第15話:先輩の寝顔、いつか絶対に見たい


 午後3時を過ぎた頃、凜花が扉をノックしてきた。

 

「弘樹、綺羅ちゃん。ティータイムにしよか?」

「お、おぅ」

「入るでー。……あん?」

 

 扉を開けた凛花は、いぶかしげな目つきで弘樹に問う。

 

「……えっと、弘樹。アンタ、何してるん?」

「何をしているのかと問うのか、ならば答えましょう。何をしてるんでしょうね」

 

 先程、疑惑の本を見つけられた弘樹は部屋で正座していた。

 その横で綺羅からは冷たい視線を向けられ続けている。

 

『私が良いっていうまで正座でもしていて』

 

 綺羅の命令、許しをこうためには仕方なくするしかなかったのである。

 

「恋人を家に誘って何してるんや。悟りでもひらいたか?」

「反省タイムってやつらしいです」

「何の反省や? 手でも出そうとしたん?」

「……それは聞かないでください」

 

 好きで足がしびれるまで正座してるわけではない。

 綺羅に命じられて、こうして正座を続けて早30分。

 そろそろ、両足が痺れて限界なのに容赦なく「ダメ」と継続を命じる。


「綺羅はドSだぜ。この子は怒らせたらひどい目にあう、と思い知らされてます」

「自業自得でしょう?」

「そうっすね」


 ご機嫌ななめのままだった。

 

「綺羅ちゃん、ケーキを作ったんやけど食べる?」

「甘いものは好きです」

「そっか。そりゃ、よかったわ」

「姉ちゃんの作るケーキはうまいぞ。お菓子作りは姉ちゃんの趣味だからな」

 

 ようやく正座から解放されて立ち上がる。

 

「何を勝手に立とうとしてるの?」

「もう許してくれよ!? さすがにしびれ切って辛すぎる」

「しょうがない。許可する」

「やったぜ」

「……でも、先輩の事、許したわけじゃないから」

 

 ぼそっと呟く綺羅に弘樹は「すみませんでした」と嘆いた。

 

――エロ本を持っていただけなのに。


 年頃の男子ならばしょうがないことなのだ。

 むしろ一冊も持っていない方が怪しまれる。


――そこまで胸の大きさがコンプレックスだったんだろうか。


 彼としては綺羅くらいでも十分なのに。

 女の子の恨みは怖いと実感する弘樹であった。

 

 

 

 

 リビングのテーブルの上には出来たてのケーキが置かれている。

 美味しそうなチョコレートケーキ。

 見た目だけでなく味も当然美味しく、お店でも出せそうなレベルである。

 

「すごい。全部、手作りなんですか?」

「そうやで。こうしてケーキとか作ってる時が一番楽しい時間やわ」

「……こー見えても姉上は料理だけはかなりすごい腕前なのだ」

「先輩のお弁当も作ってくれてるんだよね」

「その辺はホントに助かってるよ」

 

 ケーキの味はいつもと同じく美味い。

 綺羅は小さくフォークで切りながら食べる。

 一口食べると「あっ」と顔がほころぶ。

 甘いチョコレートが口に広がって溶けていく。


「どうや、綺羅ちゃん。美味しい?」

「ものすごく甘くて美味しいです。まるでお店のケーキみたい」

「そっか。そう言ってもらえると嬉しいわぁ」

 

 口は悪いのに料理だけは上手い凜花である。

 弘樹は甘すぎると思いつつも、コーヒーと合うので嫌いな味ではない。

 

「趣味の範囲やけども、料理学校にも行ってるから」

「凛花さん。将来は料理人とかの夢があるんですか?」

「そこまでは今は考えてへんけど。料理するのは好きやからなぁ」

「プロとかそっち方向に進めばいいのに。向いてると思うぜ?」

「そうやなぁ。お店を出す程度まで行ける自信がついたらやるかもなぁ」

 

 他愛のない雑談をしていると、リビングに置いてあるピアノに気づく。

 

「あのピアノは?」

「昔、うちがピアノを弾いてた頃のものやね。もう何年も弾いてないわ」

「……そういや、姉ちゃんはピアノを習ってた時期もあったんだよな」

「まだ大阪にいた頃や。あっちにいた時、近くに教室があったんよ」

「すごい懐かしいな」

「ほんまやねぇ。頑張って持ってきたけど、今さら弾く気にはなれへんな」

 

 このピアノは電子ピアノだ。

 電子ピアノは値段も安く、調律が不要なため初心者向けのピアノと言える。

 凛花も子供時代はよく弾いてたいたが結局、今ではお飾りの家具になっていた。

 こっちに持ってきてからは満足に弾いていない。

 

