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「こんにちは、先輩。また会いましたね」


 放課後。

 帰宅しようと俺が下足室から表へ出たところで、声をかけられた。声の主は思った通り、達宮一だった。何かと会うことが増えたのは今日この頃ではあるが、昇降口付近で、しかもほぼ待ち伏せという形で話してくるのはこれが初めてだった。


「会いましたねって、どう見たって偶然じゃないだろ」

「……今日は屋上、行かれなかったんですね。一緒に帰ってもいいですか?」

 達宮は、俺の声など存在しないかのように気に留めていないようだ。

「やだよ」

「なんでですか? あ、わかりましたよ先輩。カップルに見られたくないんですね。自意識過剰過ぎじゃありませんか」


 自意識過剰はどっちだよ、というツッコミが頭の中をよぎったが、彼女にはそういった手が通じないのを知っていたので、俺はおとなしく自ら引き下がる。

 その様子を見て達宮が何かを感じ取ったのか、俺の歩くペースに合わせて隣を歩き始める。


 なぜ彼女が俺にこうして接触してくるようになったのかというと、何と言うか、出会いは突拍子だった、という言い方をしてしまうとラブコメみたいで気持ちが悪いし、俺自身そんな気持ちはない(たぶん)と思っているので簡潔に言ってしまうと、彼女は幼い頃に俺と会ったことがあるらしい。しかし、なんとも俺の記憶能力ってものは頼りにならなく、幼い頃に誰かと会った記憶はあるのだけれど、出会いの数なんて子どもの頃でも十数人では収まらないと思う。年齢で絞り込めばどこかでヒットする人物が出てくるかもしれないが、本当に印象の濃い顔立ちとか背格好とかしていれば分かるかもしれないところ、小学生時代全体を見れば生徒の顔立ちは中性だし、背格好だってどんぐりの背比べも同然だ。


 俺のことを覚えている達宮には悪かったが、俺も嘘をついてまで話を合わせられるほど賢くないので、正直に覚えがないことを伝えた。すると、案外あっさりしているもので、逆に好都合です、などと強がりで言っているのか本気で言っているのか、どっちとも取れる調子で返事をされたので、彼女が本当のことを言っているのか疑わしく思った。


 達宮の入学式で、会場の体育館に入場した時きょろきょろと在校生がいるエリアを見回していたところ、たまたま目についたのが見覚えのある俺の顔だったようで、去年一年間は、本人なのかそうでないのか探っていたことと、学校に慣れていなかったことから声をかけようとは思っていてもそうできなかったらしい。今ではそうしているのだが、彼女もなかなか難物らしく、教室では常に浮いていると言う。居心地が悪いので俺のもとに来ては過去を思い出させようと無駄な事を考えては、帰っていくを繰り返しているといったところだ。


 達宮は変わらず俺の隣を黙って歩いている。そうしてたって俺の記憶が蘇ることなんてないのに、と思いながら辺りを見回してみると、やっぱり男女が並んで歩いているところを見るとそれなりのものには見られてしまうようだ。名前も知らない生徒たちの視線が痛くなり始めた頃、俺はふと空を見上げた。六月には珍しい雲一つない澄んだ空に、小鳥が二匹校舎とは逆方向に飛んでいくのが見えた。こんな日に屋上から見る夕陽はさぞ綺麗だろうなと思い、また多下幸の姿が脳裏に浮かんだ。達宮と話した日はどっと疲れる。いつもなら立ち寄る屋上にも、今日は行かなくてもいいだろうと思ってしまい、またそういうことが続いてしまう。


 ちょうど周りの視線にも耐えがたくなってきたところだったので、せっかくの晴天の日の夕陽を見るだけ見ようと思い、足を止めて、承諾したわけではないので必要ないことだったかもしれないが、達宮に断りを入れる。


