え付けた。私の責よ。……ふふ、私の仇は私になってしまうわね」

 込み上げてくる笑いをかくそうともせず、くすくす笑う私に、ルタは赤い瞳をきつくしぼった。

「何がおかしいのですか!」

 どんっと壁をなぐったルタのふところから、真白い物がこぼれ落ちる。かしゃんとゆかに落ちて開いた丸い物の中に、空があった。

 時間といつしよに色を変えるそれが写し取った青くわたる青空が、かいちゆう時計の中で時を刻んでいる。一秒一秒、毎時毎日、千年が積み重なっても変わらない、私達の空。いつだって美しい、遠い昔にほろびた私の故郷。

「俺は貴女からもらった恩をみにじり、貴女を裏切った! 裏切り、殺し、貴女の故郷をうばい、今尚裁かれもせずにのうのうと生きている!」

 ルタが激情のままにさけぶのに、私は彼が落とした空から目が離せない。かちかちと時が刻まれていく。私が彼にあげたかった時計が、彼と共に、千年の時を刻んでいた。彼と共に、同じ空を生きていた。その空に吸い込まれそうだ。瞳の奥が熱い。

「私、あなたに、にくまれているのだと、思っていたわ」

「……憎んでいました。生を捨て、人であることを捨て、貴女を殺すしゆんかんだけを夢見て天人となりました。けれど、天界は俺が思っていたような世界ではなかった。そして、貴女もまた、俺がそうであってほしいと願ったような人では、なかった。貴女がさつりくを快楽とし、ざんぎやくを日常としているのなら、俺は、何も躊躇ためらわずいられた……貴女をしたわずにいられた」

 ルタはたおれるようにひざをつき、私の手を握って額をつけた。

「愛しています」

 かち、かちと、時計が時を刻む。私とルタの時間を刻む。やけにゆっくりと針が刻まれるように思った。けれどそれは気のせいで、時間はいつも変わらず、同じ速度で流れていく。変わるのは、同じ時の中で生きているはずの私達の感じ方だけなのだ。

「俺のはつこいは貴女です。千年を経て、二度目の恋をしたと思っていました。けれど、これは初恋の続きです」

 残りわずかな時間を刻んでいく。

「愛しています、師匠。貴女を愛しています。愛していますっ……!」

 悲鳴のようにつむがれる愛の悲しみを受けているのに、私の心を満たすのは喜びだけだった。弟子が悲痛な声を上げているのに喜ぶなんて、嗚呼ああ、私は本当に師匠失格だ。

 こたえてはだと頭では分かっている。彼に悲しみをのこしたかったわけじゃない。気持ちなんておいていっては駄目だ。彼の背中にこれ以上、どんなさいなものでも背負わせたくはなかったのに、私の手は彼の頰にれてしまった。

「私はきっと、どこかこわれているのでしょう。親よりも親の仇の子をいとおしく思うなど、正気のではない。でも、もう、それでもいいのです。私はあなたと出会って寂しくなくなった。……ルタ、私ね、幸せだったの」

 零れ落ちた一筋のなみだが、ルタの頰を流れていく。

「本当に、幸せだったの」

 その頰に赤いしずくが混ざっていく。胸元を押さえていたてのひらから溢れだした血より、もっと美しい命の色をした瞳が見開かれる。ああ、彼をよごしてしまった。ぬぐいたかったのに、指はもうかすかにしか動かせない。私の命が流れていく。ここに来た時から、いいや、生まれたその時から決まっていた終わりがここにある。

「私も、あなたが大好きよ、ルタ。あなたを愛してる。だから」

 私以外と幸せになって──……。

 かすれた声と一緒に赤をき散らし、視界までもが染まっていく。最後に聞こえたのはルタのぜつきようで、ああ、私はどうしたって彼を笑わせることはできないのだと悲しくて悲しくて。

 最後に見えた羽の美しさに心を奪われながら、二度目のしようがいを終えた。



 私は本当に至らない師だ。ほかの人にたくす前に、私に教えられることはすべて教えたつもりだったけれど、とても大切なことを教え忘れていた。いまだぐわんぐわんとれる脳と眼球の奥を支えようと顔をおおったまま、あえぐように声を絞り出す。

