第八章、旅立
ふと誠は意識を取り戻した。彼が目を覚ました場所は妖との戦いの最中、着衣に目覚めた状況と同じく、意識を失う直前に見ていた景色とはまるで違う情景が広がっていた。
殺風景な山の中で、踏み固められた程度の、舗装すらない貧相な小道がずずっと伸びている。この道を山越え、いやせいぜい坂越えするかのように人がぱらぱらと一定の方向へと歩き進んでいる。ところがどうも霧だか靄だかがかかっている風で山道も人の姿も今ひとつ誠の眼からは輪郭すら明確に映り込んでこないのだ。
視界の全体がぼやけているので、これは自分の目がおかしいのかと目を擦る。寝ぼけているのかと頬を叩いてみる。それでも朧の様な光景は何一つ変わらない。
そうこうしている間に幾人かが誠を手招きするように手を上げるのがなんとなく見えた。
「あ・・・、行かなきゃ。」
手招きに呼応するように誠は何とはなしに一隊の流れに加わり、彼らと同じ山越えの方向へと歩きだした。
延々と殺風景が続く道をもう何時間歩いただろうか、単調に過ぎる視覚には飽きという名の疲れがあったが不思議と体に疲労は溜まっていない。その気になれば更に数時間でも歩き通せそうである。
「あのお、これいつまでどこまで歩くんですか?」
忍耐の度を越えたところですぐ前を歩く人に尋ねてみた、されど相手からは何の反応も示されない。無視というより此方の呼びかけが全く届いていないように前後の動作に変化が全くない。大脳での思考ではあまりに変だと理解しつつも、体の方は何処へ向かうとも知れない行進を止めようとしなかった。思考と感覚と体の動きという三者がそれぞれ別々に働いている感覚であった。
また更に数時間は歩いた、と誠の体内時計は感じていた頃、同じような風景にようやく変化が訪れる、人の流れの先の方に目の前を横切る川が見えたのだ。川には貧相な渡し舟があり、また川岸の番人のような老夫婦がおる、山を共に越えてきた人々は彼らに何がしかを手渡しては舟へと乗り込んで一人、また一人と向こう岸へと渡されている。ところが誠のいる側からは川であるとは認識できるのだが、向こう岸の存在はこちら側の岸を見るより更に見えにくく、岸の存在すら視認できたものではなかった。
老夫婦の前で人は列を成し、順番に一人ずつ簡素な手続きを行っている。ここに来て人の流れが完全に停滞し、列に並んでからまた彼の勘定で数時間が経過する。普段なら辛抱堪らずとっくに諦めでもしている筈なのに今日に限っては苛立ちもなく、また列を離れようという意識が芽生えることもなく、ただただ自分の番が回ってくるまで今のままじっと耐えていた。
行列も永遠ではない、待てばいずれ順番はやってくる。ただ待つ間の無為は如何ともしがたい。無為に意義を見いだせるか否かは人によりけり、だが自分は見いだせないタイプである。なら何故まだ待ち続けているのかと、思考だけが熱心な勤勉さを見せるなか、ようやく後五人程で舟に乗れようというところまでやってきた。この霞がかった環境で目覚めてからいったい何時間、何日かかったのだろう。そういえば何故かしら今まで空腹感も眠気も誠を襲ってくる気配がなかった。そして誠自身も襲ってこないのをいいことに食事や睡眠という行動へ意識が向くことはなかった。
更に後三人、という所で列の先頭の者が老婆に服を剥ぎ取られた。その状態で舟に蹴り落とされ、ほうほうの体で出発させられる。
そしてやっと次で自分の番に順番が回ってくるという時である。
「石狩君、待ちなさい。」
久しぶりに人の声が聞こえてきた。しかもよく聞き覚えのある声である。だがこの展開は、と思った予想は的を得ていた。我が校、我がクラス朝の風物詩、クラス委員と遅刻魔との対峙だ。
「ひ、日高・・・体はどこも大丈夫なのか?」
そこにはこの間まで妖に取り込まれていた優子がまた腕を組み仁王立ちで、恐れるものもないという体で立っていた。ぼやけた世界の中で彼女のことだけは輪郭から表情、仕草までがはっきりと見て取れる。
「ええ、おかげさまでね。って言うか、石狩君何処へ行くつもりなの?」
「何処って・・・さあ?」
「さあ?じゃないでしょ、今日も学校はズル休みするつもりなの?」
「ズル休みって、お前も見ただろ。俺はあんな奴らと戦うために、」
「何のことかしら?とにかく遅刻だけならまだしも、ズル休みなんてあたしが絶対に認めませんからね。さあ行くわよ、先生カンカンなんだから。」
