3

 数分の時が流れ、午後五時を告げる鐘が風に揺れる木々と生徒たちの声をかき消した。空はさっきよりもだいぶ赤みを増し、影の先端が遠くまで伸びていく。今の時間に影踏みをやったのなら、鬼にとってここまで有利な状況はないだろう。

 屋上に人型の影が二つ。山の上から差す光が完璧な夕焼け色に姿を変えた。


 その夕焼け色に染められた田嶋校長の顔は、光を避けるように少しだけ斜め向きになって目を細める。


「いつ見てもここの夕陽は綺麗ですね。海に落ちていく夕陽もなかなかおつなものですが、わたしは山に沈んでいく夕陽のほうが風情があると思っています」

「僕もです」


 田嶋校長の意見に賛同し、そう答えたところで屋上の扉の音が開く音に気が付き俺たちはそちらに目を向けた。


 達宮だった。

 達宮は眩しそうに目元に手を添えて、こちらに歩み寄ってくる。

 俺と田嶋校長は目を見合わせた。


「いたいた。やっぱここに来てたんですね。なかなか出てこないから探しましたよ。忘れ物は見つかったんですか?」

「おや? 澤村くん、忘れ物をしていたのですか?」


 初めて気が付いたのか、達宮は声の主のほうを二度見して驚いた顔をした。


「校長先生!? なんでここに」

「おっとこれは失礼。驚かせてしまったね。えっと、こちらの生徒が澤村くんの後輩の達宮さんだね」

「そうです。よく知ってましたね」

「さっききみが自分で言ってましたよ」


 そうだったかな、と思い曖昧な記憶の中を遡ってみたが思い出せず、適当に、そうです、と答える。達宮は緊張した面持ちで、改めて田嶋校長に自己紹介すると、微妙な空気になってしまた空気の救世主を探すように、俺に目線を投げかけてくる。しかたなしといった具合に俺は口を開く。


「達宮なんでお前先に帰らなかったんだよ。さき帰ってろって言ったはずだぞ」

「先輩こそ、私の言うことほったらかしにしてどっか行っちゃったじゃないですか」


 達宮の訴えに乗っかるように、田嶋校長も会話の中に入ってくる。

「それはいけませんね。澤村くん」田嶋校長はそう言いながら、自分の右腕に付けている腕時計を一瞥して、

「もうそろそろ屋上を閉めないといけないから、お二人とも速やかに下校しなさい」

 と言って、校長は塔屋のほうに歩き出した。


 田嶋校長にそう言われ、達宮はここぞとばかりに、そうそう、と俺に詰め寄ってくる。


「こんな遅い時間まで私を待たせたのですから、今日は先輩に家まで送ってもらうことにしました」

「はあ? お前何言って……」

「それはいい考えですね。遅い時間に女性を一人歩かせるのは危険だ」と田嶋校長。

「ということで、先輩はしっかり私を家まで送り届けてください。もちろん拒否権はありませんよ。これは任務なんですから」


 さあ行きますよ、と達宮も屋上から出ようとしたところで足が止まった。そういえば、と何かを思い出した顔をして、俺と田嶋校長のほうを見ると、

「屋上って立ち入り禁止になってますよね? 今まで気にていませんでしたけど、校長先生がいらっしゃれば立ち入ってもよくなるんですか?」


 俺と田嶋校長は顔を見合わせた。

 空が橙色から群青色に変わる頃、さっきよりも幾分冷えた風が、お互いの額から落ちる汗にかかり冷たくなる。どう言い訳をしようかと考えていると、咄嗟に達宮は自分の腰に威張るように手を当てて続けて言った。


「まあ、私は先輩たちを問い詰めに来たわけじゃないので今回は見逃してあげます。私の寛大さに感謝してください」と、厚みのない胸を張った。


 田嶋校長はこちらに顔を向けてほっとした表情を見せると、屋上から出てくださいと俺たちを促して塔屋に入って行く。達宮もそれに続いて屋上から出て行った。

 最後にもう一度夕陽を眺めようと俺は振り向く。冷汗が引き、さっきよりも心地のいい風が俺の額を撫でる。


 橙色がほとんど消え、群青色が大空の大半を塗りつぶすと、色の境目に何かを阻む壁が見えたような気がした。このまま、多下幸の存在自体がなかったことになってしまうのではないかと何故か不安を感じ、また額に汗が滲み出ていた。



 すっかり辺りは暗くなり、街灯が道路を静かに照らし始めている。珍しく快晴となった六月の夜空には星が絶え間なく輝いていた。街灯の光が邪魔をして多くの星を確認することはできないが、三等星くらいならはっきりと目視することができる。この星々を多下幸も見ているのだろうか。そんなこと知る術はないが、自然に思わずにはいられなかった。