「綺羅ちゃんはピアノが弾けるん?」

「……少しだけなら。私も昔に習っていたので」

「へぇ、そうなんだ? 綺羅、ちょっと弾いてみてくれよ」

「いいよ。実際に弾くのは何ヵ月ぶりだけども」

 

 弘樹が催促すると嫌な顔をせずに彼女はピアノを触り始める。

 電源をいれると適当に鍵盤を押して音を確認する。


「うん。ちゃんと今でも使えそう」


 そして、彼女はゆっくりとピアノを弾き始めた。


「譜面なしでもいけるん?」

「お気に入りの曲なら大丈夫です」


 すぐに綺麗な音色がピアノから流れる。

 落ち着く、静かなメロディ。

 リビングにピアノの旋律が響き渡る。

 その音色を聞きながら感嘆とした声を上げたのは凛花だった。

 

「ほんま、うまいもんやな。ノクターンか」

「のくたーん?」

「ショパンのノクターン第2番やね。いい音をさせてるやないの」

「うまいのか?」

「アンタに音楽の良しあしは分からんやろうけど、中々の腕前やで」

 

 自由気ままにピアノを奏でる綺羅は楽しそうだ。

 しばらく聞き続けてると眠気が襲ってくる。

 ピアノの音色ってのは睡眠効果があるんじゃないか、と弘樹は感じた。

 

「……」

 

 心地よい音色にこのまま眠ってしまいたくなる。

 

「ていっ」

 

 だが、そんな弘樹の眠気は姉に頭を叩かれて目が覚めた。

 

「姉ちゃん。痛いじゃないか」

「くぉら。綺羅ちゃんが弾いてるのにアンタが寝るな」

「すみません」

「……まったく、人が弾いてる時に寝るのは失礼やで」


 綺羅はと言えば、こちらに振り返る事もなくピアノに集中している。

 

「集中力がよく続くなぁ」

「あれくらいピアノを弾く人間には普通の事やよ」

「姉ちゃんにはアレがなかったからダメだったんだな」

「そーやなぁ。否定はしないでおくけども、アンタはあとでお仕置きや」

「なんでっ!?」

 

 姉弟関係の理不尽なパワーバランスに逆らえるはずもない。

 最後まで弾き終わると、ピアノの鍵盤から指を離した。

 

「どうだった?」

「すごかった。上手だったよ、綺羅」

「ほんま驚いたわ。綺羅ちゃん、やるやないの」

 

 那美がピアノが好きで、姉妹揃って小さい頃から習っていた。

 綺羅にとって音楽は常に身近にあったのだ。


「ええ音色やったわ。今でも弾いたりしてるん?」

「本格的にではなく、時々弾いて楽しむくらいです」

「それでも、譜面なしでこれくらい弾けるんやったらすごいなぁ」

 

 姉ちゃんは「もう一度紅茶を淹れてくるわ」と言ってキッチンに向かう。

 ピアノを閉じた綺羅の頭を弘樹は撫でた。

 

「んっ」

 

 くすぐったそうに大人しく彼女は受け入れる。

 この程度のスキンシップは彼らの中で当たり前になりつつあった。

 

「綺麗な音だったよ。綺羅がこんなにピアノが上手だったなんて知らなかった」

「……別に。この程度は上手ってほどじゃない」

「そうかな? 綺羅の弾くピアノはいいと思うよ」


 とても楽しそうに弾くので彼もすごく惹かれた。


「ピアノの腕前だけはお姉ちゃんに負けてるけどね」

「お姉さんもピアノをやってたんだ」

「うん。あの人は性格が悪い癖に要領だけは良いから」

「姉には勝てぬというやつか。俺もそうだぜ」

「凛花さんにはヒロ先輩って一生勝てそうにないね」

 

 言葉に遠慮がなくて、弘樹は顔を引きつらせるだけだった。

 ふわぁ、と小さくあくびをする。

 

「ピアノって聞いてると眠くなるよな」

「穏やかな演奏は人をリラックスさせる効果があるから」

「ついうっかりと寝ちゃいそうになった。それだけ音色が心地よかったんだ」

「……先輩の寝顔は見たことないから見てみたいかも」

「俺は綺羅の寝顔を何度も見てるけどな」

 

 弘樹の言葉に顔を赤らめて「ずるい」と膨れっ面をする。


「するい?」

「私は先輩の寝顔を見たことないもん」

「野郎の寝顔など可愛くもなんともないぜ」

「……でも、先輩の寝顔、いつか絶対に見たい」

 

 なんて宣言されてしまった弘樹は照れくさくなってひとりにやけてしまった。

 

「その意味、分かって言ってる?」

「なんのこと?」

「何でもないよ。ホント、無自覚とはいえ可愛いやつだよな。綺羅ってさ」


 無垢な恋人の何気ない一言が自分の心を躍らせるのだった。

 

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