誠の弁解には耳を貸さないと、取り付く島なく優子は誠を睨み付けた。すると誠は後ろから番人の老婆に列から突き飛ばし、優子の前に放り出された。皺塗れの顔がとっとと行け、と言わんばかりに顎で指図する。
「じゃ、行くわよ。もう逃しませんからね。」
優子は誠の腕に自らの腕を回し、逃れられないように引っ張って彼が元来た道を引き返しにかかる。
「待てって日高、待ってくれって。ねえ、日高・・・日高、さん、日高様。」
「問答無用っ!」
クラス委員は彼に半句の発言すら許そうとはせず、ぐいぐいと連れ戻す。この時の彼女の力たるや、今まで隠していたのかというほど男子である誠がまるで逆らえないほど強く為す術がなかった。
「なんでだよう、恩知らずっ!」
叫びつつ再び誠は目覚めた。初っ端に瞳へと飛び込んできた視界は記憶にない天井のライトであり、体はベッドに横たわっている、自らの体にはやたらと検査機器の吸盤が貼り付いていた。つまりは病院であることだけは理解できた。
「夢かよ、まったく嫌な夢だったぜ。」
夢の話であるはずなのに折角助け出したと相手をして弁明の機会も与えられずにズル休みと断罪された話に誠は不当にも優子を疎ましく思った。勝手に夢に登場させて勝手に疎んで、優子にしてみたらいい迷惑である。
夢の前の記憶を蘇らせてみる。巨大な魔神を真っ二つに斬ったのは記憶にあった、しかしそこからの記憶が全く無かった。こうして無事にベッドの上にいるということは、脅威は去った、あの敵は敗れ去ったのだろう、確証はないが自らの下した最後の一撃は止めになったのだろうか、希望的観測が生まれ自らの功を猛りたい心境が目覚める。目覚めたが最後、感情はぐんぐんと高まりを見せ、彼は病室であるにも関わらず、心の赴くままに感情を暴発させた。
「うあああああーっ!」
「さっきから五月蝿いっ。」
正確に誠の頭へリンゴが投げつけられた。勢いよくベッドから上体を起こして犯人探しをしてみれば、隣のベッドにはエマが横たわっているではないか。ベッドの横に見舞いの定番を誇示するかのようにフルーツの盛り合わせ籠が置かれている。およそこの籠から手頃なものを投げつけていたということか。投げ終わった後の彼女は彼女らしい無機質、無感情の目で誠を見ていた、いや、彼女の心情を加味すると睨み付けていたというのが正解である。
「エ、エマ?お前か、本当にお前なのか?」
「ああ、見ての通り私は私だ。誰か他の女にでも見えたのか。」
つっけんどんな態度も自分の知るエマに相違ない。病室のベッドに寝ている状態とはいえ彼女が生存していた事実は誠を殊の外喜ばせた、彼は自分も今まで寝たきりであったことも意に介さずにベッドを飛び起き、体に貼り付いていた機器も勢いに負けて剥げ落ち、エマの元へ駆け彼女の気持ちも考えずに腹に顔を埋めて抱きついた。
「こ、こらっ。誠、何をするっ。馬鹿、離れろっ。」
思わぬ奇襲を受けた格好のエマは、何をか考えているか分からぬ馬鹿者の頭をぽかぽかと叩き付ける。
「よかった、よかったなあ。お前生きてたんだな、エッグ・・・」
言葉の端々に嗚咽が混じる。腹に突っ伏されてしまっているだけにエマから彼の表情は見えないが涙が溢れている顔であろう事は予想に易い。自分の身を案じての暴走か、と思えた時、彼を痛め付けていた手の動きがふと止まった。馬鹿な男だが気持ちに素直で実直なのはよく分かる、分かってしまうとどうも攻撃の手を緩めずにはいられなかった。彼女としては出来の悪い生徒が可愛く見えるという理屈で、あくまでも修行を付けてやった弟子のような認識で彼を見ていた、と思考では考えていた筈だった。
止まっていた手がやがて動き出し、彼の頭を撫でようかという素振りを見せた矢先。
「おおっ、誠、意識が戻ったのか。良かった良かっ・・・おい、何やってんだ!」
「ん?」
病室内の騒ぎを聞きつけたのか、音を立ててドアを開ける程度には慌てて入室してきたアーサーは、無抵抗に見えるエマに抱きついている誠という予想だにしない情景に一層の慌てふためきぶりを見せた。誠は泣きじゃくる目で彼を認識したが、アーサーの周章の訳が奈辺にあるかという話にまで付いていけるほど脳への血流は未熟であった。
「いいから離れろ、半病人が。」
