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 陽が連山に沈み、空はあっという間に群青色が優勢になった。星の白い点が次々に薄らと灯り始めていた。


 田嶋校長とは屋上で別れ、借りた事件の記事と、俺が峰館林高校の屋上で見つけたノートの切れ端を胸ポケットにしまい昇降口を飛び出す。


 向かう場所は達宮の自宅。

 しかし一度も行ったことのない目的地に向かうには無謀なことは承知しているので、俺は、今朝利用したばかりのLINEに登録されている達宮のホームを開いた。メッセージは達宮の最後の一言で終わっている。途切れたやり取りの続きを走りながら打つ。今日、彼女は風邪で学校を休んでいた。会う口実には適した状況に変わりない。本当の目的を隠し、お見舞いということで、家に行く理由は出来上がる。後は達宮の連絡を待つだけだったが、一向に既読が付かない。

 とりあえず峰館林駅まで着いたものの、スマホの画面はピクリとも変化が起こらない。充電と残量と時計が昨日通りに変化していくだけ。


 いくら芯の強そうな達宮といえど、風邪の影響はもろに受けるに決まっている。今まで人間ぽさから少しずれているように見えていたが、やはり彼女も普通の人間なのだ。人当たりのいい、ただの普通の少女。彼女の隠し事も、もうこの後の俺には通用しない。


 俺は胸ポケットに意識を向けた。何となくの感覚ではあるが、そこには確実に二つの紙が入っている。


 駅前は午後六時過ぎということもあってか、帰宅する人々の波でかなり混雑している。俺は駅舎の隅に陣取り、行きかう人波をぼうっと見る。互いにぶつからないように気を付けながら歩いている人の中に、スマホを操作している人もいて、あわやぶつかりかける一部始終を目撃した。何事もなかったかのようにすれ違う様子に、何故だが、俺とある少女の姿を見た気がした。


 俺はもう一度スマホの画面を見やる。変化はない。

 達宮の支度がある方向は分かっているのだが、行った先に見つけることは困難を極める。歩き回って探していれば時間も時間だ。不審者と間違えられないこともない。俺が求める平穏な学校生活の補導の単語はいらない。もし達宮が寝ていてLINEに気が付いていない状態ならば、ここに居たって待ち惚けだ。


 俺はスマホを指定のズボンの左ポケットにしまい、自宅に帰るため駅を背に向けた。一歩踏み出したところで妙な胸騒ぎを覚えた。虫の知らせというか、理論が跳ね返されるような異常な感覚。根拠のないことではあるが、自然と、俺は帰路を早足で進んでいた。



 少しだけ足に疲労を覚える頃、俺は大通りから自宅のある道に折れ、閑静な住宅街を進む。数メートル先に見える自宅の門灯が目に入った。特に何事もなく、周りの住宅と同じように静かに佇んでいる。近づいて行ってもその静けさは変わらないと思ったが、突如響いた声に、俺の足は止まってしまった。自宅の門灯の辺りを見ると、遠目では気が付かなかったが玄関のドアが開いている。手前には人影が確認できた。妙な胸騒ぎは既に事として起こってしまっていた。


 止まった足を再び前へと動かしていくと人影がはっきりと見えてくる。

 人影は、今日風邪で学校を欠席したはずの達宮一だった。

 大声の正体も彼女のもののようで、憤怒の形相を向ける相手は俺の両親だった。


 何が起こっているのか理解できない俺は、両親たちにばれないように静かに家に近づいていく。何か、話をしている。お互いに睨み合っているのか、周りのことが目に入っていないようで、近隣住人が野次馬みたいに自分たちの家の中から覗かれていることに気が付いていないようだ。


 このままでは近隣に迷惑をかけることになってしまうため、止めるために玄関に顔を出そうとした俺は、達宮からの発言に足を止めた。


「やっぱり黙っていたんですね」

 黙っていた? 何のことだ。

「記憶が無いことを利用していたんですか?」

 利用?


 その言葉を聞いた母がすかさず訂正の声を出す。


「違う。そうじゃなくて、そのほうがよかったのよ」

「記憶が無いから何も伝えなくてもいいってことですか?」

「そういうことだ」と父。

「それって、あまりにも自分たちの都合のいいほうに考えすぎじゃないんですか?」

 達宮は引き下がる素振りも見せずに、そう続けた。


 その質問に、また父が答える。

「医者の助言だ。間違ったことはしていない」

「私が気にしているのは御両親の気持ちではなくて先輩――、京谷さんの気持ちです。間違っていない、というのは、京谷さんの気持ちを知ってて言うことができてるんですよね?」

