4

 


 憂鬱な心のまま俺は、いつもの公園に向かっていた。

 何か理由があって公園に寄ったわけではなく、このままの気分で家に帰ろうとは思えなかった。


 ぼやっと明かりが灯る公園近くの自動販売機で缶コーヒーを一本買い、公園のベンチに着いた。飲み口を開け、一口啜る。口内に苦味と微量の渋味を感じ、一瞬躊躇ったが一息に飲み込んだ。コーヒーの独特の味が喉を通過していく。うえっ、と嗚咽に似たものが口から飛び出てきた。正直、コーヒーは好きではない。基本的に甘党の俺は決して好んでコーヒーを飲むことはないのだが、今日はなんとなく気分転換に買ってみた。案の定後悔している。


 ほぼ満タンに入っているコーヒーをそのまま捨てようという気にはならず、かといって飲み干せる勇気もなく、猫背がちな俺の姿勢はもっと沈み、肘を膝上に置くと缶コーヒーをできるだけ口から遠い足元に収めた。


 苦味が口から引いていきプルタブを睨みつける。缶の冷たさが俺の指先に伝わり、嘲笑された気がした。


 時間がゆったりと流れていく。途中、学生らしきカップルがこの公園に入って来たと思ったら、俺の存在に早々に気が付いたようで、じっとこちらを凝視してから呆れたように何かを言って出ていった。十中八九、俺への文句だとは思うけれど、その場にいた俺自身も少し悪い気はしていた。カップルのその様子を見て気持ちは変わったけれど。


 人生で何度目かの溜息を吐いて、もうこれ以上他人が来ないことへの祈りのために公園の入り口に睨みを利かせていると、俺の後方から微弱ながら足音が聞こえたような気がした。


「こんばんは、先輩。こんな夜遅くにコーヒーですか?」


 俺が振り返るのと同時くらいに声が聞こえた。

 達宮だった。


「なんでお前……」

「あ、いや偶々居合わせただけで」

「じゃなくて、なんで後ろから? 入り口は一か所だけで裏は住宅街だろ」

「ああ、えっと、先輩より先にここに来てたんです、私。あそこのブランコでぼうっとしてたら急に足音が聞こえてきて、先輩だ、って思った時にはもう裏の茂みに隠れてました」


 達宮はそう言うと、ベンチの左手奥にあるブランコを指さした。


「びっくりしましたよ。私が公園に来て直ぐ先輩が来られたので」

「そのままいればよかったろ」

「そうですけど、喧嘩っぽくなっちゃって顔、合わせづらくて……」


 突然の達宮が出現した驚きで忘れていたことを思い出した。達宮の顔がそっぽを向いたのに合わせて、俺も彼女がいる方とは逆側に視線を移した。傍から見たら、さっきの学生カップルのように思われてしまうかもしれない。


 公園の入り口を注目していると、達宮から意を決したように声が出た。


「さっきはすみませんでした!」


 異常を感じるほど大きくない声ではあったが、静寂の公園と闇夜のせいか俺の耳には鋭く響いた。

 驚いた俺は高速で首を回した。


「昨日の今日なんて話じゃないくらいついさっきのことですけど、許してください。私、先輩のことが気になって家に帰ろうにも帰れなくて。切り替え早くて嫌な感じかもしれないですけど、私、先輩とは仲良くしてたいんです」


 はっきりとした言い方だった。先を越されてしまい、先輩として情けないと思ったが、彼女をずっと立たせているわけにもいかないので、とりあえず俺の隣に座るようにと促した。