「痛ててててっ、急に何すんだよ、アーサー。」
「何もくそもあるかっ、同室だからってどさくさに紛れてエマに何やってんだ、離れろこの野郎。」
アーサーの焦りは怒りを携えるようになった。必死で誠を引き剥がし、羽交い締めで元いたベッドへと放り投げる。仮にも病人相手という意識はまるで感じられなかった。
「起きていきなりこれって、何なんだよ、アーサー。」
「それはこっちの台詞だ。起きたと思ったらいきなり何をエマにモーションかけてるんだ、お前そういう奴だったのか。」
「ち、違う、違うよ。俺はただエマが生きててくれたのが嬉しくって。」
「それで抱きついたって言うのかっ!」
戦闘中にすら見せなかったアーサーの怒りの剣幕に誠は完全にたじろいでいた。普段怒りを見せない者が今まで見たことがない怒りを見せるのは本当に恐ろしいという話の真実味を噛み締めざるを得なかった誠である。
「いいかっ、エマは俺のものだ。お前は弟分だから何でもしてやるつもりだが、エマだけはやらん、これだけはやらんからなっ!」
「いいっ!?」
誠は突然の激白に驚嘆した、と同時に納得もした。彼の怒りの原因はエマとの関係にあった、痴情の縺れは食べ物の恨みと同じく人の欲に直結した度し難い話の類であり、また誠の十六年のみの人生経験では修羅場という境遇は全く未体験の境地であった。
「ま、待った、アーサー。別に俺はエマの事をなんとも、」
「問答無用だ!可愛いガールフレンドを侍らせておきながらエマまで手にかけるとは許せんっ。」
「ガールフレンドって誰のことだよっ?」
更に身に覚えのない罪状を折り重ねられたかのように誠は困惑の色を深くする。
「問答無用だと言ってるだろ!うおっ?」
仕舞にエクスカリバーをも抜きそうであったアーサーの憤慨に制御棒が差し込まれた。誠をリンゴが襲ったがごとく、次はアーサーの頭にバナナが投げつけられた。犯人は誠のリンゴと同じく無論エマである。
「人を猫の子の様にやるだのやらないだのと言うな。私は誰のものにもなった覚えはない。」
「な、なんだよエマ。俺は俺の正当な権利を主張しただけで・・・」
「年下に今にも剣を抜く勢いで押し迫るのが何処が正当だ。だいいちこれだけははっきりさせておく、誠も誤解なく聞け。私とアーサーは別にそのような関係ではない。」
「お、おい、エマ、」
「お前こそ問答無用だ。」
エマのアーサーを突き放した態度は誠の解答を更に困難にした。一方は恋愛関係を主張し、もう一方は完全に否定する。相反する主張同士のどちらが正なのか、判定できる経験値はなかった。そもそも正を求める段階で経験不足も甚だしいのだ。
「いや、だからさ、俺の気持ちは変わらないから、」
「五月蝿い!とにかくそういうことだ。いいな、誠。」
「あ、ああ・・・」
エマは自らの主張に対し両者に否定も質問も許していない、ただ誠に主張を認めさせる、そのためだけの強弁で誠になど逆らう余地は残されていないどころか、最初から用意されてもいなかった。
一方でアーサーの方は完全にしょげていた、自分の思いがエマに伝わらないためであり、誠には知る由もなかったが彼の敗北は今に始まったことでもなく過去連戦連敗を繰り広げている。エマにしてみれば自分と正反対の調子の良さが軽薄に見える辺りに彼を恋愛対象とは認めない理由が存在するのかもしれない。逆にアーサーは自分にない物静かさに魅了されている節があるようであった。
「いい加減に黙らっしゃい!ここは病院じゃぞ。」
病室に新たな怒声が放たれた。
「やれやれ、ついさっきまで意識不明だったクランケがあっという間にピンピンしとる、これだから資格者っちゅうのは厄介なんじゃ。普通の人間と思って治療できんからのう。解剖して隅々まで調べてやろうかって言うんじゃ。」
アーサーの後でナースを伴いゆっくりと入室してきた初老の医師は医師からぬ暴言を吐く。誠の方からするとこの老人は初めて顔を見るものであり、医師とはいえ初対面の人間に言われたい言葉ではないと感じた。
「すみません、こればかりは俺達も自身ではどうしようもなくて。」
「分かっとる、分ーかっとる。分かって言っておるんじゃ。全くその上冗談も通じんと来とる。大した英雄たちじゃよ。」
「爺ちゃん、誰だか知んねえけどなんだかズケズケ言ってくれんじゃん。」