 静けさの中、二人の足音が路上に響く。

 高校からの帰り道、隣を歩く達宮は屋上のあれの後、一言もしゃべることなく淡々と歩き、ただ前を見据えている。俺も特別話す話題はないので、沈黙に耐えつつ彼女の横顔を見ては、気づかれないくらい小さな溜息を漏らすばかりだった。もしかしたらこの居心地の悪い空間は、俺が小学生の頃以来、女子と並んで歩くことがなかったからなのかもしれない。と言っても、その肝心の小学生の時の記憶が曖昧なので、実際に女子と話をしたことがあったのかも定かではないけれど。


 何とか話題を切り出そう。何故だか妙な責任感を抱き、過去あった出来事を思い出す。靄のかかった俺の記憶の中を懐中電灯で照らしてみるが反射してしまい全く使い物にならない。よくこれで今まで勉強とか対人関係とかもっていたな、と若干自分に嫌気がさしてきて、また一つ溜息を吐きそうになったその時、静寂を破る、と言うよりか、細い針で紙を貫き、穴が開いたところから漏れ出していくように、隣から声が聞こえてきた。


「今年の梅雨は例年より雨が少ないらしいですよ」

 とても静かな声だ。

「そうなのか? 学校じゃあ珍しいとかって話をしている奴もいたぞ」

「そう思うのも無理ありませんよ。微々たる差ですし、曇り空が勝手にそう思わせちゃうんですよね。きっと、皆、雰囲気に流されてしまっているんですよ」

「そんなもんかね」

「そんなものです」


 そしてまた静寂に戻る。気まずい空気が流れ出すと思ったが、そんなことはなく、達宮は続けて少し難しく話を展開させていく。


「私は地球温暖化のせいなんじゃないかって思ってます。異常気象は基本的に地球温暖化って言っておけば皆納得しますから」

「いやそりゃないだろ」

「じゃあ先輩はどうお考えになりますか?」


 突然の問いで一瞬意識がどこかに行っていた俺は、達宮に気が付かれないように自然に聞き返す。

 達宮は少しだけ不貞腐れた顔をして、単語だけ答えた。たぶん気づかれていたが、俺は気にせずそのまま続けた。


「地球温暖化って……。まあ、暑いのは嫌だけどな。根本から問題を見ちまうと結局、人間がやらかしたことだからどうしようもないし。もしできることがあるなら過去の人間が行いを改めないといけないことに気が付くか、過去に戻って教えるかしないと今を変えることはできないだろうけど」


「なんか微妙にズレてる気がしますけど、今できることってないんですかね」

「あるだろ、そりゃ。……でもな結局そういう過去があったら最善策が見つかっても意味はないんだよ。過去は変えられないからな」

「……過去は変えられない、ですか」

「当たり前だ」


 ふと、達宮の表情を見ると複雑なものに変わっていた。言葉のチョイスを誤ったかと後悔していたが、来ると予想していた居心地の悪い静寂は数分と続くことはなかった。


 達宮は柔和な表情にころっと切り替わり、口を開く。


「ふふ。なんだか暗ぼったい話ですね。真っ暗闇です……」

 穏やかな表情からは考えられないほど落ちた暗いトーンで、達宮の声は最後まで俺の耳には届かなかった。聞き直そうと声をかけようとしたところで、達宮は、そうだ、と路上に響くぎりぎりの声量でそう言うと、タッタと靴音を立てて行く手を阻むように俺の目の前に立った。


 達宮だけが街灯のスポットタイトに照らされて陰影が作られ、はっきりと表情を窺うことができる。流れるように口角が少し上がり、再三練習したのかと思うほどに作り上げられた笑顔に俺は恍惚と見入ってしまった。


「私とデートしましょう、先輩。これも任務ってことで拒否権はもちろんありません。命令です!」


 達宮は唐突にそう言った。


 その屈託のない姿勢を見て浮かんでくるのは疑問しかなかった。彼女は何を考えているのだろ。どうせろくでもないことに決まっている。初めて会った時から過干渉で、皆目見当がつかないのだから。

