群青とスニーカー

葛井ルキ

第1話 病室と子供


 オレンジ色の夕日が差し込んでくる午後だった。わたしは病院備え付けのモップを片手に、汗みずくになりながらも掃除に励んでいた。

 わたしの名前は仁保セイラにほせいら。普通……とは、あまりいえないだろう家庭の生まれだ。このキラキラした「セイラ」という名前は、お父さんがつけてくれたものだ。わたしのおばあちゃんと同じ名前らしい。

 我が家は父子家庭で、しかも小学生になる双子の弟と妹がいる。とうぜん家計は火の車で、お父さんは遅くまで家を空けている。さらに、双子の弟妹はまだ一人で家事もできない。そんなわけで、わたしは休日を返上していくつものアルバイトを掛け持ちしているというわけだ。

 清掃作業は、とにかく体力仕事だ。室内の清掃にシーツ換え、さらにトイレの清掃もあるし、道に迷った患者さんの相手もしないといけない。

 ひとくちに清掃と言っても、意外と仕事は多いのだ。落ちない靴のあとをごしごしと擦る。腰が痛くなってきたので、顔をあげて伸びをしたときだった。

 フロアの片隅で、小さな歓声が上がった。小学生くらいの小さな子供たちだ。

 ちょうど、わたしの弟と妹ぐらいの年頃だ。微笑ましく見ていると、輪の中心にいる人物の姿に、たっぷり三秒ほど経ってから気づいた――まさかあいつは。

 思わず、女の子らしくない「げっ」という言葉が口をついて出てしまう。輪の中心にいたのは、何を隠そう、わたしの同級生にして天敵である、御影十九郎みかげとうくろうその人だったからだ。わたしが一番会いたくない人物だ。

 その性格は、一言で言えば猫被りだ。見た目と表面上の態度だけは、良家の子息とでもいうふうな気品のあるお坊ちゃまなのだが、一皮剥けば、その下には辛辣な皮肉屋の顔しかない。

 ひょんなことから奴の裏の顔を知ってしまったわたしは、ことあるごとに彼から皮肉の嵐を受けている。何が一番残念かって、わたしと彼は席が隣同士なのだ。

 例えば、わたしが授業で盛大に答えを間違えたときは、小声で「なかなかの興味深い回答だ」と心底小馬鹿にした表情で告げてくる。

 バレーの授業で顔面レシーブをきめてしまったときの言葉は、労りの言葉でもなんでもなく、「いいディフェンスだった」とからかってくる。そのたびにわたしは抗議の声をあげるのだが、言い負かされている始末だ。

 そんな底意地の悪い御影と子供たちの組み合わせ。にわかには信じがたい光景だ。それもそのはず、いつもわたしの前では仏頂面を晒している御影が、子供たちの前ではキラキラさせた笑顔を浮かべているからだ。

 病院に備え付けの絵本を持ちながら、肩によじ登ってくる子供をあやしているその様子。いつものわたしが知っているやつではなかった。

 その笑顔は、なんというか、わたしの弟と妹が浮かべるような、屈託のないものだった。思わずじっと見てしまう。

「そこに突っ立ってないで、こっちに来たらどうだ?」

わたしは驚いてモップを盛大に倒してしまった。柄の固い部分が床に触れて、甲高い音を立てる。カラカラと大きな音に、いくつもの視線が一斉に振り向く。

「……君は本当に間抜けだな」

 やれやれと肩をすくめられて、わたしはやつのいつもの皮肉にイラっときた。こいつ、やっぱりむかつく。言い返そうと息を吸ったが、途中でやめた。子供たちのつぶらな瞳がこちらを見ている。さすがに衆人環視の前で言い返す度胸はわたしにはない。