誠も売り言葉を買い、老人に憎まれ口を叩いてみた。ところがそれに過剰反応を示したのは老人よりもアーサーの方だった。
「こ、こら、誠!先生になんて口を聞くんだ。」
「だってさ、」
「だってもヘチマもない。この方は俺達の機関でも一、二を争う名医の渡島先生だぞ。今の今まで三日も目を覚まさなかったお前の面倒を見て下さっていたんだからな。」
「えっ、み、三日もか。」
まず誠の驚嘆は医師の素性より人生初の三日間の無意識状態の方にこそ向いていた。
「そうだ、三日だ。だから礼こそあれ、お前の態度はなってないぞ。」
国際的機関でも最高の誉れを持つ名医と紹介され、渡島という医師は心なしか急に気取ったような顔に整えたようだった。
「まあ、それほどでも、あるがの・・・おい、なんじゃその目は。」
殊勝や謙遜とは対極を歩むような態度と台詞に彼のことを何も知らない誠としては疑いの眼差しを向けてしまっていた。
「お前には治療よりまず礼儀っちゅうもんから教えてやらんといかんのかのう。」
「すいません、先生。そこは俺からちゃんと言い聞かせておきますので。」
何を恐れるのか、アーサーはとにかく渡島の下手下手を心がけて彼の機嫌を損ねないように謙っていた。
「お前もあまり礼儀の分かってる奴ではないがのう・・・まあいい、しっかりコイツに教えきかせとくんじゃぞ、分かったな!」
「は、はいっ。」
渡島は注意したにも関わらず自分が最も大声でアーサーを叱りつけて退室していった。これには無礼の烙印を押された誠でも矢面に立ったアーサーを叱るなら俺を、という思いで気遣いたくなった。
「なんだかごめんよ、アーサー。」
「いいさ、お前が機関に来れば今後もきっとこんな事は起こる、その予行演習と思えば安いものだ。」
「予行演習?」
瞬時に誠には判断できないアーサーの言い様であった。
「ああ、さて・・・お巫山戯は終わりだ、いいか、誠。」
今までの流れがまるで前座であったかのようにアーサーは目を真剣にした。おちゃらけていた全てを冗談で片付けるには無理もあったが、彼の真剣な眼差しはそこを問題にしているわけではなかったので誠も襟を正しベッドに座り直してアーサーの方に体を向けた。。
「な、なんだ?」
「お前は天之尾羽張を倒した、倒したんだ。」
「俺が?やっぱり?」
予想はしていたが、予想でしかなかったそれをいざ正解と言われると喜びは膨らんだ。またも彼は叫びたい衝動に駆られたが、今しがたの渡島のことを思い出し、すぐに自制心が働いた。
「そうだ、お前が倒した。これがつまりどういう事か分かるか?」
「い、いや、分からないよ。」
「そうか、そうだよな。いいか、お前が神器と並ぶ力を持つ天之尾羽張を倒せる実力を示したがために機関はお前を是が非でも迎え入れるだろう。考えたくはないが、例え非道を使ってでもな。」
「非道?」
「例えば、家族や友人知人に危害を加えるとか・・・」
「何だって!?」
誠は立ち上がった。アーサーは彼の一番弱いところを突いてきたのだがこれは藪蛇でしかなかった、そのことにいち早く気付いたエマはまたもアーサーに向けてリンゴを投げつけていた。
「バカ、お前はどうして調子はいいのに無神経なところがあるんだ。」
「そ、そうだったな。すまん、誠。今のは俺が言い過ぎた、例えばの話だ、例えばの。」
「例えばでも、そんなことしたら俺は、あんた達の親分を許すなんでできない、絶対に!」
誠の怒りは瞬間的に沸騰して冷却を知らぬようであった。アーサーは自ら沸かした熱湯に水を注ぐ作業を試みる。
「落ち着け、俺もそんなことはさせん。もしそんなことになったら俺が、俺達が全力で止めてみせる。だから落ち着け。」
「本当か、アーサー?」
「ああ。俺の、この剣に誓ってもいい。」
エマもベッドの上で頷きを見せた。
じっと二人は互いの目を見やる。古来、騎士が剣に誓約をかける事は神に誓うにも等しい。アーサーの言葉は古式に則ったそれと同様であったが、知識不足の誠は所作ではなく彼の真摯さに心を打たれ、沸騰を止めた。
「そうか、ありがとう。で、どのみち俺はあんた達の機関に入らないといけなくなるわけなんだな。」
「ああ、遅かれ早かれお前はそうなる。」
「まあ、俺も神器だとかフォルティア・ミーラだとか、もう十分わからなくもないわけだし、話くらいは聞かないといけないとは思うんだ。だけど・・・」
「だけど?」
