004 春風
放課後、青年が校舎の中央階段を下り三年生の教室が立ち並ぶ階まで降りると、廊下で立ち話をしている何人かの生徒の奥に先輩の姿が見えた。先輩は若草色のジャンパーを羽織り通学鞄を肩に掛けたまま三年八組の教室壁にもたれかかって携帯端末を操作していた。
「先輩」
青年が声を掛けるが反応がない。一瞬人違いかと思いもう一度顔をちらっと見やるが、確かに先輩であるようだということを再確認した。青年はもう一度声を掛けるべきかどうか悩んだ末、結局声は掛けずに向かい側の窓枠にもたれかかって自分も携帯端末を弄ることにした。しかし先週先輩から少しだけ使い方を教わった程度の知識しか持ち合わせず昼にピアスと連絡先を交換したのが精一杯の青年には携帯端末を使って暇を潰す方法など思いつくべくもなく、止むを得ず自分が知っている唯一の携帯端末の機能である連絡機能の使い方を確認する作業に勤しむことにした。
確かこうだったはず、という微かな記憶を追いかけて端末の画面を指で擦る。思った通りの画面が表示されて青年はほっと溜め息をついた。連絡先リストに列挙された名前は三つで、ひとつは先輩、ひとつはピアス、そして最後のひとつは施設だった。余白が多かったページが埋まっていくのを見て青年には文字と情報とそれだけではない何かがこの画面を満たしていくのを感じて気分が高揚した。
先輩とピアスの名前を交互に見やり、少しだけ眉間に皺を寄せる。暇つぶしと端末操作の練習を兼ねてどちらかにメッセージを送ろうと思ったが先輩は目の前に居るしピアスは昼に連絡先を交換したばかりでメッセージを送ってよいものかわからない。先輩の方が無難だとは思うが、先輩には連絡先を交換したときに既に何度かテストでメッセージを送っているので今更練習ですと言うのも不自然な気がする。
迷った末結局ピアスにメッセージを送ることに決め、慣れない端末の文字入力と悪戦苦闘してようやく「こんにちは」まで入力し終えた頃合いで、先輩がようやく青年に気付いて声をかけた。
「あれ、もう居たの。声かけてくれれば良いのに」
「一度かけたのですが、すみません。次からはもう一度声をかけますね」
「甘いボイスで頼むよ」
「甘い、声に味があるんですか」
「あるんだよ。じゃ、行こうか」
先輩が教室の壁から背を離してくてくと歩き出し、青年が後を追いかける。このとき先輩が放った適当な言葉のせいで、青年はこの後しばらく声は食べられるものだと思って声の食べ方についてずっと考えたり先輩が喋るときにひっそりと口を開けたりする羽目になった。
先週二人で行ったバーガー屋の前を通り過ぎ、二人は駅舎に入った。建物の中には下校途中の学生と中年の男女が多く居て、特別広くもない待合スペースに設けられた椅子やベンチは全て満席になっていた。電光掲示板が湿った空気と温度に晒されながらぼんやりと映し出す時刻表を見るに、二人が乗る電車にはまだ少し時間があったが、あまりにも人が多いので二人は早めにホームに昇ることにした。
先輩は携帯端末を持って青年に改札の通り方を一通り教えると、実際に目の前でやって見せた。改札のパネルが携帯端末を認識した音とゲートが開かれる音が小気味よく続き、先輩は改札をさらりと通り抜けると、振り返って青年に手招きをして自分に続くよう促した。青年は何度も携帯端末の画面を見直して、ぎこちない足取りで改札へ向かい、恐る恐る携帯端末をパネルに近づける。改札は先輩が通ったときと全く同じように小気味よい音を立ててゲートを開き、青年は一瞬戸惑ったがゲートが開いたことがわかるとすぐに小走りで改札を抜けた。
「そんなに怖がることないのに」
先輩が笑う。青年は改札を出たあとすぐに振り返りゲートが閉まるのをしっかりと見届けてから溜め息をつくように先輩に尋ねた。
「もしゲートを通り損ねたらどうなるんですか?」
「多分だけど、センサーが感知してるから大丈夫だよ。ほら、行こう」
そういって先輩は青年の左の肘のところを手のひらでぽんぽんと叩き、振り返って歩き出した。青年もそれを追いかける。
ホームへと乗客を運ぶエスカレーターを見るや否や青年はすぐに難しい顔をして「この床はどこから来てどこへ行っているのですか」と先輩に尋ねた。それからしばらくはエスカレーターを少し遠い位置からじっと眺め、繰り出されては列をつくって上に上にと上がっていく足場の流れを見ていたが、結局上手に乗り降りできる自信が無いと言って終始エスカレーターを怖がっていた。しかし最後には先輩がひょいとエスカレーターに乗って「どうしても無理だったらそこのエレベーターでおいで」と言いながらどんどんと遠ざかってしまうので、青年は意を決してエスカレーターの足場の波に乗り込んだ。最初はほんの少しふらついたものの、その後は手すりを両手でがっしりと掴み、なんとかエスカレーターをクリアすることができた。
「初めて乗りましたが、何回か乗ればなんとかなりそうですね」
青年はまた振り返って暫くエスカレーターの足場が吸い込まれどこかに消えていくのを眺めていたが、別の乗客がエスカレーターに乗って上がって来るのが見えたところでエスカレーター観察に区切りをつけて、二人はホームに繰り出した。
「そういえば先輩、フリョウって何ですか」
