第30話:ふふっ。悪い女の人って誰のことかしら?
長いゴールデンウィークが終わり、また普通の日常が戻ってきた。
弘樹は授業を終えて、校門前で綺羅と待ち合わせていた。
「恋人と過ごす放課後。くぅっ、幸せ者だな」
彼女と付き合い始めてから2週間が経過して、すっかりとラブラブな関係だ。
「……もっと綺羅に甘えてもらいたいのが実情ではあるけども」
綺羅は人に懐かない猫のような存在だ。
付き合う距離感を間違えたらまた喧嘩してしまう。
そろそろ毛虫と対決する事になる葉桜を見上げていたら、
「――だーれだぁ?」
いきなり弘樹の視界を覆うように顔に手が触れられている。
その甘ったるい女性の声に弘樹は心底、ドキッとする。
その声は間違えるはずがない。
「……松島さん」
「正解。私でーす。久し振りだね、ひろ君」
手を離してくれたので、振り向くとそこに立っていたのは保奈美だった。
松島保奈美(まつしま ほなみ)。
凛花の友人であり、弘樹がかつて好きだった女性。
そして、弘樹の男心にトラウマレベルの致命傷を負わされたお方である。
セミロングの茶髪とスタイルのいい大きな胸が特徴の美人。
「こうして会うのは何ヶ月ぶりかな?」
だが、その魅惑の胸に騙されてほいほいと近付いたのが運のつき。
数ヶ月前、彼女に告白するも見事に玉砕。
これまで数々の男を惑わして弄んできた魔性の女だ。
弘樹も一時は女性不審に陥るくらいのダメージを受けたのだ。
「……お久しぶりです」
「ねぇ、なんで目線をあわせてくれないの? 照れてる?」
「違います」
もう騙されてはいけない、と覚悟を決めて弘樹は彼女に向き合った。
――とはいえ、やっぱり美人な雰囲気は変わらない。
妖艶と言ってもいい。
数々の男どもを篭絡させてきた美貌。
この魅力にかつての弘樹はいろんな意味でやられてしまった。
「最近、会う事もなかったからホントに久しぶり。たまには会いたいなぁ」
「……そうですか」
「うちの猫を飼ってくれる事になったんだよね。ありがとー。子猫の引き取り先を探してたの。ハイぺリオンは元気にしてる?」
「我が家の猫はアレキサンダーです」
――他にも変な名前をつけた猫がいるのですか。
中二病的なお名前を付けるのが好きなのは相変わらずのようだ。
「あー、そうだっけ。アレキサンダーだったのね。あの子、ものすごく人懐っこいでしょう。猫って警戒心が強い生き物なんだけども、あの子は別格だわ」
「分かります」
「多分、あの子が警戒するものなんてないんじゃないの?」
「確かにすごく人懐っこい子です」
「大事に可愛がってね。私と思って可愛がってくれたら嬉しい」
「あはは……そうさせてもらいます」
愛想笑いを返すが内心では、
――またトラウマレベルの心の傷を負う事になるので勘弁してくれ。
深い心の傷を負うのは人生でもうしたくない。
「他の猫達も皆、引き取ってもらえたんですか?」
「うんっ。すごく助かるよ。持つべきものは友人だね。赤ちゃんが生まれるのは良いんだけど、我が家では飼いきれないから困っていたの」
「それはよかったですね」
「一匹だけ残した子猫はレギオンって名前を付けたわ。やんちゃな子でね」
「どこぞの巨大ガメと戦う宿命ですか」
アレキサンダーの母であるヴァリアントは品のいい猫だった。
ただし、弘樹には一切懐いてくれなかった記憶がある。
猫は飼い主に似ると言う。
媚びるように見せかけてつれない所なんてホントにそっくりだ。
「話は変わるけども、ひろ君に恋人ができたって聞いたよ。ホント?」
――姉ちゃん、この人にその情報を与えて欲しくなかった。
すぐさま弘樹の表情がこわばる。
今日、近づいてきたのはこれが狙いか。
「えぇ、まぁ……後輩の子と付き合ってます」
「可愛い系? それともお嬢様系?」
「可愛い子ですよ。あんまり感情を表に出すタイプではない大人しい子です」
すると、保奈美は「ふーん」と興味ありげに呟く。
「今度、紹介してよ。ぜひとも会ってみたい」
「俺の恋人をからかうのならやめてください」
「えー。そんな事を疑われてるの? 単純な興味なのに、ひろ君、ひどい~」
――ええいっ、俺の首筋を指先で撫でようとしないでくれ。
もうその色っぽい仕草には騙されない。
さり気に胸元を強調するのも、視線誘導の策略だと分かっている。
――だ、騙されないぞ、俺は……しかし、魅力的な人だ。
痛い目を見ても、保奈美は美人だという印象は変わらない。
「これ以上、いたいけな男子の心を弄ばないでください」
「遊んでないよ。私はいつだって、遊びじゃない」
「どの口がそれを言いますか」
「私のこの口ですよ。うふふ」
艶っぽい唇。
真剣な眼差しと共にそっと彼女の手が弘樹の頬に触れる。
冷たい女の人の手の感触。
間近に近付く彼女の美しい顔。
「……ひろ君のことだって、私は遊びじゃなかったんだよ?」