 達宮のその言葉に二人の口は閉じてしまった。


 沈黙が続きそうだったので、俺はその隙に玄関まで歩み寄り、起こっている状況が理解できないまま割って入った。


 俺の存在に気が付いた三人は慌てた様子で、俺が現れたほうに目線を向けた。三人が三人、ほとんど同じ表情を浮かべて俺を確認すると、さっきまでは真っ直ぐ目の前を見つめていた達宮の顔は下を向いた。首を突っ込んではいけなかった雰囲気を感じたが、これ以上話を続けて近隣の迷惑になるほうがよっぽど問題になるので、俺は真っ先に家に入るように促した。


 しかし、達宮はその気がないようで、その場に固まったままでいる。俺が声をかけようとすると俯いたまま微動だにせず、一言断りの言葉を言うと走って行ってしまった。


 俺が制止しようと達宮の後姿を追うより前に、父が威厳に満ちた声が俺の動きを止めた。怒りというか哀しみというか、色んな感情が綯い交ぜになっている父の声を始めて聞き、驚いて父の顔を凝視した。その目は、俺が達宮を追うことを完全に認めていなかった。


「京谷、話がある」


 父の声は地中深くまで届きそうなくらいに俺の脳を揺さぶった。

 達宮を追うことは叶わず、両親に居間に誘われた俺は、何があったか分からないまま、両親とは対面するように床に座った。スマホが気になったがそんな隙は見当たらず、母が癖のようにお茶を準備している風景だけが俺の目に入ってくる。それぞれ目の前に茶碗が置かれ、直ぐに父が茶碗を持ち、一口お茶を啜った。


 何拍も間を置いた父が意を決したように口を開く。

「京谷。金輪際、あの女の子と関わるのをやめなさい」

 一瞬何を言われたのか分からず、数十秒思考してようやく言葉の意味を理解した。俺はそのまま思ったことを口に出す。


「何があったんだよ。急にそんなこと言われても、はい分かりました、とは言えねえよ」

「知る必要はない。お前は俺が言ったようにしておけばいいんだ」

「お父さん、でも……」

 母が割って入るが、父は構うことなく母の声を無視した。


「分かったら部屋にもど――」

 父が何かを言い終える前に、俺は声を被せて、

「卑怯だろ、それ」と言った。

「なに?」

「俺、途中まで聞いてたんだよ。達宮と父さんたちの話。記憶が無いって何? 医者の助言? 俺の気持ちって、あの場には俺はいなかっただろ。それでなんで俺の話が出てたんだよ」


 俺は休むことなく続ける。

「隠し事してるのは分かってる。最近、二人ともギクシャクしてて。母さんに限っては、うまいこと隠してると思ってたかもしれないけど、表情に出てた。達宮のこと、よく思ってなかったんだろ」


 俺にそう言われた母は悲しげな表情のまま、虚空を見つめている。俺の目の錯覚か、母の身体は小刻みに震えているようで、居間に漂っている空気に、今にも押しつぶされそうになっている。父と母は二人とも口を噤んだまま、一向に話す素振りを見せず、母は父を一瞥した。父は目を瞑っており、眉間にしわを寄せながら何かを考えている様子で腕を組んだ。俺には、その仕草が守りの体制に入っているように見え、父はこれ以上口を開くことはないかもしれないと思った。


 そう思った直後に、左ポケットにあるスマホが震えるのを感じた。さっきからあった感覚だが、今のははっきりとわかり、おそらく達宮からのLINEだと予想した。このまま話が進まないようだったら達宮と連絡を取り合い、彼女に直接聞いたほうが早い。きっとそのほうがいい。


 俺は立ち上がろうと机に手を置いた。

「きょ、京谷、待って」


 上半身に力を入れたところで、挙動不審になった母のどもった声が聞こえた。話の続きを求めるには望みが薄いと思っていた母から先に声が出て、父が驚いたように母を見据えた。母はもう黙ってるつもりはないらしく、安定しない声色で、ぶつぶつと言葉を途切らせながら言葉を綴っていく。母の鼻をすする音が次第に大きくなっていき、何もわからなかった状態から推測したことが俺の脳内で答え合わせをするように、まとめられていく。繋がっていく記憶から、両親と達宮、そして多下幸の思いが湧きあがってくるのが感じられ、聞き終えた頃には、自分が狂ってしまうのではないかと不安だったが、思ったよりも冷静でいられた。推測をしていたのもあるが、記憶が無くなっていたといっても、元は知っていた自分の記憶なのだから当然と言えば当然なのかもしれない。分からなかったが、知らなかったわけではないのだ。