 俺はできるだけ冷静に呟いた。


「……行かないよ」

 俺の返事が予想通りだったのか、達宮は平然とした口調で訊いてくる。


「何故ですか? お忙しいんですか?」

「ああ。たくさんやらないといけないことがある。だからお前と遊んでいる暇はないんだ」

「今まで勉強しているとこ見たことないんですけど? 高校三年生が勉強以外で忙しいなんてことがあるんですか?」

「まだ理由言ってないだろ――」

「また、いつもの女の人のことじゃないんですか?」


 達宮の言ったことは核心を突いていた。次の言葉が出てこない。

 勉強第一が達宮の考え方で、俺のように勉強以外で大事な時間を潰している奴は許せないらしい。実際に俺がやろうとしていることは時間の無駄であるし、高校生の本質っていうのにも大きく外れているだろう。誰だって分かる。一年間探し続けていたものの行方が全く掴めず、時は過去へと流れていくだけ。探すという行動は今やってみれば濃い内容だが、俯瞰して全体を見てしまえば同じことの繰り返しで薄っぺらくまとめられる。短編小説にすらならない。


 そんなこと、自分が一番分かっていた。だからこそ触れてほしくないことであったし、触れられれば腹が立つ。現状打破できないと人は普通ではいられなくなるものだ。

 達宮は俺の気持ちもいざ知らず、自ら作ったエリアに簡単に足を踏み込んでくる。


「偶には先輩の悩み事、考えずに済む日を作らないと身体壊してしまいますよ」

 俺は外に出ろと言わんばかりに、冷たく突き返す。

「いらん世話だ」


 さすがに厳しい言葉だったかもしれないが、達宮なら笑って受け流すだろうと高を括っていた。後悔が時間が経つにつれて俺の心にひしひしと湧いて出てくるのを感じ、一度謝ったほうがいいのではという感情に押されたが、正直必要ない感情だったかもしれない。 しばらく立ち尽くす達宮を横目に、俺は勝手に帰ってしまおうと達宮の脇を通り抜けた。瞬間、ぼんやりと低めの音が俺の耳の中に静かに響き始めた。


「……なんだか先輩、気持ち悪いですよ」

「え……?」


 発せられた声の主が達宮であることに気づいたのはほんの数秒のことだったけれど、俺には相当長い時間に感じられた。

 振り向くと、後ろを向いたままの達宮の姿が街灯に照らし続けられていた。右肩にかけられた学校指定の鞄の持ち手部分を両手で握りしめている。小刻みに震えているところを見ると相当力が込められていることが分かる。


 俺も同時に達宮に苛立ち始めていた。入ってほしくないエリアに立ち入ってきて、拒絶を示しているのにも関わらずに遠慮することがないところが、ずっと気に入ってはいなかった。

 俺は強めの口調で言った。


「気持ち悪いって、何が?」


 すると達宮は振り返り、俺を見定めると、視線は独特なものに変わっていた。野性的な目。ただ睨みつけるというよりも、警戒心に満ちた怯えた視線。


「なんだよ、その目」

 気が付いた時には声に出ていた。


「――え?」

「え? じゃねえよ。さっきから人を死んでるみたく見てるだろ」

「え、いえ、そんなこと」

 達宮はたじろいだ。

「俺は死んでねえぞ。今もこうして生きてる。立って呼吸してる……! あいつだって!」

「あいつって誰ですか……?」


 そこで俺の怒号は止んだ。達宮の聞き返した言葉が誰を示しているのか自分でも一瞬分からずに思考も止まる。あいつって誰のことを――。


 震える達宮の声が続けざまに聞こえてきて、俺を現実へと戻し始める。


「あいつって誰のことなんですか! もしかしてまたあの女の人のことを言ってるんですか!? ……いつもいつも上の空で、ここに居ないみたいで、私を……、今ここを見てくれてない!」

「おい、達宮?」


 はっ、とした達宮は自分が今言った言葉の意味に気が付いたのか、目を丸くしたと思ったら俯いて黙り込んでしまった。少しすると、か細く、

「……もういいです。私はここで帰ります」

 とだけ告げて、来た道を小走りに戻って行った。


 あまりにも一瞬の出来事で、俺は彼女を呼び止めることができず、ただそこで立ち尽くした。気持ちの整理が始まり状況の判断ができてくると、原因が少しずつ露になってくる。達宮が何に対して強い口調をしたのかは明らかだった。俺は知らず知らずのうちに彼女、多下幸のことを考えていたみたいだった。食事なんかは特にそうだが、毎日同じ行動を反復していると既に終えたことなのか、まだ終わっていないことなのか分からなくなることがあるように、俺も多下幸のことを毎日考えていることでそれが習慣化してしまい大迷惑な癖として身についてしまっていたのだ。


 やってしまった。

 取り返しがつかないことは分かっていたが、そう思うしかなかった。

 達宮は分かっていたんだろう。俺が無意識のうちに違う世界を見続け、何も見ていなかった。考えてみてぞっとした。もし、今起こったこと以外で俺が不審な行動をとっていたら、完全におかしな奴だと思われる。そう思っているのが親だったとしたら……。


 はあ、と重く溜息が出てくる。

「重症だな、ほんと、俺……」

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