誠の、喉に魚の小骨が引っかかるような言質にアーサーは深く食い込まんとする。彼なりに誠を守ろうという意思が深い一歩に入れさせた。
「ああ。だけど、そうなると今度は一週間の不在とかってわけにはいかないんだろ?家にも学校にも、なんて言い訳すりゃいいんだ?」
「ふふん、そんな事くらい俺達に任せろ。なんとでもしてやるさ。」
アーサーのやけにいい笑顔のグーサインが誠の印象に残った。
一ヶ月後、誠と彼の家族、それにアーサーの姿は北九州国際空港にあった。旅支度を整えている誠とアーサーに比して家族達は外出着とはいえ軽装である姿が、彼の旅立ちを見送る家族という事態を想起させる。
異様な姿といえば、誠もアーサーも神器という剣を携えているわけだが、やはり他の者には見えないものだから圧倒的大多数には異様という分類には入れられなかった。
「マーくん、気をつけてね。生水は飲んじゃ駄目よ。」
「だから母さん、もう子供じゃないんだって言ってるじゃない。」
「だって、だって、だってえ、ううう。」
恵はハンカチで両の目頭を押さえていた、ハンカチの防壁を軽々と打ち破って涙が止めどもなく溢れ、頬から顎へと伝わり落ちていた。
「恵さんや、孫の目出度い門出なんじゃ、笑って見送ってやれんかのう?」
「気持ちは俺達も同じだけど、ここだけは笑ってやってくれ。母親に泣かれて旅立ったんじゃあこいつも後ろ髪引かれて仕方ないだろ。」
勇も一も恵を宥めるのだが、それでも彼女の涙は留まることを知らない。人はここまで出せるのかと思い込まされる水分量をたった二点から放出している様子は息子よりむしろ母親の脱水症状を心配させる。こんな時こそ得意の嘘泣きであって欲しかったと、彼女の家族達は願っていた。
「まあ、ここまで思われてるのは幸せなことだ。なあ、誠。」
「あ、ああ・・・」
アーサーもこうなると辛かった。これでは人買いの誹りを受けても仕方がないような罪悪感が彼の背中をも掴んでいた。買ったといえば買った事実に変わりはないので反論のしようもない・・・
誠が渡島に退院を許され下関へと戻ったのは、家を出てから結局半月後の話となった。約束を倍も超過し、さぞ心配かけていることだろう。また父のビンタが炸裂するのだろう、という思いが玄関前まで達していた誠の脳裏を過ぎる。
「覚悟はいいか、誠?」
後ろに立っていたアーサーが誠の肩にぽんと手を置いて決意を促す。更にこの時はまた後ろに二人ばかりの外国人が立っていた。勿論機関の人間でアーサーの手配によるものである。
自分の家の敷居を跨ぐのに勇気を必要とするとは思わなかった、誠は勇気のバロメーターが現在の気圧を越えた地点で扉に手をかけた。
「たっ、ただいま!」
勢いをつけて扉を開け、いつにない大声の挨拶を放つ付近に彼の緊張の度合いが表現されていた。
家族の帰還を聞きつけ、まずどたんばたんとやたら騒がしい物音を立てつつ襖を開けて玄関を確認してきたのは勇であった。
「おおっ、誠。よく帰ってきおった。無事か、無事なんじゃな?」
「大丈夫だよ、じいちゃんに鍛えてもらった体が簡単に壊れるわけないさ。」
「よく言うた。それでこそワシの孫じゃのう。」
勇は誠の頭を撫でた。子供ではないと一蹴したい気持ちもないではないが帰宅を喜ばれている嬉しさは小さな背伸びを難なく封じた。
「マ、マーくん?もうっ、一週間って言ってたのに、もうずっと帰ってこないんじゃないかと母さん気が気でなかったわよ。」
「ご、ごめんよ。」
一歩遅れて恵が彼の帰宅を確認にやって来た。怪我をしていないかと彼の身体を弄って確かめる。更に出遅れたな、という感の一は二人の後ろにやって来て腕を組みながら難しい顔に微量の笑みを混合した顔で誠の帰りを出迎えていた。
「親父も、ただいま。」
「ああ、おかえり。どうだ、しっかりやれてきたか?」
「ああ!」
息子の上に突き出す拳を見て、何らかの大望を果たした報告を受けた父も同じ格好を取った。誠は父にも帰りの報告が完了したと安心した。
「で、後ろのお歴々は何なんだ?」
一が冷静に誠の後ろでまだ敷居の外で家族の再会を傍観している三人の外国人を目に留めた。外国人を見る頻度は誠よりは高かったようだが、家を訪ねてくる経験となると一はおろか勇にもとんと記憶も謂れもない。
「ああ、じっくり話したいから上がってもらってもいいかな?」
