第2話 友達なんかじゃない
そろそろ、店先の電灯をつけなければならない時間だ。わたしは香ばしいパンのにおいに鼻をひくつかせながら、焼きたてのパンを店に並べる。
奥の厨房から、店主ご夫婦が次々とパンを焼き上げてくる。食パンにフランスパン、色とりどりの宝石みたいな菓子パンたち。それらを抑えて一番人気なのは、甘めのルーが口のなかを幸せにしてくれるカレーパンだ。
このパン屋の名物カレーパンは、わたしの家族にも大人気で、おみやげに持って帰ると喜ばれるほどだ。ここの店主さんとわたしのお父さんは長年の友達で、わたしがここでアルバイトをしているのも、そのつてだった。
焼きたてパンの乗ったトレイを持って店に現れた店主さんは、パンを並べているわたしを見て、ふさふさとした太い眉毛を下げた。
「いつもありがとうね、セイラちゃん。助かるよ」
「いえ、いつもお世話になってますから!」
店主さんが声をかけてくれたので、わたしはあわてて言った。
店主さんは我が家の困窮ぐあいを知っているので、シフトの調整も嫌な顔ひとつしない。おかげですごく楽に働かせてもらっているので、お礼を言うのはこちらのほうだった。
電灯をつけようとレジから身を乗り出すと、ドアベルが涼しげな音を立ててカラカラと鳴った。ふたつの学ラン姿が目に映る。わたしの通う高校の制服だ。その上についているふたつの顔に、わたしは驚いた。
ひとつめの顔は、特に驚くほどのものでもなかった。我が家の隣に住んでいて、同じクラスでもある、幼馴染みの
お隣さん同士で、わたしは竜司の家に預けられることがたびたびあった。同い年の竜司とわたしは自然な流れで仲良くなり、まるで本当のきょうだいのように育った。双子の弟と妹が産まれてからは、二人の面倒も見てくれる。我が家にとって救世主ともいえる存在だ。このパン屋にもたびたび来ていて、大食いの竜司はいつも店主さんが驚くほど大量のパンを買って帰る。
しかし、問題はもうひとつの顔だった。ふたつめの顔に、わたしは目を丸くして驚いた。
何を隠そう、あの
制服をだらしなく着崩している竜司と比べ、学ランの詰め襟をきちんと止めているのは今どき珍しい。髪もさっぱりと整えられ、制服もシワひとつなく、革靴もぴかぴか。そのお坊ちゃん然とした出で立ちに、ちょっとの隙も見当たらない。あいかわらず澄ました顔がムカついてくる。
――っていうか、こいついつも学校の行き帰りにお付きがついてなかったっけ?
こいつには普段、ドラマか映画かと思うような黒服のお付きがついているのだ。その疑問を解消するべく、わたしはレジカウンター越しに竜司の耳をつかんで、引き寄せた。
「いでで! なにすんだよセイラ!」
「竜司、あなた、これどういうこと!?」
竜司を問い詰めるかたわらで、御影がぴくりと眉を吊り上げた。「とりあえずは耳ひっぱるのやめてください」と懇願されたので、わたしはしぶしぶ竜司の耳を解放した。いてて、と赤くなった耳を大げさに押さえながら、竜司は話し始めた。
「どういうことって言ったってなー。買い食い」
「買い食いって」
「こいつ、今まで買い食いしたことないみたいでさ。「買い食いとは何だ?」とか言っちゃうの。いくらお坊ちゃんだからって買い食いしたことないとかありえなくね? マンガかよ」
話が脱線しそうになるのは、おしゃべりな竜司の悪い癖だ。にらみつけると、話が元に戻った。
「っていうか、あなたたち交流あったの」
「うん。御影おもしろいやつじゃん? でさ、オレが買い食い教えてやるっつってさ。連れてきた。ここのパンうめーし」
「俺は無理やり連れてこられただけだ。お付きの者も返してしまったし、両親にどう説明すれば……」