「ルタ……あのね」

「はい、師匠」

 顔を覆っていた骨のような両手を外すと、色の変わった朝焼け色のかみが見える。その向こうに、しゆしような顔をした可愛かわいいルタがいた。こんな事態なのにきゅんきゅんする。するのだけど、失格とはいえ一応元師匠として、ルタの可愛らしさに負けず大事なことを伝えなければならない。それが、ルタのためでもあり、元師匠としての私の為でもあるのだ。

「確かに、天人の羽は人間を持ち主と同じ生の中に包み込むことが可能です」

「はい、師匠」

「だけど、それはね?」

「はい、師匠」

 殊勝にうなずくルタに、にこりと微笑ほほえむ。

「相手と同意の上に成り立つものなのよ!」

 私は大きなベッドにかされながら、ベッドの持ち主であるルタのっぺたをつねりあげた。

 ルタの生の中に組み込まれた私は、死んだほうがましだと思う痛みを味わった。二度目の、そして初めての「人生」を終えたと思うほどの激痛だった。最後に聞こえたのがルタの絶叫だったのは、私は激痛のあまり声すら出せなかったからである。

 頰っぺたを抓り上げる私の手をするりとからったルタは、しれっと答えた。

だれはんりよを得て、ゆうきゆうの時を共に生きろとおつしやったのは師匠ではありませんか」

「誰がこんなややこしい関係の相手を選びなさいと言ったの!」

 ルタの羽を得た私は、たましいの作用かルタの中のおくか、髪が昔に戻っていた。どうせなら身体からだも戻ればいいのに、そこはやせっぽっちのままだ。自分で言うのも何だけれど、天人の美しい髪とがりがりにせて骨と皮だけになった身体は、ひどくちぐはぐだった。れ枝のような指で、傷口があったはずの場所に触れる。生まれてからずっとじくじくと血を流し続けてきた罪の証明はさらりとかわき、今やはるか昔に完治したかのようなあとを残すだけだった。

「大体あなた、こんな傷を今生に残すほど私をうらんでいたんじゃなかったの!?」

「申し訳ありません。その傷はおそらく、俺のしゆうちやくが形になったのだと……この千年、世界のどこかに生まれ変わったしようがいるのだろうかと考えることがありました。そのたび、俺のことも何もかもを忘れて、幸せに生きてほしいと思いました。それと同時に、俺の知らない男の傍で笑っているのかと思うと、死にたくなりました」

「死にかけたのは私ですけど!? めいしようを執着の形にする子がありますか!」

 私は片手で顔を覆って、がっくりとうなれた。つかれた。死にかけただけじゃなくて、それ以外の理由でとても疲れた。

「命を救ってくれたことには感謝します。ですが、いいからあなたは誰かてきな伴侶を見つけなさい。この羽のおかげで、私は遠くはなれてもあなたが生きていることが分かりますし、あなたもそうでしょう。色々と予想外のことが重なりましたが、私はこれで、生きてあなたの幸せをいのることができます。だから」

「師匠、一つ質問してもよろしいでしょうか」

れいただしく師匠の言葉をさえぎらないでもらえるとうれしいのだけど、何かしら」

「今までの師匠と今の師匠、どうやって切りえておられるのですか?」

「うぐっ」

 それ聞く? 聞いちゃう?

「どちらが本当の師匠ですか? どちらもですか?」

 それついきゆうする? 追求しちゃう?

 どっちも私だけど、アセビは素で、師匠はちょっといいとこ見せたくてきよせいが入っている。言うならば、素とそとづら。外ではきりっとした人で通っていた人が、家族の前でごろにゃんと甘えている所を見られたようなずかしさがある。

 どう答えたものか、もうしれっとしてしまうのがいいかもしれない。

「俺はどちらも好きですが」

「うぐっ」

 誤魔化そうとしたところにこれである。もういいから、ルタはだまってくれないだろうか。あれほど会話したいと願っていたのに、今はとにかく黙ってほしい。よくぼうとは果てがなく、また、女とは我がままなものなのだ。