 俺の言葉に誘われ達宮はベンチにかける。

 お互い正面を向いたままで、達宮は返事を待っているのか、一言も何かを言うことなく俯いたままでいる。

 情けない先輩の手番だ。


「俺も悪かったよ」

 俺の言葉に反応して、達宮が徐々に顔を上げ始める。

「達宮に言われて気が付いたんだ。俺、無意識的に多下のことを考えてたんだなって」

「多下?」

 達宮の顔は既に俺の方を向いていた。


「あ、ああ。いつもの女の人ってお前が比喩してる人のこと」

 そして俺は、以前話したよりもより詳しく、達宮に多下幸の話を聞かせた。

 驚いているのか、呆れているのか分からないが、達宮は複雑な表情をして俺の話を真剣に聞いていた。


「なんだか夢のような話ですね」

「まあ。でも、手掛かりってほどでもないけど、あいつがいた証拠はあるんだ」

 俺はそう言って、制服の胸ポケットからノートの切れ端を引き出した。

 達宮に渡すと、彼女は興味深くそのノートの切れ端を観察してる。


「二回目に屋上に入った時に見つけたんだ。その言葉、聞き覚えがあるんだけどなんだか分からなくてな」

「ああ、そうでしたか」

「きっと、多下が置いていったものには間違いないんだ。その言葉の意味さえ気が付ければあいつに近づけれると思ってる。思い当たることはまったくねえけどな」


 俺は自分を笑った。ここまで悪い所しか出てきていない。記憶力は皆無。情緒は不安定。おまけに先輩としての自覚。相手に非があっても後輩に先に謝られてしまう、なんていうのは男としても最低なんだと思う。


「まったく、情けないよな」俺がそう言うと、達宮も冗談ぽく乗ってきて、

「ほんとですよ」

 と言って、口を閉じた。


 まだ多量に中身の入った缶コーヒーが飲み口がある面に当たって、こぽん、と音を立てた。

 しばしの沈黙の後、俺はわざとらしく咳ばらいをすると、たどたどしく口を開く。


「あ、のさ達宮」

 その声に応えるように達宮は身体の正面をこちら側に動かした。

「その、デ、デート? 行ってやるよ。まあ、お前の言い分にも理があるからさ。息抜き、とはいっても勉強はしてこなかったから、ここらで折り合いをつけたいんだ」

 そんな上からの態度に、達宮は片手で口を覆って笑いだした。


「ふふ。なんだか随分と上から目線ですね」

「う……。悪かったよ。苦手なんだこうゆうの」

「知ってますよ。全部全部。……分かりました。じゃあ付き合ってもらいますね」

 達宮はそう言って立ち上がり、通学鞄を肩にかけると、

「今週の土曜日。午前十時に先輩のお家に参りますので準備しておいてくださいね。行きたいところがあるので行き先はその時にお教えしますので。それと――」

 続けて何かを言おうとして、達宮は俺が持っていた缶コーヒーをかさらった。


「もう飲まないですよね、これ。私コーヒー好きなんで処分しておいてあげます」

「おい待て。それはまずいって」

「コーヒーなんだから苦いのは当たり前……、ああ、これじゃあ間接になっちゃいますねえ」


 達宮はそう言うと、わざとらしくにやにやして缶を軽く揺らした。


「私はいいですよ。嬉しいくらいですから」


 俺は缶コーヒーを取り戻そうと達宮に食らいついたが、軽やかに躱され、早々に公園の入り口まで達していた。俺が制止の言葉をかけ通学鞄を持った時には、彼女はわかれの言葉を告げていた。

「じゃあね先輩! また土曜日に!」

「おい達宮!」

 俺の声は達宮には届かず、虚空へと溶けていった。

 再び静かになった公園は、どこかもの寂しく俺の目に映りこんだ。今まで騒々しくしていたからかもしれない。達宮の後を追うのも野暮だろうと思い、俺もおとなしく帰宅することにした。

 少しばかりストーカー気質のある達宮だが、裏表がなく真っ直ぐな姿勢は、俺も見習わなくてはいけない彼女の長所だ。首を突っ込みすぎるのはいかがなものかとも思うけれど。しかし、そういうことに助けられることもあるだろう。彼女の悩みのなさそうな、あっけらかんとした雰囲気に救われるのは俺に間違いないだろう。

 少しの高揚感と同時に不安感を抱いた。

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