「フリョウ? 不良っていうのはそうだねえ、良くないってことかな」
ホームのベンチも既に他の乗客で埋まってしまっていたので、二人は並んで壁に背を預けてお喋りした。周りにも集まって話している高校生が何人か見られたが、どんな喋り声も等しく春風が撫でては少しすくってどこかへとさらっていってしまうので、建物の中よりは何倍も気持ちが気持ちが良かった。
「良くない……僕は不良ですか?」
「君は不良じゃないよ、全然不良じゃない。ふふ。不良って言うのはもっと公序良俗に反した……っていうと難しいかな。ええと、ルールを破って人に迷惑をかけるような人のことかな。人に不良って使うときはね」
「ルールを破る人ですか」
青年はポケットに手を突っ込んで携帯端末に触れた。ほとんど無意識のことだった。向かいのホームに女子高生の四・五人の集団がぞろぞろとエスカレーターから頭を覗かせて現れるのを何とはなしに眺めながら、青年はどこかにピアスの面影を探していた。ピアスは今頃どこで何をしているのだろう、部活は入っているのだろうか。どこに住んでいるのだろうか。ピアスは余暇を何をして過ごしているのだろう。あの時聞いておけば良かったという気持ちがじわじわと染みてきて、何となく青年をそわそわさせる。
「どうして急に不良なんて聞いてきたの」
「今日のお昼に僕に話しかけてくれた人が居たんですけど、その人のことを後で別の人にで聞いたらその人は不良だって言ってたんです。不良って何だかわからなかったのですが何となく聞くのは憚られる感じだったので、後で先輩に聞こうと思って」
「へえ、そうなんだ。面白いね」
「面白いですか、僕は一緒に話した人が良くないと言われると、なんだか、胸のあたりがもやもやして、鼻がつんとするような感じになります……怪我をしたときとか、周りに迷惑をかけてしまったときみたいな気持ちがします」
言葉を発し終わった青年の横顔を先輩がちらりと盗み見る。青年はずっと向かいのホームの線路と人が立っている場所の間の暗闇を見つめていた。鴉が二羽ホームの上を飛び去ると、同時に陽が傾いたのか、遠のく羽音が光も持って行ってしまったようにホームが少し暗くなり、電光掲示板の電車が一つ前の駅を出発したことを知らせる表示が眩しく光った。
「それはきっと、悲しい、っていう感情じゃないかな」
「悲しい」
「そう。きっと君は今悲しいんだと思う。簡単に面白いなんて言ってごめんね」
「いえ、いいんです。悲しい。これが、悲しい。はっきりとはまだよくわかりませんが、ちょっとわかるような気もします」
電車の音が遠くから聞こえ始め、背中からぞろぞろとエスカレーターから人が昇って来てホームに流れ込む気配がした。わざとらしく制服を照らす蛍光灯の光も、自分の役目を孤独に果たし続ける自動販売機も、ホーム全てが少しざわついて見えた。
「悲しさは怒りと同じくらい、時には怒りよりも、生産性と合理性をなくさせる感情だから社会では一番ダメな感情って言われてて、悲しい顔をすることも誰かを悲しませるようなことをすることも恰好悪いことだって思われてる。でもね、悲しみを、どう思うかは君次第だよ。悲しい思いをして、時には人の悲しみに触れて、君が決めなきゃいけないよ。自分の悲しみのやり場を――」
ふと青年が先輩の顔を見ようとしたのと同時に、先輩は壁から背を離して歩き出した。突然のことに困惑しながら青年もすぐにおいかける。すると間もなく後ろのホームとエスカレーターを繋ぐ通路の扉が開かれて、下校中の高校生たちの喧騒がぶわっとホームになだれ込んだ。人の波は驚くほど素早く綺麗に分解されいくつかの列になり、青年たちの後ろに形成され、それが列車に乗るためのいつもの一連の動作であり先輩はこのことを知っていて先に行動したのだと気付いた青年は、先輩の確かな慣れと知恵に納得して感嘆した。
青年は表情豊かな方ではなく、他人の表情を読み取ることも、自分の心情を言葉で表すことも得意ではないので、青年が顔を覗き込もうとしたときに見た歩き出した先輩の後姿を形容する言葉を持ち合わせていない。けれども咄嗟に青年の脳裏に浮かんだのは、そのままつかつかと歩き、ふわりと全てをすり抜けて、羽毛が舞い落ちるように線路の上に降り立つ先輩の姿だった。青年が意図して何かを考えたわけでもなく、どうしてそんなビジョンが思い浮かんだのか青年自身にもわからない。けれども少し鼻がつんとして、それが意地悪に冷たい北国の春の夕暮れ時の風のせいなのか、それともこれが悲しいということなのか、わからないまま青年はステップを踏み越え電車に乗った。
日暮れと共に、二人は街へと繰り出す
さらば失敗作少年少女(仮 二階堂くらげ @kurage_nikaido
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。さらば失敗作少年少女(仮の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
関連小説
雑記/二階堂くらげ
★0 エッセイ・ノンフィクション 連載中 19話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます