第8話:初恋、忘れられない思い出


 亜衣にとって初めて伊月を好きになった日は忘れらない。

 それは悲しい思い出と共に心に刻まれた初恋の思い出。


「ふぇーん」


 大粒の涙を流して泣き続ける亜衣。

 小学校の低学年の頃、彼女が生まれる前から小倉家で飼われていた猫が亡くなった。

 可愛がっていた猫の死は幼い子供の心を深く傷つける。


「うぅっ、ぁっ……レギオンが死んじゃったよぉ」


 レギオンとは決して巨大カメと戦う怪獣の名前ではない。

 相変わらずの保奈美クオリティのネーミングだが、可愛らしい銀毛の猫だった。


「亜衣ちゃん、泣かないでよ」

「だって、だって……ひっく……」


 亜衣が涙を流す横で何もできずに伊月は見守るしかない。

 動物は生きている、生きているものには必ず終わりが来る。

 飼っている限りはペットの死は避けられない。

 そして、その死は飼い主にショックを与える代わりに、命の大切さも教えるのだ。


「レギオンがいなくなっちゃった、ぐすっ……」

「亜衣ちゃん」

「もう会えないんだよ、寂しいよぉ。うぇ……えぇっ」


 涙をこぼす幼い少女の心の空白。

 ぽっかりと空いてしまった心の穴は埋められない。

 特に亜衣は引っ込み思案で友達も少なく、他人と遊ぶことも伊月以外にない子だ。

 暇さえあれば飼い猫とよく遊んでいた。

 狭い世界しか知らない子供にとって、飼い猫の死は相当ショックだった。

 頭を撫でて慰める伊月は亜衣に囁いた。


「レギオンは天国に行ったんだよ。保奈美さんがそう言ってた」

「そんなのウソだよ。天国なんてないもん」


 そして、亜衣は昔から現実主義で、夢物語を信じない子だった。

 逆に天国があると聞かされて信じてた伊月の方がショックを受ける。


「みんな、いつかはレギオンみたいにいなくなっちゃうのかな」

「それは……」

「お父さんやお母さんも? そんなの嫌だよ。私、ひとりっきりになっちゃう」


 孤独や寂しさ、出会いと別れを理解するにはその心は幼すぎた。


「伊月くんも、いつかは私の前からいなくなるの?」

「俺はいなくならないよ。ずっと亜衣ちゃんの傍にいるから」

「……ホントに?」


 それは決して安易な慰めでも何でもなく伊月の本心だった。


「ホントだよ。俺はレギオンみたいにいなくならないから安心して」

「……分かった。伊月くんを信じる」


 飼い猫を失った寂しさや空白。

 それらを埋めるように、亜衣は伊月に惹かれはじめた。

 傍にいる時間はそれまでよりも増え、気づけば隣にいるのが当然にもなっていた。

 だが、時を重ねごとに亜衣はあることに気づいた。


――伊月の存在が当たり前のように傍にいる。


 彼がいなくなったらと考える方が怖くなった。


――そっか。私は伊月の事が好きなのかも。


 いつしか好きだと言う気持ちに気づいた。

 毎日のように顔を合わせ、他愛のない事を話して、時には触れ合う。

 長い時間をかけて亜衣と伊月はかけがえのない関係を築き上げてきたのだ。





 気が付けば、夕方になっていた。

 ベッドの上でどうやら本を読んでいる間に眠ってしまったようだ。


「もうすぐ、伊月が帰ってくる時間だわ」


 時計を見て、彼女はきゅっと唇をかみしめた。


「朝は来てくれなかったよね」


 それがショックだったのを思い返す。

 ただの遅刻でこれなかったのならばしょうがない。

 亜衣が危惧しているのは自分への興味が薄れることだ。

 一度、面倒くさいと避けられたら、もう来てくれないかもしれない。

 そうなることが何よりも怖くて。


「引きこもり女なんて面倒くさいって思われたら……」


 想像するだけで怖い、と亜衣は顔色を曇らせる。


「もう私の相手なんてしてられない、とか」


 言わなければいいのにネカティブ思考が止められない。

 来なかった理由に不安を覚える。

 そもそも、亜衣が引きこもった理由は伊月に嫌われたくないからだ。

 彼の前での粗相、泣きじゃくって恥ずかしい姿を見られた事に対するショック。

 その気持ちは2週間たてばようやく、受け止められるほどには回復した。

 だが、現実を考えてみると亜衣は前へ進めないでいる。


「伊月に嫌われることが怖い」


 独り言を呟いて、さらに落ち込む。

 どうしようもなく不安なのだ。

 伊月はそんなことを気にする子ではないと信じている。

 だけども、信じていても、不安なものは不安なのである。

