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「――はっはっはっ」


 そう盛大な笑い声を上げたのは校長の田嶋俊哲だった。


「笑いごとじゃないですよ。なんで今まで話してくれなかったのか、青木の奴……」

「いやいや、失礼。でもね、おかしなものですよ。中二病っていうのは一種の現実逃避みたいなものですよね? だったらわたしも患う……、って言うとその方々に失礼だから、体験したことはありますよ。以前話した七不思議とかはその類に入りますからね」


 俺は、そうかな、と疑問に思ったが笑えてもらえたことだし、この事に関してはそのまま流すことにした。田嶋校長はよほど俺の話し方が気に入ったようで、未だに静かに笑っている。

 閑話休題。俺は真面目な話に切り替えた。


「それでなんですけど、これって僕と多下に関係していることではないかと思うんです」


 田嶋校長は空気が変わったことを察知して、笑いに歪めた顔を元に戻して俺のほうに身体を向けた。田嶋校長は話の続きを俺に促すように、短く言う。


「と、言うと?」

「多下が消えてから僕を取り巻く環境は変わってるんです、確実に。こんなこと自分で言いたくないんですけど、高校二年まで僕は友達のとの字にも縁がない状態でした。それが最近になって薄らですけど見えてくるようになってきてるんです。今回の話の大本の青木についても彼がどう思っているか分かりませんけど、俺は友達の一人だと思ってるし、達宮のことだって……」

「まあ、きみが言う通りかなり環境自体が変わっていることは分かるけど、それが多下さんとどういった関係があるんだろうか? わたしには至って普通の、まあ、過去の話は置いておいて、そう思うけれど」

「多下が僕の交友関係の邪魔をしていた、とか」

「あると思うのかい?」


 田嶋校長にそう問われ考えてみる。思えば俺は、いつから周りからそんなに離れた位置に居たことになっていたんだろうか。高校に入ってからそれとも中学の時からか、最近のことなのに記憶が曖昧過ぎて思い出せない。


 俺が渋い顔をしていたのか、田嶋校長は右向きに身体を動かして、いつも通り腰に手回し、老人スタイルを示した。


「きっと、きみはその頃から疲れが溜まっていたのかもね。周りの子たちとうまくいかない悩みが無意識的にきみを苦しめていた。ストレスっていうのは初めてその存在を理解する時には、自分の身体に何かしらの影響が出てしまった時だからね……。ほら見てみなさいよ、あの夕陽」

 そう言われて、俺は左側に顔を向けた。


 昨日は久しく六月っぽい雨に見舞われたが、今日は少しだけ厚い雲が所々にあるだけで、昨日と思えば相当過ごしやすい気候になっていた。雨の次の日だけあって風はずっと強く、押し倒されそうになりながら踏ん張って夕陽を眺める。雲の狭間から見える夕陽はまた風情があり、俺も好きな風景の一つだった。放たれる橙色の光線は、厚い雲の表面を照らし、雲が自ら発行していると錯覚させる。夕陽はずっと遠くにあるにもかかわらず、近くの雲まで橙に染め上げているのを見ると、太陽の偉大さがまじまじと伝わってきた。


 黄昏時。

 何かを告げようとしているのか、不思議な感覚を思わせた一時の夕陽は、マイペースに徐々に沈んでいく。逆側の空を見れば、我先にといった感じに夜の訪れを告げていた。ここでは、達宮と行った天体観測場ほどの星は見られないが、それなりのものは観測できる。時間もかからない上、夕焼けという絶景と星空をコース料理のように楽しめるこの屋上は、何物にも変えられないようにと祈った。


「……そういえば」

 田嶋校長が消えゆく夕陽を眺めたまま、そう呟いた。


 俺は声がしたほうを向くと、田嶋校長は胸ポケットに手を入れて何かを取り出したようだった。字がびっしり書かれているのか、材質は紙のようだが七、八割が黒く埋め尽くされている。少しぼろくなったその紙を開いてしわをなくすために強く引っ張ると、小さい音で破れる音が聞こえた。田嶋校長は焦って紙を擦っているのを見て、初めてそれが新聞の記事の切り抜きだと気が付いた。