 ぐっと息をこらえ、わたしは言われるままに御影へ近づこうとした。しかし進めなかった。小さな子供が、服の袖を引いていたからだ。

「この人、お兄ちゃんのかのじょ?」

 とんでもないことを言う子だ。あわてて否定しようとしたわたしをしりめに、御影は皮肉っぽい笑みを浮かべて、「同級生だ」と優しく言った。

「どうきゅうせい? 友達のこと?」

「少し違うが……まあ、そんなものだろう」

勝手に友達扱いするとは、何の嫌がらせだろう。けれど、小さな子供たちの前だ。いつものように大声を張り上げることなんてできない。それが不満となって胸の内に渦巻いた。

「……仁保」

 ふいに名前を呼ばれて、わたしはびくりと肩を震わせた。

「このことは誰にも言うな。家には何も言わずに出かけたんだ」

 なぜかというと、そんな御影の声はいつもの皮肉屋ぶりと違って、ガラスがはじけて壊れる寸前のような、切実な響きを帯びていたからだ。

 そんなふうだから、わたしはいつもの憎まれ口を引っ込めて、無言で三回ほど頷いた。

 御影はそれから無言で手持ちの絵本に目をやると、子供たちに優しく問いかける。

「もうこれは読み終わってしまったのだったな。次はどれがいい?」

「おれ、こっちがいい!」

「あたしはこっち!」

「ふふ。俺は一人しかいないから、一冊ずつしか読めないぞ。みんなで、ケンカせずに決めろ」

 口角を上げて微笑む御影の姿は、なんだかうっすらと輝いているように見えた。いつもの猫被りではなく、心底楽しいから笑っているといった表情だった。

「……だから、なぜそこに突っ立っているんだ? 君は仕事中なんだろう。サボっていてもいいのか?」

 気づけば、もうすぐトイレを点検する時間だった。そしてこのフロアをモップがけするのを忘れていた。

「……あなた、何時までここにいるの?」

「暗くなる前までは」

「じゃあ、今日は早く終わらせてわたしも混ざる」

「……は?」

 御影の眉が意外そうに上げられる。わたしがそう言ったのに、子供たちが嬉しそうにこちらを見てくれているのがわかった。

「お姉ちゃんも遊んでくれるの?」

「じゃあお兄ちゃんがオオカミで、お姉ちゃんがお姫様の役ね」

 わいわいと子供たちが盛り上がるのを見て、ふと自分の弟と妹を思い出した。あの二人も、未だにわたしが遊んであげると、素直に喜んでくれる。

「勝手にしてくれ」

 御影が諦めたようにそう言う。こいつのこんな表情が見られるなんて、ここで働いていてよかったかもしれない。そう思った。


「お兄ちゃん、また来てね!」

「お姉ちゃんもだよ!」

 病院の入り口で手を振ってくれる子供たちは、薄暗闇の中であっても輝いていた。わたしと御影はそれに手を振りながら、最寄り駅までの道のりを歩いた。成り行きで一緒に歩くことになったとはいえ、外灯のつきはじめた道路を二人並んで歩くというのは、改めて意識すると少し恥ずかしかった。

 暗闇を退治するかのように、煌々と灯りがついている駅前にたどり着くと、わたしたちの足はどちらからともなく止まった。どこか気まずい沈黙が流れる。喉が渇いてきた。

「……あのさ」

 わたしが口火を切ったのと同時に、御影がしゃべりだす。

「君は馬鹿にするかもしれないが、俺は昔から小さな子供が好きなんだ」

 突然、何かを吐露するように語り始めた御影を、わたしは遮ることなく聞いた。

「本当は君のようにアルバイトをしたいんだ。けれど両親が許してくれない。だから習い事と学習塾の合間に出来た空き時間を使って、あそこで手伝いを始めたんだ。まさか君に見られるとは不覚だったが」

 ごほん、とわざとらしく咳をする御影の表情は、影になってよく見えなかったけれど、なんとなく深刻な顔をしているように感じられた。

「ぜんぜん不覚じゃないと思う」

 その言葉は、溢れるようにわたしから出てきた。普段はあんなに皮肉しか言わない、性格と根性の曲がった御影だけど、おそらくわたしにだけ告白してくれた家庭の事情と、子供たちに見せた優しい笑顔を見て、こう思った。

「なんというか、その……あなたのこと、少しだけ見直した。スカした甘ちゃん男だと思ってたけど、案外いいところがあるし、人並みに悩んでるのね。……そういうところ、いいと思う」

 わたしは自分でも驚くほど素直に、そう言っていた。

 すると、中から何か零れるんじゃないかというほど目を見開いた御影が、ふいと後ろを向いてしまった。そして、どこか不機嫌そうな声で言う。

「……そんなふうに笑うか、普通」

「別にからかってないわよ」

「そういう意味じゃない」

 心底褒めてあげたというのに、早くも前言を撤回したい。

「ねえ、なんで後ろ向いたままなの」

「うるさい」

「人と話すときは顔を……」

 わたしが御影の顔を見ようと回り込む。すると、さしもの彼も逃げられなかった。わたしは御影の顔を見て、自分が何をしたか思い当たった。まるで太陽のような駅の灯りが映し出したのは、御影の赤い顔だった。

「……もしかして、照れてる?」

「常々思っているが、君は発言に気をつけたほうがいい」

 そう言われた途端、わたしは顔が熱くなるのを感じた。やってしまったという後悔の念が頭をよぎる。今までだって、わたしの考えなしの発言で誤解を与えてしまったことがよくあった。お父さんに、「セイラはとてもストレートな物言いをするね」と言われ、気をつけるよう言われているにもかかわらずだ。

 何も言えなくなったわたしをしりめに、御影はごほん! とわざとらしい咳払いをして、歩き出した。

「俺はこれから塾に行く。君も早く帰ったほうがいい」

「あ……うん」

 それから御影は振り向かず、駅のエスカレーターの向こうに消えていってしまった。わたしはただ、しばらくそこに立っていた。

 それを正気に戻したのは、カバンに入れていたスマートフォンが音を立てて鳴り出したからだ。あわてて画面を見ると、そこには「レオ」と「エリカ」の文字。双子の弟と妹の名だ。電話に出ると、騒々しい二人の重なる声が耳に響いた。

「お姉ちゃん、まだ帰らないの?」

「今日はお父さん、早く帰ってくるって!」

「お父さん、カレー作ってくれるって! お姉ちゃんも一緒に食べよう!」

「……お姉ちゃん?」

「どうしたの?」

 わたしは弟と妹が心配するほど、放心していたようだった。気を取り直して「なんでもない、すぐ帰るわ」と言うと、二人は「早くね!」と言って電話を切った。

 久しぶりの一家団欒。そんな嬉しいことであるはずなのに、わたしの心臓はまだ早鐘を打っていた。ハチミツやリンゴ入りのお父さん特製カレーを食べても、まだ、ささくれのような気持ちは残っていた。寝るときもまぶたの裏に浮かぶのは、御影の灯りに照らされた赤い顔だった。

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