ただ強くあれ*

 目を開けると、空が映る。


 垂れ下がった腕が片方だけ見えた。

 血塗れのそれが自分のものだと認識するが、感覚が遠くてよく分からない。


 右半身は麻痺したかのように不自然に動かなかった。

 焼かれるような熱さだけが、ある。


 エルフィはこの感覚を知っていた。

 三年前、城で刻まれた傷跡の数だけ、知っていた。

 


 視界の下を流れていく森や雲を見た、飛行しているんだな、と悟る。

 何かに運ばれているのだ、何にだろう。

 だれに、だろう。


 緩慢な思考は雲に落とされた竜の影と、散るように風に流れていく血を見て覚醒する。


「ニール」


 叫ぶくらいの気持ちだったのに、発された声音は掠れて風に消えていってしまう。

 けれど、その聖竜だけは彼女の声を聞き漏らさない。


 応えるように翼が大きく空を切った。

 ぼろぼろになった銀の鱗が空に落ち、光を反射して虹を描く。


 竜士は何があっても死なない。

 だからエルフィは実を言うと、自分の体のことはどうでもよかった。


 彼が無事で、ちゃんと空も飛べていることに安堵する。


 まるで他人事のように痛みを感じている、昔から得意なのだ、痛みと怖さを脇に置いて考えないようにすることが。


 最愛の存在の無事を確認したエルフィは、もう一度意識を落とした。




 ***



 夢を見た。

 すごく深い場所に沈んでいく夢。


 水のなかか、泥のなかか、わからない、

 わからないままに沈んでいく。


 引きずり込まれるように、重い体が沈んで、何かに飲み込まれていく。


 声が聞こえる。


 『竜士になるのは人間をやめること』

 『繰り返される聖竜の転生に付き合い続ける存在』

 『長い命に、寄り添う存在』


 この心臓はこれから先、何百年と脈打ち続ける。


 それを、怖いとは思わなかった。

 望んだのは自分自身だから。


 未来永劫を彼に寄り添うと決めた。

 暗闇のなかで垣間見た銀の光を、もう二度と見失わないように。


 重い体を動かして、水面に揺れる光に手を伸ばし、わたしは──。


 『エルフィ、忘れないでね。

  あなたは特別なんだから』





 ***




 体に痛みはない。


 目に飛び込んできた天井は見なれたもので、自分の部屋であると分かる。

 此処は皆と暮らす聖域だ、とエルフィは思考した。


「戻ってきた」


 呟くと喉が震える感覚、目を瞬かせ、体を預けていた寝台から体を起こす。


 恐らくシャーナが手当てをしてくれたのだろう、血の滲んだ包帯の下は、もう傷は塞がっている、竜士が持つ治癒能力だ。


 寝台の脇にある机には外套と、銀と黒の短剣が並べて置かれていた。


 畳まれた外套を、左腕だけで引っ張って広げて見ると、右腕の肘から下の部分がばっさりとなくなっている。

 神秘でもなければ殺意を通さないはずの盾、その無残な有様は、エルフィの右腕が神秘に相当する何かに断ち切られたのだと教えていた。


 エルフィは自分の右半身に目を落とした。

 あるべきはずの右腕の肘から下は無い、赤黒くなった包帯が巻かれているだけ。

 もう無い腕なのにそこにあるような感覚がする、気持ち悪い。


 現状を理解しながら、エルフィは思い出していた。

 あの街の惨状、右腕を持ち去った少女のことと、血塗れの邪竜。


 そして、叩き付けられる銀翼の姿。


「ニール」


 強く、求めるように呟いてエルフィは寝台から降りた。

 ふらつきながら部屋を出る。

 微かに感じる気配だけを頼りに足を動かした。




 ***




 最愛の存在が目覚めたことに、その聖竜は敏感に気付いた。


 微睡みに任せていた頭を起こし、軽く顎を開く。

 黒曜石のような瞳で、目の前に広がるを見た。


 大きく開けた草原の上、根を張る大木の下で翼をたたみ体を横たえていた聖竜は、血で汚れた銀の鱗と、投げ出した四肢の先で折れた爪が未だ再生していないのを知る。


 首に走った傷は塞がり切っておらず、動くと血が垂れて止まらない。


 息を吐いて大気を震わせ、低く唸りながら身を起こした。


 脳裏に浮かぶのはあの邪竜の姿と、幼い少女の形をした化け物のこと。

 そして、絶対的な再生能力を備えた竜士となったはずである彼女の欠損した腕のこと。


 邪竜と少女は強い力で繋がれていた、最初は確かに互角だったはずの存在が、牙を剥くほど力を増したのをニールは思い出す。


 言うなれば、戦いの中での進化。

 邪竜を従える少女の姿をした怪物なんて、生きてきて初めてニールは遭遇した。


 あの邪竜に与えられた傷は塞がりだしてはいるものの完治には遠い。

 致命傷でも一度休息を取ればあらかた治る聖竜にとってこれは異常だ。

 そして竜士である彼女の腕が欠損したままなのも、また異常。


 (これは少し、堪えるなぁ)


 頭のなかで呟き、もたげそうになる頭を起こし直したのは、草を踏みこちらに駆け寄る彼女の存在を認めたからだった。


「ニールっ!」


 叫ぶような呼び声の方に顔を向ければ、海色の髪が風に流れている。

 今までより更に華奢になった体が、ニールの元に飛び込んできた。


 血に汚れることを厭いもせず、血の滲む竜の鱗に手を触れて、藍色の瞳を涙に濡らしたエルフィはニールのことを見上げる。


「ニール……」


 確かめるように名を呼ばれると喉が鳴る。

 欠損した右腕に痩せた体、痛々しく弱そうな気配。

 出会った頃のことを思い起こさせるエルフィの頰に、ニールは顎をあてた。


「エルフィ」


 名を呼び返せば、エルフィは左腕を持ち上げて顎に添えさせてくる。

 抱き締めたいと思っても、この巨躯では難しい。

 だが人型になるにはこの傷では少し難しく、もどかしい。


「傷が……」

「再生自体はしている、治りが遅いだけだ」


 労わるような左手が鱗の上を滑った、血の臭いが酷いだろうに、エルフィはニールから離れようとしない。


「あの邪竜には命を呪う力があった」

「はい」


 顔を伏せたエルフィの頬を、加減に気をつけながらニールは舐めた。


「傷を増やしてしまって、すまない」

「いいえ、自分のせいですから」


 謝罪の言葉を微笑みで遮りながら、顔を上げた彼女は、ニールの顎に口付けをする。

 獣の吐息が白い喉にかかる。


「次は倒す、でしょう?

 ゆっくり休んで傷を治しましょうね」


 ニールが頷けばエルフィは凛とした目になって、弱々しい気配が遠のく。

 彼女はこのまま更に強くなっていくのだろうか。

 負けてなどいられない。

 あなたが無事でよかった──そう呟く声が聞こえた。






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旦那は竜で嫁、竜士 みなしろゆう @Otosakiaki

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