第7話:ただ素直じゃないだけ


 亜衣の家では2匹の猫を飼っている。

 母親である保奈美は子供の頃から猫好きで、今も猫を飼い続けていた。

 最近、生まれた2匹の子猫は亜衣が面倒を見ていた。


「シュバルツ、ヴァイス?」

「にゃー」

 

 猫専用の部屋で毛布に隠れる子猫たちを見つける。


「おはよう。ほら、エサだよ。ちゃんと食べてね」


 ドイツ語で黒と白を意味する言葉。

 黒猫はシュバルツ(メス)、白猫はヴァイス(オス)と名付けられている。


「どっちもすぐに大きくなるね。小さくて可愛いのは今だけかな」


 可愛いらしい姿に亜衣の口元が緩む。

 なお、このいかにも中二病的な名付け親は保奈美である。

 昔から名前のセンスだけがあっち系であり、歴代の猫たちもそれ系の名前だった。

 なお、この子猫たちの親猫はノワール。

 こちらはフランス語で黒を意味する名前である。

 名付け親である保奈美いわく、


『昔はヴァリアント(♀)とか、アレキサンダー(♀)とか強そうな名前にしてたの』


 ……本人のセンスはともかく、とても猫に付ける名前ではなかった。

 せめてもっと可愛い名前にしてあげて欲しいものである。

 そう考えれば、この子猫たちの名前はずいぶんとマシだった。


「シュバルツは綺麗な黒色になってきたわ」


 無邪気にあくびする黒猫の頭を撫でる。

 毛並みの良さが上品で、子猫ながらも気品を感じさせる。


「……逆にヴァイスは悪戯っ子だから、すぐ毛並みが崩れる」


 白猫の毛並みをブラシで整えながら亜衣は笑う。

 ブラシで撫でなれるのを嫌がり、逃げようとする子猫をつかむ。


「こら、大人しくしておくの。ふふっ」


 愛らしい猫たちの成長していく姿に心が和む。

 子猫たちの前では亜衣は自然体でいられる。

 学校のクラスメイト達の前では猫かぶりとも言える姿を見せている。

 他人に対して警戒心が強く、引っ込み思案で友達も多くはない。

 ただひとり、幼馴染の伊月だけが特別だった。


――伊月の前だけ私は自然体で接していられるの。


 心を許しているがゆえに、今回の事件は亜衣の心に大きな傷を負わせた。


「はぁ……」


 あの失態を伊月に見られた、それだけでもかなり凹んでいる。


「消せるものなら消してしまいたい」


 脳裏からあの悪夢は離れず、今もこうして落ち込む毎日だった。


「不登校になるまでもないと思うけども」


 自分でも今の状況がいいとは思っていない。

 だけども、また再び学校に通い始める気力もまだ回復していなかった。

 