珍しくグチグチと呟いている御影に、わたしはほんのちょっとだけ同情した。ほんとうにちょっとだけだ。なぜなら、昔から竜司は人の話を聞かないところがあるからだ。わたしもそれで何度泣かされたか。
がやがやと賑やかになってきた店内に、ふと新たな香りが加わった。甘いけどスパイシーなにおい。においのするほうを見ると、店主さんがニコニコしながら、店自慢のカレーパンを手にして立っていた。
「おお、竜司くんいらっしゃい。そっちは……お友達かい?」
店主さんの無邪気な問いかけに、御影は少しの沈黙のあと、「……はい」と返事をした。さすがに店主さんの前で友達じゃないとは言えないだろう。
「おじさん、買い食いしに来ました!」
「わはは。竜司くんはいっぱい買ってくれるから見ていて気持ちいいけど、お小遣いは大事にね」
「大丈夫っす! なくなったらまたバイトするんで! あ、これカレーパンじゃないっすか! うめえんだよなあこれ。ほら、御影も食え」
「おい小谷、お代を払ってから食べろ! それに俺は……」
カレーパンにつかみかからんばかりの竜司を止めながら、御影はめずらしく焦っている。こんな様子の御影を見たことがなかった。竜司のペースに乗せられているさまは、ちょっとだけいい気味だ。
店主さんは大笑いしながら、レジカウンターから包装用の用紙を取り出して、パンを包むと御影に差し出した。
「さあ、食べていいよ」
「ですがお代は……」
「今回だけはいらないよ。竜司くんとセイラちゃんのお友達にサービスだ」
店主のご厚意を、無下にはできないらしかった。御影はおそるおそる、差し出されたパンを受け取ると、一口かじった。
「……おいしい、です」
御影の表情に嘘はなかった。お坊ちゃんの舌をもうならせるカレーパンは、静かに御影の心を打ったらしかった。
「だろー? うまいだろー?」
「婆やにも食べさせてやりたい」
「婆やっておま」
やっぱりこいつはお坊ちゃんだ。普通の高校生が婆やとはいわない。
「うちに古くから仕えてくれているセツだ。何かおかしいか?」
「いやおかしいとかじゃなくて……まあいいや」
「庶民にはわからない話よ」
「同じ庶民どうし仲良くしようぜセイラー」
「ちょっと、一緒にしないでよ竜司!」
バイト中であるにも関わらず、馴れ馴れしく寄ってくる竜司の頭を叩く。ぎりぎりで避けた竜司をまたわたしの拳が追う。そんな攻防を繰り返していると、店主さんは大笑いし、御影は妙なトーンの咳払いをした。
「その……君たちはそういう関係なのか?」
御影の言葉に、その場の時間が止まった。そういう関係と言われて、どんな関係よ、と思ったのはすぐだった。御影のいう『そういう関係』という言葉の意味に思い当たったとき、わたしと竜司は即座に「いや、それはない」「ないな」と言い放った。
わたしと竜司はどこまで行っても幼馴染みで、お隣さん以外の何かになることはない。むしろ昔から一緒に育ってきたので、それ以上の関係など考えたこともなかったし、正直気持ち悪くも感じる。
「なんでそんな話になったんだ?」
「いや、名前で呼び合っているから」
「下々の者は仲良いと名前で呼び合いますのよ。御影さん」
「その言い方はやめろ小谷。……俺の家では、両親かセツくらいしか俺を名前で呼ばない」
それは何だか息苦しそうな家だ。そもそもこいつ、友達いなかったのだろうか? それを正直に口にしてしまったあと、少しだけ後悔した。
「……俺に友達はいない」
それに、御影の闇を見たような気がした。
「悲しいこと言うなよ御影ー。オレたちもう友達だろー?」