 全てを話し終えた母は緊張からくる嗚咽とともに、今まで詰まっていたものが吐き出され、持たなくてもいい罪悪感から解放されたような表情に変わる。数年同じ家に住んでいるのだから微妙な表情の変化だって簡単に察知できる。俺の目の前にいる人物は、母は母ではなく、父は父ではない。しかし、しっくりくる他の呼び方など俺は知らないので、俺はそのままの呼び名のまま通させてもらうことにする。


「……父さん、母さん。話してくれてありがとう。他にも色々話したいことあると思うけど、俺、今直ぐ行かないといけない所があるんだ。帰ってきてからまた続き聞かせてくれよ」

 だいぶ落ち着いてきた母の呼吸がはっきりとした言葉を作り出す。


「……ごめんね。今まで黙ってて……」

 その言葉に返事はできなかった。怒りなんてないのは確かなんだけど、親が謝る必要があることでもないと思う。ここで返事をしてしまったら、謝罪が成立したことになってしまうことを俺は恐れて何も答えられなかった。


 それを知ってか知らずか、父は俺の背中を押すように声をかけてくる。

「さっきの女の子の所に行くんだろ。もう止めはしない。俺たちもあの子にはひどい言い方をしてしまったからな、謝らねばならん。――京谷、分かってるだろうな。任せたぞ」


 重役を背負わされた気持ちになったが、数年間見てきた不器用な父のやり方を俺は分かっていた。責任感を持つようにと育てられ、今、父が発した言葉は全てを物語っている気がした。


 俺は両親に背を向けたまま、

「それじゃあ行ってくる」

 と、一言だけ置いて、玄関を飛び出した。


 夕方よりも空には多く雲がかかっているようで、雲の狭間から見える僅かな星の光が俺の目に飛び込んでくる。雲の流れが速いせいか、俺の走るスピードが速いせいか、見えていた星は瞬く間に雲の中に隠れていしまい、また次の狭間で違う星が顔を出した。


 スマホの画面を操作する。思った通り、さっきから鳴っていたLINEの送り主は達宮のものだった。すみません、とだけ何度も送られてきている。俺は、今どこにいるか、とメッセージを送ると、すぐさま既読が付く。しかし既読が付くだけで返事が来る気配がない。


 達宮のことである。一週間ほど前にした口喧嘩の時は、自宅には帰らず辺りをうろうろしていたことを思い出し、俺は達宮が行きそうな所を見て回ることにした。思い当たる所なんて二、三か所しかないが、始めに行こうと思っていた所で簡単に彼女の姿を見つけることができた。


 口喧嘩の時と同じ、名もない公園の奥にあるブランコに彼女は座っている。漕いで遊ぶ気は毛頭なさそうで、宙吊りの不安定な遊具は、公園の雰囲気をそのまま表しているようだった。


「達宮」


 俺は公園の中に入っていき、達宮のほうに進みながら声をかけた。


 気が付いていたのか、達宮は俯けていた顔を声がしたほうに向けると、悄然とした表情のまま、また顔を地面に向けた。達宮の身体は全体的に脱力していて、宙から落ちる鉄の鎖を掴み、握力だけで自分の上半身の体重を支えている。


 俺は達宮の隣のブランコに腰を下ろした。達宮は何の反応も見せずにただ地面を見つめるだけに徹している。前のように、陽気な達宮がどこからともなく現れるという状況は望めそうになかった。


 目を置く場所に戸惑い、公園の入り口のほうを無意識に眺めていると、右側の視界にベンチが目に入った。公園に唯一ひとつだけ設置されている電灯がとうとう寿命を迎えたのか、不規則なリズムで点滅を繰り返している。スポットライトに当たっていることに慣れていたベンチはそれを予期していたのだろうか、電灯の最期の光まで浴び続けるために、ただひっそりと静かに佇んで、いつもと変わらないでいるみたいだった。


 闇夜を強く照らすことが難しくなった電灯の淡い光が、両親から聞いた話の影響もあってか、多下幸を連想させた。


 あの日屋上から突如いなくなった少女。学校一の不良、そう思われていたのは俺の勝手な思い込みで、学校中の噂はその少女には一切向いていなかったのだ。今考えれば納得がいく。青木のあの言葉なんて、それを象徴していたじゃないか。少女が消失したトリック。逃げ場のないあの屋上にも、その下の階の教室にも、地上の中樹木も、タネなんてあるはずがなかった。ましてや見つけることなんてできるわけがない。


 一瞬ベンチに当てられたスポットライトが、少女の姿を映し出したように見えた。

 励まされた気がして、俺は不安定な闇を明るく照らし、道標みちしるべとなるために静寂を打ち破った。

「達宮、聞いてくれ。俺な、さっき親に全部、話を聞いてきた――」

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