003 友達

 003


 四月最後の週末を迎える直前の金曜日、青年が先輩と出会って三週間が経とうという頃だった。昼休み、青年がいつも通りに教室の自分の席で昼食を取っていると他の生徒に声をかけられた。

「隣良い?」

 声のした方を見やると、青年と同じクラスの女子が弁当箱と見られるピンク色の包みを持って立っていた。青年は特に何を思うでもなく不愛想に「どうぞ」と返す。女子は青年の向かいの席の椅子を反転させて座り、青年の机の上に包みを広げた。

「いただきます」

 広げた包みを綺麗に畳んで仕舞い二段の弁当を並べて置いてから、箸を指に挟んだまま両手を合わせて女子が言った。青年にはその一連の動作が奇妙に見え、思わず食指を止めてその動作に見入っていた。

「ん、なんかおかしかった?」

「いや、何なんでしょう、そのいただきますというのは」

「あのさ、その前に気になってたんだけどその敬語やめない?」

 青年は「え」と短く声を発して固まるとそのまま暫く唸りながら難しい表情をしていたが、ついには意を決したように顔を上げて言った。

「敬語以外を喋ったことがないので、難しいんですよね」

「本当に? あんたいつの人なの」

「え、何か変ですか?」

「変かって言われれば変かな……敬語が使われてたのって八十年くらい前の話でしょ。現代で喋ってる人あたし初めて見たよ」

「そうだったんですか……」

 青年は苦々しく目を細めながら購買で買った菓子パンに齧りついた。先輩とバーガーを食べて以来青年の中では食べ物は大きなものに齧りつくのがブームになっていた。何も喋らずに難しそうな顔をしながら、ずっとパンを咀嚼している。

「いやでもそういうことなら良いと思うよ、敬語。あんたらしさだよね。気に入ったよ。やっぱりあんた面白いね」

「そうですか……ちょっとずつ直しますね」

「そのままで良いってば。それでえーとなんだっけ、いただきますだっけ、知らないの? いただきますって言うのはね、ご飯を三倍おいしくする魔法の呪文だよ。両手を合わせて唱えるのが作法」

 言われるがままに食べかけの菓子パンを一度袋に仕舞い机に置いてから、青年は律儀に両手を合わせ呪文を唱えた。

「いただきます」

「どう?」

「特に変わりませんね」

「やっぱり食べる前じゃないとダメだったかー」

 そう言って女子は自分の弁当箱の唐揚げに箸をつけた。青年は初めて見る食べ物にどんな味がするのか無限の想像を膨らませながらその様子を見ていた。

「強いて言えば、あなたが前の席に座ったときの方がおいしくなった気がします」

 女子は「は」と短く笑った。「あんたそういうこと真顔で言うの?」と聞いても質問の意味が分からないという顔でひたすら菓子パンをもぐもぐと咀嚼する青年を見て、女子はまた笑う。

「こないだバーガー屋でたまたまあんたのこと見たんだよ。トイレに行くときとか横通ったりしたんだけど気づかなかった?」

「全然気づきませんでした」

「ま、そんときちらちら会話が聞こえて来ちゃったんだけど、あんた面白そうだなと思ってさ。今日たまたま見かけたから声かけたってわけ」

 続けて女子はウインナーに箸を延ばした。見たこともないほど鮮やかな赤とざらついたピンク色をしていて奇妙な形に切られたそれの味を想像することは青年には極めて困難で、少し考えるだけで思わず眉に皺が寄りそうになった。

「さっきからじろじろ見てるけどさ、やっぱどっか変かな。あたし自分で作ってるからさあ、あんまり上手くないんだよね」

「自分で作ってるんですか!」

 青年が声を荒げるので女子も驚いて目を丸くした。青年が自分を見る目は女子がそれまで見たこともないくらいキラキラしていた。

「そ、そうだけど」

「すごいです。僕ずっと食べ物ってどうやってできてるのか不思議で仕方なかったんです。どうやって作っているんですか?」

「あ、は。いやいや、そういうんじゃないよ。神様が世界を作るみたいに私が食べ物を作ってるんじゃないから。あはは。私は食べ物を買ってきて、料理するだけ。わかる?」

「すみません、わかりません」

 女子は箸を持ってない方の手の親指と人差し指で頭を挟むように額に手を当ててうーんと唸った。少し目を細めて自分の弁当箱を見つめる表情はおちゃらけた彼女の表情とはギャップがあって、青年は自分の質問が女子を不快にしてしまったかと不安になる。