 ベッドの上で寝転がっていると、廊下を歩く物音がする。

 案の定、扉をノックする音と共にのんきな彼の声が聞こえた。


「おーい、俺だ。今日こそは話を聞いてもらうぞ」

「伊月。……なんで、今日の朝、来なかったの?」

「え? あ、いや、今日の朝は」

「昨日の帰りに朝に来るって言ったくせに。嘘つき」


――なんで、そんなに普通なのよ。


 亜衣はこんなにも悩んで、心を痛めていると言うのに。

 彼にとってはただ朝に来なかっただけかもしれない。

 それでも、亜衣にとっては不安で仕方のない一日だった。


――伊月が来てくれないことがこんなに嫌なんて思わなかった。


 自分の心の弱さを改めて痛感させられる。


「待っていても来なかったわ。伊月は嘘つきね」

「あ、亜衣、今日は起きるが遅くて遅刻しかけていたんだ。だから、その」

「……私との約束より、遅刻が大事なの?」

「ご、ごめん……そこまで重要な約束とは思わなくて」


 扉越しに反省の言葉を告げる。

 しばらくの沈黙ののち、伊月は本題を切り出してくる。


「心配しなくても、体育倉庫に水たまりを作ったのは俺とお前だけの秘密だ」

「水たまり言うなっ!?」


 亜衣は羞恥心を隠すように、近くにあるティッシュの箱を思わずペンで突き刺す。

 ザッシュ、ザッシュと不気味な音が部屋に響き渡る。


「え? な、何の音? 亜衣さん、それ、何の音!?」


 目に見えない恐怖、不吉な音に不安になる伊月だった。

 

「うるさい、黙れ、伊月の変態っ!」


 忘れたくても消えてはくれない。


――うぅ~、死にたい、消えてしまいたい。


 好きな子の前で漏らした事実が何よりも亜衣の心を深く傷つけているのだ。


「こほんっ。……他の子たちは黙ってもらえるように約束してる。ていうか、向こうからもこんな事態になって申し訳ないって謝罪もされてるし」


 鍵を閉めてしまった子たちは亜衣に対して罪悪感を抱いていた。


「だからさ、亜衣には早く学校に復帰して欲しいわけよ。お願いだ」

「それなら……伊月はどうなのよ」


 ものすごく小さな声で亜衣はそう呟いた。


――気持ち悪いって思われたら泣く。思いっきり泣く。


 ペンの突き刺さったティッシュケースを元の場所に戻しておく。


「え? なんか言ったか?」


 扉一枚を隔てていたせいか、伊月にはその言葉は届いていなかったようだ。


「……だから、伊月は、その……ああいうことをしてしまった私をどう思ってるのよ」


 勇気を出して、彼に本音を問いただした。


――伊月……信じて良いんだよね?


 昔、あの約束をしてくれた時から傍にい続けてくれた男の子。

 どんな時でも、伊月だけは裏切らないと信じたい――。


「亜衣の前だ、嘘偽りのない俺の本音で言えばいいんだよな」


 今はこの一枚の扉があってよかったと思う。

 顔が見えないからこそ、聞ける言葉もある。

 そして、彼は亜衣の言葉に答えた。


「……興奮した」

「…………………………は?」


――今、伊月は何と言った?


「いや、だからさぁ、正直な所、興奮したって言うのが本音っす。てへっ」


 どこか照れくさそうに伊月は言うのだ。


「泣きじゃくって困ったけど、必死に我慢してた亜衣はとんでもなく可愛かったし、むしろ、襲いそうになったし。だから、色っぽくてずっと興奮してました」

「こ、このぉ……欲情してるんじゃないっ、ど変態っ!」

「ほ、本音で言えって言ったじゃないか」

「うるさーい! バカ伊月、さっさと帰れっ!」


 変態発言をする伊月を家から追い出して亜衣は布団に顔をうずめていた。

 顔から火が出そうなほどに恥ずかしい。


「もうっ。そうだったわ。伊月はああいうエッチな変態だったのに。この2週間、悩みに悩み続けてた私ってバカじゃない。引きこもる必要なんてないじゃない」


 落ち込んだ気持ちがすっかりと消えて、心が晴れていく感じがする。


「あそこで興奮できるなんて相当の変態ね。最低だわっ」


――でも、アイツ、私の事、全然気持ち悪がってなんていなかったな。


 それが何よりも亜衣にとっては嬉しくもあったのだ。


「もうっ、ホントに伊月は……バカで変態なんだから」


 亜衣の口元にはわずかながらも笑みが浮かんでいたのだった――。

 

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