 ぐったりと項垂れているのに、ルタは追及の手をゆるめるつもりがないらしい。

「師匠は、まさかしん殿でんを出ていくおつもりですか?」

「私がそばにいるとやりづらいでしょう? だいじよう、あなたのおかげで身体も健康になったし、寿じゆみようは転々としながらならばれやしないもの」

「俺は、貴女あなたを愛していると言いました」

「私も愛しているわ、ルタ。だから、幸せになってね」

 あの時は死ぬと思っていたからつい白状してしまったけれど、さすがにそこまで師匠失格になりたくない。まだてい愛、家族愛で誤魔化せるはん内だったはずだ。おそらく、願望を多大にふくんでいる予想では。

 それに、ルタは私を憎んでいなかった。私を師匠と呼んでくれる。私を師と、認めてくれているのだ。その期待に応えられなくて、何が師匠だ。

 だから私は、師匠らしくにこりと笑顔をかべた。

「私はあなたの幸せを祈っているわ」

 祈る天神はもういないけれど、私達がいた空に祈っている。何だったら、あなたが千年間持ち続けてくれたかいちゆう時計の空に祈ってもいい。空がつながり、あなたと同じ時を生きていく幸せを感じられる。あの終わりだけでは得られなかった答えをもらったいま、こわいものは何もない。もうクビすら怖くないのだ。むしろ今すぐクビにしてほしい。

 ルタには、私よりそのとなりが似合う子が必ずいる。いくら和解できたとしても、ここまでこじれきった魂の相手じゃなくて、おたがいの欠けた部分をかちりと合わせ、互いを温め合えるような関係の人がきっと。今なら、その二人が寄りう姿をおだやかな気持ちで見送れるはずだ。

「だから、ルタも私との関係を他の人に言ってはいけませんよ? 特に老身にはしようげきが強すぎて、えいみんしてしまうかもしれませんからね!」

 今までの分も含めて師匠らしさを発揮する私の手をにぎり、ルタは悲しげに目をせた。

「せめて、もう少しだけ、いては頂けませんか? 俺は、貴女に話したいことがたくさんあるのです。あのころ言えなかったことを、聞いては頂けませんか?」

「ルタ……」

 ルタが悲しそうだと私も悲しい。ルタが苦しそうだと私も苦しい。

「俺は、貴女に手を引いてもらえて嬉しかったのです。ただ一人の王の子として厳格に育てられていた俺は、初めて子どもあつかいしてくださった貴女に、どんな顔をすればいいのか分からず失礼な態度ばかりでした……こんな俺の傍には、一秒だっていたくないのも当然ですが」

 私は、あわててその手に自分の手を重ねた。

「そんなことはないわ! 私はあなたとこうやって話せる日を夢見ていましたからね。分かりました、ルタ。出発はもう少し後にします。でも、他のみんなにはないしよですよ? 後、私をそうの仕事にもどしなさい」

「はい、分かりました。師匠」

 私は、そう言って顔を上げたルタが浮かべていた微笑みを見て、天神に、世界に、運命に、命の全てに感謝した。


 昨日と何も変わらない世界は、それでも何もかもがちがって見える。青空はかがやいているし、草木も歌い、花はおどり、通りける風すらもきらめいていた。ああ、生きているって素晴らしい! 今なら窓のよごれさえもいとおしく思える!

 私は、タイルをこすりながら満面の笑みを浮かべた。そんな私に、ローリヤは引きった笑顔を返してくれる。

「……アセビ」

「今日もいい天気ね! ローリヤ!」

「……アセビ」

「あ、ローリヤ、そこのブラシ取ってもらっていい?」

 目の前にしよもうしたブラシが現れる。

「はい、師匠」

「ローリヤ、ブラシ取ってもらっていい?」

「師匠、このブラシではありませんか?」

「ローリヤさーん?」

 頭ごとずらして無理やり視線を外した先のローリヤは、次のしゆんかんには私にめ寄っていた。

「王様の手からブラシをうばい取ってわたせって言うの!?」

「アハハハ、オウサマナンテドコニー」

「いやぁあああ! アセビがこわれたぁ!」

 だ、現実逃とうしたって目の前のは消えない。いや、ルタが消えたら泣く。ごうきゆうする。今はき神のむなぐらつかみにとつこうするくらい泣きさけぶ。

 大好きなルタが、目の前でにこっと笑ってくれる幸せのためならば、えんかつな職場関係がくずれ去るくらいなんだ。名残なごりしいにもほどがあるけれど、弟子の幸せの為に師匠がせいになるくらい、なんだ! たとえ、約束通り周りへの説明一いつさいなしに私を師匠と呼び、師匠と立て、師匠の仕事を手伝っていつしよに掃除をしていても、それが真面目まじめなルタの心からの行動なのだから、受け入れるのが師匠の役目!