誠の知己であるらしい来客を玄関で追い返すほどの無礼さは家族の誰にも備わっていなかった。見慣れぬ容姿に些かの違和感と戸惑いはあるにせよ、全員がアーサー達を喜んで迎え居間へと招き入れた。やがて彼らの口から放たれる言葉は家族を戸惑わせる。
「サ、サッカー留学?」
異口同音の驚きが家族全員から発射された。エージェント風の二人がもっともらしく家族の誰にも理解できない外国語を話しアーサーが通訳の役で日本語で伝える。誠含め日本人側が誰もエージェント役の二人の言葉を、何語かすら理解できていないだけに彼らが役に徹しきった台詞を述べているのか、ただの雑談で茶を濁しているのかは理解できなかった。ただエージェント同士はやけに和気藹々とした話をしている印象だけは家族に印象を植えていた。
「そうです、お宅のご子息を我がチームに迎え入れたい、日本で言うところの『青田買い』させて欲しい、我々はそう考えてます。」
アーサーに関しては家族に日本語を伝える役目を担ったわけであり、間違いない演技の必要が生じる。負担は新たにやって来た二人より確実に高い、同じギャランティーであったら愚痴の半ダースは零していたところであろう。
「勿論、誠さんに不自由はさせません。我々専用の寮で面倒は見ますし、当地の日本人学校で勉強も受けさせます。」
ずっと呼び捨てでいられた相手が急に自分のことを「さん」付けで言う風に誠は面白さを感じたが足をつねって笑いを堪えた。何がおかしいかと問い質されでもしたら話がややこしくなると浅知恵を絞った結果である。実際は家族は急な提案に戸惑い、誠が吹き出そうがその位の小事に割く余裕はなかったのである。
互いにも顔を合わせてもそもそと話し込む家族に対してアーサーは更なる一手を施す。用意していた重要そうなアタッシュケースを開封し、中身を家族の眼前へと晒した。
「お、お金?」
「一体幾らあるんじゃ・・・」
ケースの内部は札束、しっかり日本銀行券で埋められていた。光を発しない綺羅びやかさに目前の眼は多少なりと引き付けられた。
「手付と言っては何ですが。」
我が家にも名誉なことであるし、生活や教育の保証もしてくれる、そこに来ての現物支給に家族の方針はほぼ決し、書面上の詰めの協議へとスムーズに舞台を移すこととなり結果、誠は無事にアーサーやエマの所属する機関への旅へと就くことになった。家族をまた欺くのは矜持に反するが、真実はやはり言えるはずもないという思いのみが免罪符となっていた。
「お前が気に病む必要はない。口から出任せも、あれだけ舞台を整えたら真実さ。」
アーサーは後に誠へそう述懐していた。
「それにしても俺を買うだけにあんな大金、よく出したよな。」
「まあ、俺の金じゃないからな。」
アーサーはあっけらかんとして誠の現実的質問に答えにならない解答を示した。
一方、金の出所になる男は、欧州某国にある機関本部にて報告書を受け取っていた。
「・・・が、今回の顛末です。」
部下より報告を受けた男は内容に満足げな笑みを浮かべる。
「覚醒早々にして神器級の敵を討ち果たす、神器を二本使って生きている。掘り出し物と言うべきじゃないかい?」
「ですがマギステル、それだけのために見もしていない資格者『候補』にこの額は・・・会計担当が不満を漏らしてましたが。」
実務畑で机上の書類が全てといった秘書然とした様子の部下はマギステルとは対象的な表情を浮かべている。支払った額に対して現在の実績や数値では損得勘定が釣り合わんというビジネスライクの思考で寄せた眉間の皺が見た目の年齢を増加させる。
「なあに、先行投資と思えばいいのさ。彼の実力さえ理解すれば各国も我々への出資は惜しまない。そんな事より、早く一目会ってみたいものだよ、石狩誠くん。」
「はあ・・・」
上司は部下の気苦労を介さず窓の外へと視線を移す。外には広大且つ隅々にまで手入れが行き届いた庭園の中央に噴水まで存在する、何処かの宮殿のような庭園が見える。人気の少ない景色を見やり、マギステルは耽美な笑顔を浮かべていた。
舞台は再び空港に戻る。泣き疲れの色が見えてきた恵は一に寄り掛かり、一度は認めてここまで見送りに来た自分の決意を思い直していた。
「とにかく、体だけは大事にしてね、上川君みたいな目に遭わないでね。嫌だったらすぐ帰ってくるのよ。」