馴れ馴れしく肩を組む竜司に、御影は「離れろ」と怒っていたが、わたしは声を出せなかった。わたしとこいつは友達なんかじゃない。では、わたしとやつは何なんだろう。そんな疑問を突き詰めていくと、わけがわからなくなった。混乱して顔が赤くなっていく。それに気づかない竜司が、わたしに水を向けてくる。
「お、否定しないってことはセイラも友達だよな。なー?」
真っ赤になっているわたしに気づいたのか、そう言った竜司の顔はまさに「やっちまった」感に溢れていた。こいつ、バイト終わったらマジで殺す。わたしはどうにかこうにか、言葉を絞り出した。
「あ、あなたがなりたいっていうなら? なってあげてもいいわよ」
「そんな態度の友人は御免こうむる」
せっかくのわたしの申し出をすげなく断る御影。そんなやつの顔も心なしか赤い気がする。なんでわたしたち、こんな雰囲気になってるんだろう。ちょっと気まずい。
それを見ていた竜司が肩をすくめる。竜司のくせに、わかったようなセリフを残していく。
「お前らってさ……いや、まあいいや。とりあえずおじさん、カレーパン五個!」
「あなた。カレーパン追加で出来ましたよ」
焼き場から店主の奥さんが顔を出し、カレーパンのたくさん乗ったトレイを渡してくれる。店主さんは笑顔で受け取りながら、「いやあ、若いって素敵だね」と感慨深く言った。それ、どういうことですか!?
「いやー、今日も買った買った」
「君の場合は買いすぎだろう」
「えー、お前は二個しか買ってないじゃん」
「俺と婆やのぶんで十分だ」
そんなやりとりを繰り広げながら、御影と竜司は並んで店の入り口をくぐる。入ってきたときと同様ドアベルがカラカラと鳴り響く。外はもう薄暗くて、わたしは電灯をつけるために二人と外へ出た。
さっきから考えていることが頭の中をぐるぐるしている。わたしと竜司は幼馴染みでお隣さん。では、御影は?
「……また来る」
御影が、ふと言った。わたしははっと顔を上げて、御影を見る。
「せいぜい売り上げに貢献してよね、み……み、御影」
なぜかどもってしまった。恥ずかしい。けれど御影はバカにしなかった。
「ああ」
御影が返事をした瞬間、突然、すごいスピードで車が止まった。これ一台で家が買えるんじゃないかってぐらいの、黒塗りのセダンだった。御影は車を見るなり大きなため息をついた。車から降りてきたのは、黒ずくめの男と、着物をばっちりと着こなした老婆だった。そのたたずまいは、若い頃さぞ美人だったのであろう風格があり、わたしと竜司はたじろいだ。その老婆が御影の言っていた婆やなのだろうと、わたしたちはすぐに当たりをつけた。
「まあまあ、十九郎さま。お付きのものを帰してお出かけになったと聞いて心配したのですよ。帰りましょう」
「小さな子供でもあるまいし、心配するなと言ったのに……」
呆れた様子で額に手を当てる御影。やつは振り向くと、一気にまくし立てた。
「俺は帰る。小谷、ひとりで帰れよ」
「あ、おう」
「そして、仁保」
「な、なによ」
「店主にまた来ると伝えてくれ」
優しい表情と、声色は不意打ちだった。
固まったわたしに気づかないまま、御影は婆やの案内で車に乗り込むと、そのまま走り去っていってしまった。あとに残された竜司とわたしは、嵐のような展開に黙るしかなかった。
「なんつーか、あんな顔もすんだな、御影」
「うん……」
ぼうっと突っ立っているわたしに「じゃあ、帰るわ」と声をかけて、竜司も宵闇に溶けるように消えていった。竜司の手に握られたビニール袋からは、甘いカレーのにおいがした。
わたしは店先の灯りをつけた。結局、名前では呼べなかったと、少しの後悔を残して、わたしの夜は更けていく。
群青とスニーカー 葛井ルキ @kuzui_ruki
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