「悪い。忘れ物したみたいだから先に帰ってくれ」

「忘れ物ですか? それなら私も……」

「いや、いいから。それに一緒に帰っていいなんて俺は一言も言ってないぞ。じゃあな」


 俺はそう言うと、正門直ぐまで来ていた身体を翻し、昇降口のほうに向かった。


 達宮は唐突に起こったことだったので理解できていなかったのか、俺の名前を呼んで制止を促している。当然止まるつもりのない俺は、その声を完全に無視してそのまま歩き去る。



 塔屋を出て屋上を吹く風に身体が揺れた。昨日が雨だったせいで地上も多少強い風が吹いていたが、屋上はその比ではなかった。


 屋上は基本的に立ち入り禁止とされているため、扉の鍵が開いていない可能性も考えられたが、そんなことはなかった。いつも扉が開いているとまずいということで、田嶋校長が屋上の鍵を管理しているのだが、いつの日か俺に合鍵を渡してくれた。俺のためを思って考えてくれたことなので、田嶋校長には感謝のしっぱなしになってしまっている。


 なのでいつもは俺が閉まっている鍵を開け屋上に入るのだが、今日はもともと扉が開いていた。塔屋の向かい側の屋上端に目をやると、この学校では二人しか持っていない屋上の鍵を持っている、もう一人の人物が目に入った。


「こんにちは。校長先生」


 こちらに気が付いた田嶋校長は腰に回していた右手をこちらに見えるように軽く上げて、返事をしてくる。


「今日は来ないかと思っていたよ」


 俺は田嶋校長と並ぶように、飛び降り防止フェンスの手前に立った。


「僕も今日は来ないつもりだったんですけど、珍しく天気のいい日だったのでせっかくならと思って立ち寄りました。校長先生も今日はいらしていたんですね」

「ええ。本当にこの時期の晴天は珍しいからね。わたしもせっかくなので夕陽を見に来たんですよ」

 田嶋校長はそう言いながら、空に向けていた視線を西のほうに動かした。


「最近はここに来ることが減っているみたいだね」

 少しの沈黙の後、田嶋校長がそう切り出した。


「……はい。去年は毎日通っていたんですけど、ここまで音沙汰がないと疲れてきてしまって。他にもその要因はあるんですけどね」

「根詰めすぎるのは身体によくないからね。いい判断だと思いますよ。わたしも何か情報を得られればいいんですが、残念ながらこれ以上の詳しいことはわからずじまいです」

「そうですよね」


 俺がここに来たのは達宮から離れるためということもあったが、もしかしたら田嶋校長が多下幸についての情報を持っているかもしれない淡い期待を持ってのことだったのだが、残念ながらその期待は裏切られてしまった。


「他の要因とは何のことですか?」

 田嶋校長はこちらに顔を向けて、そう問うてきた。


 俺は少しだけ考えて、何のことかを思い出し、

「ああ。僕も後輩のことです」

「後輩? たしかきみは部活には所属していなかったはずでは?」

「部活じゃなくて、広義的な意味での後輩です。何かと突っかかってきてて」

「ほう。なんだか仲がよさそうだね。昔からの知り合いとかかい?」

「いえ。でも、達宮は僕に幼い頃会ったことがあるって言ってたんですが、自分には全く記憶がなくて……」


「ははっ。まあよくあることですよ。わたしもつい最近のことなんですが、相手にお久しぶりと声をかけられましてね。相手はわたしの顔を知っているようだったんですが、わたしはもう全く見覚えがなくて、どちら様って訊いてみたんだけど、忘れてしまったかと半ば呆れられて結局その人物が誰だったのかわからずじまい。なんて出来事がありましたよ」

「それって本当に会ったことのある人だったんですか?」

「ん? さあ?」


 田嶋校長は少し笑いながら、

「相手が間違えてわたしに声をかけた可能性もありますが、わたしも踏み込んで訊くこともしなかったので、真相は彼の中にあるだけですね」


 そう言ってまた西の空を見やった。


 徐々に日は沈んでいき、空が若干赤らんできた頃、湿り気を少しだけ含んだ風が俺の頬に当たる。地上では木々が、ざざあ、と音を出して揺れ動く。聞き取れはしないが、生徒たちの声が擦れて俺の耳にまで届いてきた。

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