俊の名を出されて誠の良心は軽い振動を受けた。巻き添えにした件は勿論だが、先日も見舞いに行った際には彼にも嘘の渡欧理由を告げていたからだ、彼のほうはもう以前の程度のプレイすらできないというのに。
「そうか、サッカー留学か。俺のパートナーが偉くなったもんだ。」
「俊・・・」
「何しけた顔してるんだよ、俺の分も、お前には俺の分も活躍してもらうぜ、いいな。」
「あ、ああ。当たり前じゃないか。」
がしっと握手を交わして俊とは別れた。活躍、違った舞台での活躍になってもアイツは許してくれるかな、と心残りを匂わせて。
「母さん、心配しないでくれよ。俺、立派になって帰ってくるから。」
「え、ええ・・・」
誠は母が何を言おうと揺るがない決心をしている、母も理解ができているからこそ笑って送り出したいのだが、今はどっち付かずの言葉が精一杯だった。
「長くなればなるほど別れは辛くなる一方だ。もういいだろう、誠?。」
「ああ、そうだよな。そうそう、エマはどうしたんだ?」
誠はこの場にいない唯一の当事者が気になっていた、彼女とは共に退院してから殆ど姿を見ていない。
「ああ、そうだな・・・アイツはアイツのことだ、遅れることはないだろう。」
エマのことは妙にそっけなく答えてくるのは、病院での手痛い扱いが原因なのかと誠は邪推しつつ、アーサーに従おうとする。しかしそれはとんだ的外れだった。
「待って!」
聞き覚えのある大きな声が誠を振り返らせた。目を向ければ家族のすぐ後ろで優子が息を切らせて立っていた。走って辿り着いたのであろう。それに彼女の後ろからエマも顔を覗かせる。
「別れの挨拶くらいきちんと済ませろ、甲斐性なし。」
アーサーがエマの所在を語りたがらなかったのは、彼女が優子を連れてくる手筈を二人の内だけで決めていたからであった、少なくとも一方は気を利かせたつもりである、そしてもう一方は邪な喜びを求めてお節介を焼いたつもりである。
「ひ、日高・・・体はどこも大丈夫なのか?」
夢と同じ言葉を誠は発していた。彼女としては、彼の気遣いから出た何気ない一言で確信を得た。自分の体に何かがあったことを既知であるということはつまり、一連の出来事の関係者であることに他ならないから。
「エマさんから、色々聞きました・・・やっぱり石狩君だったのね。」
彼女は感情を爆発させた、誠の元へと駆けて飛び付き、首に手を回して顎を肩に乗せる格好になった。今度は事故でも偶然でもなく、優子自らの意思で誠に抱きついていた。大胆な行動という自覚はあった、しかし彼女には今旅立たんとする誠に気持ちを伝えたい感情が重要であった。
「あらあらあら、日高さんったら大胆。もう、お母さん妬いちゃう。」
これには泣きべそで塗り固まっていた恵も朗らかな笑みを取り戻さずにはいられなかった。そして横にいた二人の男はと言うと、でかした!と叫ばんばかりの様子で子の、孫の晴れ姿を見届けていた。
「やれやれ、とことん世話の焼ける者達だ。」
エマの口は呆れていたが、二人の仲良き様を見届けている瞳は温かいものを嗅ぐわせていた。
優子は誠に寄せた口から、彼にだけ聞こえる声で語りかけてきた。
「お父さんもあたしも、あなたが助けてくれなかったらどうなっていたか分からない、ううん、多分こうしてなんていられなかったのよね・・・ありがとう、誠くん。」
誠は優子に抱きつかれた時点で精神が山の向こうに行ってしまったような感覚を覚えており言葉の端々を気にする状態になかった、そんな彼が優子からの呼び方が変化していたことに気付いたかどうかは判然としない。
「あたし、待ってるよ。だからいつか、あたし達の所に帰ってきてね。」
「あ、ああ、もちろん。」
優子にいかなる思いがあれども、少なくとも誠の方は相手の言葉を重く受け止めていなかった。いつになるか分からないが帰ってくることだけは心に決めていたことだから、自分の思いが優子の言葉で反芻されたと思ったに過ぎない。
「いやあ、よくやったよくやった、留学の前に大金星だな、やっぱり俺の息子だ。」
二人の間は一によって侵食された。若い二人の背中をぱんぱんと叩いてる姿に恵はお気に入りの玩具を取られた幼児のような顔を見せる。
「そうだ、どうせなら嬢ちゃんも向こうへ連れて行くか。ちょっと早いが婚前旅行ってやつで、うおっ。」