「はぁ、伊月に嫌われたらどうすればいいわけ?」


 子猫を抱き上げながら亜衣はひとり言を呟く。


「にゃぁ?」


 不思議そうな顔をして子猫たちは亜衣の顔を覗き込んでいる。


「こんなことなら、もっと前に告白しておけばよかった」


 せめて今の関係が幼馴染ではなく恋人ならば。

 一時の恥も、ここまで彼女を傷つけなかったのかもしれない。

 恋人未満の幼馴染、その立ち位置こそが亜衣にとっての不安を大きくしている。

 頭の中で考えれば考えるほどに、後悔だけしかできなくて。


「……伊月」


 そっと胸を手で押さえながら、


「私はどうすればいいのか分からない」


 どうしようもなく、悩み苦しむ日々を過ごしていた。

 彼は毎日、亜衣を心配して部屋を訪れてくれる。

 部屋には通さず、扉越しの会話。

 扉にもたれながら、亜衣は彼と会話をしている。

 話題は学校での出来事で、いろんな話をしてくれる。


『今日は学校で意外な事があってさ。坂本君って知ってる?』

『メガネをかけたオタクっぽい子?』

『そう。あの子が田中さんってギャルっぽい子と付き合い始めた』

『……全然、合わなくない? 組み合わせが意外性すぎる』


 クラスで誰と誰が付き合ってるなんて、別に亜衣は興味がない。

 だが、こうして伊月と会話している時間には心地よさを感じる。


『そうだろ。でも、マジだって。何でも田中さんの方から告ったとか』

『坂本君とか、ああいうタイプの子を求めるタイプではないと思うの。どうして?』

『実はクラスメイト達で合コンしたらしいんだけど、そこで話が合ったとかでさ』

『へぇ、気に入ったんだ? 人を好きになるのに時間はかからないってことなのかな』


 好きになる理由さえあれば、人は簡単に相手を好きになる。

 それは逆もしかり、人を嫌いになるのも簡単なきっかけでしかない。

 伊月と亜衣は少し時間をかけすぎたのかもしれない。

 想いあう気持ちはあっても、言葉にするタイミングは難しい。


――素直になれない、素直になるのが苦手だ。


 自分の気持ちに素直になれ。

 周囲はそんな簡単に言うけどもそれができたら苦労はしない。


――伊月を好きだって、私には絶対に恥ずかしくて言えない。


 亜衣にとっては最後の一歩を踏み出すのがとても大変だった。

 ……それは伊月にとっても同じことを言えるのだけども。





 猫たちの世話を終えて、亜衣は自室に戻っていた。

 二階の窓の外を眺めながら伊月の家を眺める。


「そろそろ来るかな」


 毎日、伊月は彼女を誘いにやってきてくれる。


『学校に行こうぜ、亜衣』


 あいにくとその希望には応えられないけども亜衣は嬉しく感じていた。


『また明日、来るからさ』


 気持ちが落ち着いて来れば、伊月に向き合えるかもしれない。

 そうすれば、また学校に通えるようになる。

 少しずつ、時間をかけていけば、きっと……。

 そんな希望と期待を持ちながら彼が来るのを待つ。


「……遅いな」


 いつもならば、もう家に来てくれてもおかしくない時間帯だった。

 それなのに、伊月は姿を見せず。

 亜衣はふと、窓から外に視線を向けると、


「あっ」


 慌てた様子で伊月が家から出てきた。

 ちらっと亜衣の家を見るが、振り返ることなくそのまま走り去っていく。


「……伊月」


 伊月の後ろ姿を亜衣は見送ることしかできない。

 声をかける事もできず。


「今日は来てくれなかったな」


 ただ、その事実がとてつもなく寂しくて。

 胸が締め付けられるように痛んだ。





 しばらくして、朝食を食べるために、リビングに下りると、


「……ふふんっ♪」

 

 鼻歌交じりで機嫌よさそうに折り込みチラシをチェックする保奈美がいた。


「おはよ……」

「んー、おはよう。今日はスーパーの月一の大安売りセールの日なの。亜衣、学校サボる気なら付き合ってもらうから。お一人様、1つまでの品が多いのよ」

「いいけど。……そんなこと言っていいの?」


 認めてくれてるとはいえ、堂々とサボる宣言をするのはどうかと思う亜衣だった。

 とはいえ、保奈美も娘を心配していないワケではない。


「行きたいと思うのなら行けばいい。まだ行けないならしょうがない。だって、亜衣の人生だもの。私は親として見守るだけ。貴方の好きなように生きればいいわよ」

「……そう」

 

 亜衣は食パンを焼きながら、適当にサラダを作る。

 朝ご飯の支度は昔から自分でしている。

 料理上手な亜衣には簡単な作業だ。


「ホント、亜衣は母親の私に似ず育ったわよねぇ」

「そうですね」

「お姉ちゃんはお淑やかすぎるし、亜衣は我がままななのに、内弁慶で大人しい。あーあぁ、学生時代には“魔性の女”と呼ばれた小悪魔系美少女の私の遺伝子はどこに?」

「……そんなものを受け継いでなくて、私も姉さんもよかったと思う」


 亜衣の姉は上品でおっとりとした性格で、今は大学に通っている。

 姉妹ともに保奈美の魔性の小悪魔系属性の性格は受け継がず。


「大体、小悪魔系って私の柄じゃなさすぎるわ」

「学生時代は、よく私の手の平の上で男の子たちの心を弄んであげたものよ」

「それ、堂々と言うものじゃない」

「でもさぁ、そんな私が本気になったのがあんな堅物の真面目な人とは思わなかった。人を好きになるのって意外な事が多いわ」


 保奈美は笑いながらそう言った。

 亜衣の父親は区役所で働く公務員、真面目を絵にかいたような愚直な人だった。

 到底、保奈美とは相性が合わないと思いきや、意外なほどにうまくいっている。


「ねぇ、亜衣。大事なことを言うわよ」

「なに……?」

「……パンが焦げてるけど大丈夫? ボーっとしてると炭になっちゃうわ」

「そ、それを早く言って!?」


 気分の晴れない亜衣の心の内。

 どんなに悩んでいても、自分の中だけで答えは出るはずもなく。

 結局は恐れながらも、前に進むしかないのだ。

 その一歩を踏み出すことができれば、今の現状を打破できるのに――。

 

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