 なみだを飲んで顔を上げた私の視界には、盛大に引き攣ってあおめたローリヤがいる。私は、ルタと同じように、にこっと笑顔を返した。

「王様」

「どうぞ今までのようにルタとお呼びください、師匠」

「……王様」

「ルタ、と。別にルタ・ミソギハギとお呼び頂いても結構ですが。師匠のよしなに」

「……ルタ」

「はい、師匠」

「………………ここは人手が足りていますから、ほかの場所をお願いします」

 ローリヤはぜつきようした。

「アセビ、たぶんそれじゃない!」

「違う! そうじゃない!」

 遠巻きというにはかなり近いきよで近巻きにしていた人達も絶叫した。もうはんたいらった私も涙目だ。弟子の行動を受け入れたいけれど友達の涙目もどうにかしたいとなやみ抜いた末のこんしんの策だったのに。どうすりゃよかったんだと頭をかかえていると、ルタは少し考えてうなずいた。

「分かりました。では、また後ほど」

 師匠の気持ちをんでくれるやさしい弟子は、ゆうに一礼して去っていった。その後を慌てたずいしん達がついていく。そうして私の仕事場にしばしのへいおんおとずれた。いや、いつもの平穏だ。この平穏がしばしであってたまるか。今日の平穏は、仕事開始前から崩れ去っていたけれど。

 室内なのになぜかき抜けていったらしを受けながら、ローリヤがぽつりと言った。

「……アセビ?」

「……はい」

「……私、あなたに言っておかなきゃいけないことがあるの」

「……はい」

 私達は、ルタが去っていった方角を見つめながら立ちくしている。周りにいる人達も、今ばかりはサボるなと言わなかった。全員呆ぼうぜんと同じ方向を見つめている。アセビも私も、互いを見ずに会話を続けた。

「昨日いきなりアセビのかみびて色が変わったことも、王様の様子が激変されたことも、アセビがしようって呼ばれていて、王様のお名前を知っていて呼び捨てにしていることも、ひといておくとして」

「ん?」

 っ込まれると思っていたしよ全部措かれて、思わず視線をローリヤに戻す。その上で伝えられる事とはなんだろう。すごきんちようしてきた。ごくりとつばを飲み込んでも、ちっともほぐれない。ローリヤも、ひどく緊張したおもちで意を決したように少し前のめりになった。

「わ、私ね? その……あ、あいつと、その……け、けつこんが、決まりました」

「ええ!? お、おめでとう! うわぁ! おめでとうローリヤ!」

「あ、ありがとう!」

 耳まで真っ赤になったローリヤの両手を握って飛びねてしまう。なんててきでおめでたい! ここはこの世の春だろうか!

 我がことのように、いな、我がことよりうれしくなって祝福の言葉を連ねる私に、ずかしそうに身をよじっていたローリヤは、すぅっと真面目な顔になった。

「仕事は続けるけど、部屋は家族用の宿舎に移動になるの。だから、残念だけど、あなたとの同室が解消されてしまうのよ」

「あ、そうか……うん、残念だけど、おめでたいことだもんね!」

 仕方がないことだ。でも、それだったらもう、新しい人と同室になる前にしん殿でんを出たほうがいいかもしれない。これからの予定をたずねようとした私は、いまだ真面目な顔をしているローリヤに首をかしげる。

「あのね、アセビ」

「うん?」

「私、昨日それを室長へ報告に行ったの。そしたら……その……王様のしんしつの隣が大改装されることになったんだけど…………何か聞いてる?」

 木枯らし再び。室内だというのに、木枯らし達はがんり屋さんだ。

 両手で顔をおおってうなれた私のかたに、ローリヤがおそる恐るれた。そのまま優しくさすってくれる。おかしいな。優しさがにじんでくるはずの体温から、同情とあわれみしか伝わってこない。

「老臣様方がアセビのことおうじようぎわが悪いわいって言ってたけど、その、なんで駄目なの?」

「……ローリヤ、私ね、ルタのこと愛してるの。もう、目が合うだけできゅんきゅんする」

 がたがたがたと周り中から音がした。だれかが走り出す前に慌てて続ける。

「でも、私、これ以上師匠失格になりたくないの!」

「え!? ていでもこいびとになれるわよ!?」

「え!?」

「私の両親師弟よ!? 別に立場乱用して強要とかしないんであれば、師匠失格だなんてならないわよ!?」

「ええ!?」

 ちょ、待って、今の無し。いま走り去っていった人待って! どこに何しに行ったの!? それをルタに伝えるのはほんと待って! 慌てて追いかけようとしたけれど、はっと気づく。いま走り去っていった人が向かった方向は私達の宿舎がある方角だ。なんであっち行った?