恵が居ても立っても居られず夫の耳を掴んで連れて行こう、とする前にお調子者の父の土手っ腹に正拳突きを食らわせる子の一撃が先んじていた。
「喧しいっ、舞い上がってんじゃねえ。」
父がやたらはしゃぐ姿を見ることで誠の精神は自らの体へと帰還した。正拳突きに腹を抑えるお邪魔虫を、今度こそ恵が耳を掴んで二人から引き剥がす。
「まったく、どうして最後まで格好つけてられないのかしら。」
涙の収まっていた恵も夫の馬鹿っぷりにひどく立腹になっていた。
「じゃあ、俺行ってくるわ、日高。」
仕切り直しを余儀なくされたが、優子と別れの挨拶以上の事が叶ったのは僥倖と神に感謝したい気分であった。感謝の対象はあくまでも神であり、腰に佩く相棒にではなかった。が、なんとなく彼は腰に目を落とす。
「何だ、何か感じるのか?」
「いや、まあ・・・これからもよろしくな。」
「ふっ、何を言うかと思えば。」
剣も悪い気はしなかった。これからも世話してやろうと相変わらずの居丈高な思いを持ち、彼の旅立ちに付き合う。
「あの・・・誠くん、ちょっといい?」
いいところを一に邪魔された格好で、恥ずかしさが込み上げ少々もじもじする優子が誠を呼び止める。誠はその姿がやたらと可愛げに満ちたように見えて、父の言葉を実行して本当に欧州へと連れて行きたい衝動に駆られた。しかしそんな真似許されるはずもないとすぐに頭を振って邪念を吹き払い、彼女の言葉に反応を返す。
「ま、まだ何か用か?」
誠の態度はいきなり硬直化したようだったが、優子はそこは関心を持たずに言葉を続ける。
「こんな時、もっと可愛いものでも渡せたらいいと思うんだけど・・・あたし、不器用でお裁縫とか全くダメだから・・・これ、持って行って!」
さっと優子が両手で包んでいた物を誠の前に差し出した。
「これ・・・日高の神社のお守りか?」
「うん、開運招福のお守り。特別な物でもないんだけど、霊験はあらたかだから役に立つわ。あたしが保証するから。」
語尾と共に優子は少し笑みを零した。好意がないわけでもないような女性から可愛げに申されれば、お守りどころかおよそ無用と思われる物でも結論は決まっていた。
「貰っていいのか?」
「うん。是非持って行って欲しいの。」
「ありがとうな、日高から貰えたら霊験以上に縁起がいいだろうしな。大切にするぜ。」
「ありがとうっ。」
優子は目を輝かせて彼の言葉に頷きを見せた。何気ない極みの物しか送ることができなかったものを喜んでくれた誠に彼女は好印象を抱いた。誠は誠で、彼女の抱いたより更に大きな好印象をこの数分で抱くこととなっていた。
「おっと、もうそろそろ手続きしないとな。行くぞ、誠、エマ。」
「分かった。」
「おうっ。じゃあ、行ってきます。」
一人増えた四人に見送られて彼らは発つ。勇と一は似たもの親子の絆を全開にして大声で誠を送り出し、恵は笑いながら嗚咽と共にまた涙を浮かべながら手を振っている。目立つことこの上ない三人の横で始末が悪そうに見送る最年少者は対比の結果、あまりに常識人ぽく人々の目に映っていた。
座席に腰を落ち着け、三人は目の前にそれぞれの神器を立てる。剣なら手を載せておけばいいが、槍を扱うエマだは長さを持て余していた。
「そういえばさ。」
誠は相棒へと口を開いた。
「結局あの天之尾羽張に取り込まれた奴って何者だったんだろうな。」
「あの剣もそのくらいは覚えていると言っておったが我は知らぬ者であったな、我が眠っている間に日本の国盗りを志半ばで頓挫させられた男だということらしいが。」
天之尾羽張はアーサーが回収し、同じ飛行機で誠共々本部へと輸送されるため、厳重な包装封印で貨物室に鎮座させられている。依代を失ったことで解放なり正気を取り戻した天之尾羽張はここ数百年の、男と共に歩いていた記憶の一切を失っていた。ためにアーサーはそれから何一つ聞き出せず、事情聴取は空振り三振で終わっていた。
飛行機はいよいよ地を離れる。誠のこれからは搭乗している機の進路のように開けていたわけではないが、窓から小さくなっていく故郷を見下ろすに至り、彼は自らに課せられた使命を全うし、必ず愛する者達の元へと帰郷すると誓っていた。
資格者(サンクトゥス) 神を纏いし者 桜庭聡 @sakuraba00
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