「校長、それは?」

「ん、ああ、ちょっと破れてしまったんだけど、ちょっと気になる記事です。今日は達宮さんが欠席されているようなので、その隙にと思い持ってきたんですが……」


 田嶋校長はそう言って俺にボロボロの紙を渡してきた。できるだけソフトに受け取ると、田嶋校長は、今の面、と指をさして俺の視線を誘導した。


「約八年前に起きた自動車同士の追突事故です。わたしが校長になる以前に、この高校に入って来た新任の教師が遭遇した事故の記事なんですが、ふと、達宮という名前に見覚えがあったので見つけることができました。新任の教師のカウンセリングじゃないけど、精神的にダメージをおってしまった彼に目をかけていたこともあって、その事故のことを忘れないようにと記事を取っておいたんですよ。

 原因は一方のわき見運転だったみたいだね。赤信号で交差点に進入してしまい、青信号で入って来た車と衝突してしまった。事故に遭ってしまった人数は合わせて八人。内、五人はその場か病院かで死んでしまったことが確認され、他二人は重体ではあったけど命は取り留めたらしい」


 記事を見て、田嶋校長の話を聞き、ふと疑問に思うことが出てきた。


「なんで合計は八人なのに死亡者、重体の合わせた数が違うんですか?」

「うん。それはわたしも疑問に思って、新聞社に問い合わせたところ、一方の家族の奥さんは妊婦さんだったようで、お腹の中にもう一人お子さんがいたらしい。あまり大きな事故と言えないのか、ぱっつりこの事故に関する情報がニュースでも新聞でも見られなくなってしまってね。お腹の中の生死は、わたしにも分からないんだ。残念だけどね。

 それで見てほしいのはその家族なんだけど……」

 田嶋校長はそう言って、記事の下のほうを指さした。


「名前は書かれていないが、達宮家と多下家。真実は達宮一さん自身に訊いてみないと分からないけれど、もしかすると本人かもしれない。それに多下家。これはきみが今探している、多下幸さんの家族か親戚、という可能性があるかもしれない。地元っていうのもあるから、天文学的確率ではまずなくなるよね」


 俺はその記事を見たまま数分動けなくなった。

 重体の二名。性別は男女一人ずつになっている。生死の判断はこの記事からは分からないが、ある事への心当たりはある。それは――、

「たぶん、この達宮は達宮一の家族で間違いないと思います」

「え? なんでそんなこと分かるんだい?」

 俺は夢中になって答えていた。


「先日、達宮と一緒に出掛けたんですけど、その時に聞きました。幼い頃としか言ってなかったので改めて訊いてみないと、勝手に決めつけられないので。事故のせいで目的を果たせなかったみたいで、僕は途中まで知らずに達宮に連れていかれたんです」

「なるほど。と、なるとその可能性は濃厚になるね。もしかすると達宮さんが、この、多下家についても何かしら知っているかもしれない」

「はい。……校長、この記事少しだけお借りしてもいいですか?」

「ええ。ぜひ有効利用してください。停滞していたが、やっと動き始めることができそうでよかったよ」


 ありがとうございます。俺は田嶋校長に感謝の意を伝えて、その記事を胸ポケットに入れた。ポケットの中に手が触れた瞬間、あるものに当たる。取り出したそれは、あのナゾナゾが書かれた紙だ。そういえば田嶋校長にはこの紙をまだ見せていないこと思い出し、折れ曲がった状態で渡した。


 田嶋校長はさっきの二の舞にならないようにと、今度は慎重に紙を開いた。開いて数秒見つめると、その紙に書いてある言葉を、田嶋校長は声に出して読んだ。


「『どんなに努力しても戻ってこなくて、逆に努力した分無くなっていくものって何だと思う?』、と書いてあるね」

「はい。その答えなんですけど、屋上のこの辺りに引っかかってたんです」

 と、俺はフェンスのその場所を分かりやすいようの指で指し示す。


 田嶋校長は、ふむ、と言って、その紙切れに視線を落とした。一、二分ほど文字とにらめっこしていると、静かな声で、

「うん。やっぱり答えはこれしかないね」

 そう言った。


 俺は、もったいぶった話し方をする田嶋校長を急かして訊いた。

 出てきた答えはあの日、達宮と星を見に出掛けた帰り道に、彼女が突然言った言葉。

 あの時は何のことなのか分からず、訊こうと思っても達宮は先に帰ってしまって訊けず、それっきり忘れてしまっていた。


 そして、今明かされる答えが引き金になったのか、田嶋校長の言い方が耳に残っていたのか、完全に無くなっていた俺の幼い頃の記憶が、徐々に蘇ってくるのを感じた。

「答えはきっと――、『時間だよ。時間』」

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