 そして、その方向からローリヤのこんやくしやガラムが走ってくる。ろうを走るなんて彼らしくない。髪をり乱して走るほど慌てる何があったのだろう。ローリヤも首を傾げた。

「ローリヤ、アセビ! 王様が師匠の寝室を整えるのは弟子の務めとおつしやって君達の寝室に特攻かけていらっしゃるんだけど、どうしたらいいんだ!?」

「ルタ──!」

 最後まで聞かずにもうぜんと走り出した私の後ろから、老臣達のかんるいむせび泣く声が追いかけてくる。

「歴代側近の方々の墓前に報告だ! 王様のどくをお救いするという長年の悲願が、ついに、ついに果たされた!? と!」

「疑問形ありがとうございますー!」

 走り去りながら、心からの感謝の気持ちを込めて叫んだ私に、早くかんたんだけにさせろというごうが老臣以外からも飛んできた。彼らの願いをかなえようと、思いっきり息を吸い込む。

「!!!!!!!!!!!!!!!!」

「お前それどうやった!?」

 感嘆符だけを固形にして周囲に散らばらせて、今度こそ止まらずに走り去った。


 出来の良い弟子は、私にめ込んだ羽の出来までいいらしい。私は、なつかしい感覚に包まれながら自分の羽を開いて飛び上がり、一目散に宿舎へと急いだ。見知った顔も、ちがっただけの顔も、みな一様に私を指さしてかんせいを上げる。ゲルハードはいつもおだやかに細めていたを見開いた。

 羽の具合を確かめることもふくめて、一度ぐるりと回って大きく羽ばたく。雲のように白い大きな羽は、何のていこうもなく風を切り、私を空へと帰してくれる。ああ、空が近い。もう帰る場所はなくなってしまったけれど、いつだって私の中に在り続けた美しい私の故郷。私達の空。

 かつてはあの青の中で生きた。大切なものはすべてあの中にあった。

 けれど、アセビとしての私は上だけを見て生きたわけじゃない。地上で前だけを見て走りけてきた。そこで、たくさんの人と出会った。沢山の優しさが地上にはめぐっていた。

 より弱い。弟子の力で命をつないで空を飛ぶ。弟子にれる。それのどれもが師匠失格だ。弟子に惚れるに関してはどうやら失格ではないようだけど、まあ保留にしておこう。

 そんな私の師匠失格暫ざんてい一位は、私の力の波動におどろいて羽ばたいたルタの美しい顔向けて、久しぶりでうまく飛べないままに頭突きを食らわせたことだ。この世界に生きる命の中で何よりも大きな私達の羽は、ぶつかったしようげきで散る。い散った羽は、風に乗ってふわふわとただよい、光のりゆうとなって消えていく。

 ルタは、ぶつかった額を押さえ、残りの手で私を支えてくれた。そして打ち付けた頭を押さえ盛大にもだえる私を見て、声を上げて笑った。

 笑ってくれた。ルタが笑ってくれた。私を見て、笑ってくれた。

 声を上げて泣きだしてしまいたい。でも、弟子が笑っているのに師が泣いてどうするのだ。それくらいのきようは残っているから、すさまじい勢いできだした感情全てをがおに変えた。

 この先、どんな師匠失格をやらかすのかは自分でも分からない。これまで以上の失格はない気もするけれど、何があるかは分からないのが運命だ。それでも、ルタが私を師匠と呼んでくれる限り、私は彼の師で、彼は私の弟子なのである。たとえそこに別の関係が加わったとしても、変わらないものはあるのだから。

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淋しき王は天を堕とす -千年の、或ル師弟-/守野伊音 角川ビーンズ文庫 @beans

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