「そういうあんたは今まで何を食べてきたわけ?」

「僕ですか。それがよくわからないんですよね。なんて言えば良いんでしょう。なんとも説明が難しいです」

「何に近い感じ?」

「こっちの食べ物を全然知らないのでわからないですね」

「こっちってどっち、あっちがあんの?」

「それは禁則事項です」

「あは、何それ。格好いいじゃん」

 女子がカラカラ笑う。青年はそれに気を悪くするでもなく、寧ろさっきまで難しそうな表情をしていた女子が笑顔に戻ったことに安堵していた。

「それ、なんていうんですか」青年が指指して言う。

「これ、お弁当のこと? お弁当知らないの」

「はい」

「お弁当っていうのは、こうやっていくつかの料理とご飯を一緒に箱に入れた携帯用のご飯のことだよ。ねえ、何でお弁当知らないの、知らないのって食べ物のことだけ?」

「色々なことを教えてもらっているお礼に出来るだけ僕も答えられることには答えたいんですが、あまり詳しくは言えないんですよね。禁則事項で。少しだけ言うなら、僕はこの学校に入るまでずっととある施設に居て、そこで育ったんですよ」

 女子は話を聴きながらへえーと心から興味深そうに頷いて、青年のことをまじまじと見ていた。青年には人から見られるという経験がほとんどないので嫌がる理由も恥ずかしがる理由も持ち合わせていなかったが、どことなくこそばゆいような気分になった。

「施設の人以外で話すのはあなたで二人目です」

「二人目? じゃああのバーガー屋で話してた先輩が二人目だ」

「そうです」

「へえー二人目、それは嬉しいね。二人目かあ。へへ。いいね。なあ、あたしたち友達になろうぜ」

「友達?」

「ああ。友達っていうのは敬語と同じくらいだから八十年くらい前にあった概念だな。現代では滅んだ。まあ同盟みたいなもんだよ。同盟ってわかるか?」

「契約みたいなものでしょうか」

「うーんまあ大体そんなもんだ。でも友達はそんな堅苦しいもんじゃないよ。いい、友達の条件はみっつだよ。ひとつ、友達は仲良くする。ふたつ、友達は互いを信じる。みっつ、友達は裏切らない。オーケー?」

「よくわからないですが良いですよ」

「よっしゃ。じゃあ、友好の印に」

 女子が口を開けろとジェスチャーするので言われるがままに口を開けると、青年の口の中に女子の弁当箱から唐揚げがひとつ放り込まれた。

「すごくおいしいですね」

「そういうときはな、なまらうめぇって言うんだよ」

「なまらうめぇ」

「よし」

 女子が今日一番の眩しい笑顔を見せたので、青年の顔も思わず綻んだ。身体が温かい春の陽の光を浴びた時のようになって、目が少しの熱を帯びた。

「あたしの料理を上手いって言ったのはあんたが初めてだよ。食わせたのも初めてかもだけど。折角友達になったんだし、これからもたまに一緒に飯食おうぜ。同盟会議だ」

「良いですよ」

 良いですよ、と言いながら感じる何か違う何か物足りない気分に、青年は先週の先輩とのやりとりを思い出した。もう少し何となく胸がもやもやしないような言い方があるのではないかと思いながらも、先輩が良いですよで良いと言っていたので、すっきりはしないがこれでいいのだろうと自分に言い聞かせた。


 後日隣の席の男子生徒にその女子のことを尋ねると、男子生徒は「ああ、ピアスのことか」と答えた。曰くその女子生徒はピアスと呼ばれていて、フリョウらしい。フリョウというものが青年にはわからなかったが男子生徒があまり感じが良くない喋り方をしていたので、今度先輩に聞いてみることにしてその場では飲み込んだ。

 それから毎週金曜日の昼になるとピアスは青年の机の前にやってきて弁当を広げるようになった。ピアスは弁当の他に弁当と同じ具材を入れた小さなタッパーをもってきて青年に差し入れた。「これは玉子焼き、鶏の卵を砂糖と醤油と出汁で溶いて焼いて丸めたもの」という風にひとつひとつピアスから説明を受けながら、青年はそれをどきどきしながら食べた。そして気に入るものがあると真顔で「なまらうめぇ」と言いピアスを喜ばせた。タッパーには弁当箱には無い日でも必ず唐揚げが入っていて、青年はタッパーの中身に箸をつける前に必ず両手を合わせてご飯が三倍おいしくなる呪文を唱えてから食べた。

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