甘く囁くその言葉に騙された、過去の想いを思い出す。
――思い出せ、あの男心を無残にもぶち壊されてしまった過去を、あの痛みを。
ここで誘惑に負けてはいけないとその手を振り払う。
弘樹には綺羅がいる。
保奈美に対して未練などないし、もう誘惑に負けたりしない。
「そうやってすぐ男の子をその気にさせるのもやめて下さい」
「あら、残念。ひろ君がすっかりとクールになっちゃった。前ならここで、私と遊んでくれたのに……面白くないよ、ひろ君?」
「俺は松島さんを楽しませるつもりはないんですよ」
「えー。どうして? 簡単にデレデレしてくれた純情少年はどこに?」
彼女に惹かれていた過去とは決別しなくてはいけない。
下手な浮気心は綺羅を不安にさせるのだ。
「そっか。もう私には興味がないんだね。年上だからって、ひどい」
「いえ、年上は関係なくて」
「私なんて年増だとか暴言吐きまくって年下に走ったのね。小学生相手に……」
「全然違います」
「ひろ君も女の子には若さしか求めないのね、ぐすっ」
わざとらしく涙をぬぐう仕草。
――絶対、嘘泣きですから。女性の涙には騙されないぞ。
嘘泣きでも女の子の涙はずるいから苦手だ。
「そんな事は一言も言ってないじゃないですか」
「昔の可愛いひろ君はどこに行っちゃったのかしら」
「悪い女の人に騙されて痛い目にあって、少し大人になっただけです」
「ふふっ。悪い女の人って誰のことかしら?」
「貴方の事ですよ、松島さん」
時間が経っても、忘れられない記憶はある。
弘樹は目の前にいるこの人が本気で好きだった時期があって。
その想いを踏みにじられた過去もある。
笑い話にしかならない今でも、心の傷は消えてなくなるわけではない。
「からかいがいのないひろ君はつまんない。ホント、残念」
肩をすくめて今度こそ、遊ぶのを諦めてくれたようだ。
保奈美はどこまで本気か分からない。
女性への怖さと言うべきか、底知れぬ物を感じさせられる。
――綺羅と出会っていなければ、また騙されていたかもしれないな。
何度、騙されたって美人には弱い。
男とはそういう生き物なのである。
「そう言えば、凛花が最近、好きな男の子ができたって聞いたんだけども?」
「同じお菓子作りの学校に通う中学生って聞いてます」
「中学生? あの凛花が……?」
「しかも、かなりの美少年だとか。そんな話を聞きましたけど」
弘樹はうっかりとしゃべってしまうと彼女はそちらに興味を抱いたのか。
「ふーん。凛花がねぇ。年下美少年に夢中なのかぁ。どんな子だろうなぁ」
「……松島さん?」
「今度、ぜひとも会いたいなぁ。親友としては会うべきでしょう」
――やべぇ。すまん、姉ちゃん。俺は迂闊な事をしゃべったかもしれない。
迂闊な言葉で姉の恋路を邪魔したかもしれない。
「凛花が恋なんて、そんな話、あんまり聞いた事ないからびっくりしたわ」
「俺も同感です」
「ふふっ。凛花の恋がうまくいくと良いねぇ」
――貴方が邪魔しなければうまくいくんじゃないですかね?
今にも邪魔しそうな雰囲気に弘樹はそんな事を思った。
彼女は結局、男心を弄ぶ事が趣味みたいな人なのだから。
「……じゃ、ひろ君。私、そろそろ行くね」
「えぇ。さよなら、松島さん」
「うんっ。またね」
彼女は弘樹の身体にいきなりぎゅっと抱きしめる仕草をして見せる。
ふわりと香る、色気のある美人の匂い。
「抱き心地だけならひろ君はすごくいいんだけどなぁ」
突然の彼女の行動の真意が分からず戸惑う。
「な、なにを……?」
「さよならのハグ。じゃ、今度こそバイバイ~」
身体を離すと彼女はそのまま立ち去っていく。
その後姿を眺めながら弘樹はため息しかつけなかった。
あ然とする弘樹は「松島さんのやることだし」と諦める。
彼女の行動にいちいち追及してもしょうがないのだ。
どうせ、また弘樹の男心を弄び、反応を楽しんでいただけに違いない。
「ホント、あの人には勝てそうにないや」
だが、弘樹は彼女のとった行動の意味を次の瞬間に知ることになる。
何気なく降りむいた弘樹の真後ろにいたのは。
「……ぅっ……」
こちらに向けて憎悪と殺意と敵意を抱いたような怖い顔をする女の子。
「……え? あ、あの、綺羅さん?」
綺羅が一部始終をずっと見ていた。
「いつのまに。いや、いつからそこに?」
完全にアウトだった。
今の光景を見られていたとしても、都合のいい言い訳が思いつかない。
「――ヒロ先輩。今の人は誰なの?」
弘樹を睨みつける綺羅がものすごく恐ろしい顔をしている。
これはまずい。
――や、やばいんじゃないですか、これ?
過去の未練を断ち切ったつもりが、とんでもない展開を巻き起こすことに。
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