第二章 篠突く雨に見舞われて

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 暗黒の世界で街灯の灯りが淡く辺りを照らしている。

 大粒の雨滴がアスファルトに容赦なく叩きつけられ、大きな叫びとともに散っていく。


 薄ぼんやりと見えるそこには、それぞれ違う時間を生き、戻らないものを求める二つの少女の影があった。


 頭の天辺からつま先までずぶ濡れになった姿は、長時間大粒の雨が降る冷たい外気の中に立たされていることが推測できる。髪の毛や服はべったりと少女の肌に張り付き、あどけなさの狭間から見え隠れする大人っぽさを表現していた。


 雨音だけが響く暗黒の世界は、少女たちの声を容易く押し潰し、聞こえるか聞こえないか微妙な声量はまさにアリの会話、という例えがやけにうまく刺さっている。


 どちらかの細く透き通った声が、雨音の中を掻い潜って薄らと聞こえてきた。

「努力しても戻ってこないものはあります。時間とか、家族、とか」


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 いつの間にか季節はぐるりと一周回り、またこの季節に辿り着いた。

 梅雨。

 雨。しかし今日は晴天。

 俺、澤村京谷さわむらきょうやは、高校生活最後の六月を迎えていた。

 高校二年。つまり去年のことなのだが、正直に言うと、あの日以降薄っぺらい一年であった。


 去年の六月。不良少女、多下幸たもとこうのむちゃくちゃな頼みで、タイムスリップを成功させるために協力した俺は、多くの謎を残してきただけで、何てことのないただ周りから見せられた騙し絵の現世に振り回されているだけだった。そんな中でも、何かしら手に入れたんじゃないか、と問われた時にはこの腰の痣を見せびらかしてやろうと思う。


 話は変わって、あの日以前の結末を発表しようとなると俺自身まだ理解できていないことが多すぎて支離滅裂というか、そもそも本題なんてどこにあったのだろうかと思うほど、現実とはかけ離れていた。

 高校生姿の多下幸と会ったのは、あの日の夜の屋上を最後に一度もなく、影も形も見ていない。


 足を滑らせたのか強風に吹かれたのか全く見当がつかなかったが、屋上から投げ出された彼女の身体はあろうことか、地上のアスファルトの上には墜落していなかった。と言っても、ではどこに、という意見があると思うがこれがわからないところで、彼女の姿が完全に屋上の下に消え去った後、急いでそちらに駆け寄ったのだが地上のどこを見下ろして彼女の姿は確認できなかった。


 うまく落ちても軽症では済まされないこの校舎の高さで、仮に着地がうまくできたとしてついさっきの転落からどこかに隠れようなんて思える精神を持った人間が、この世にいたらそれはまぎれもなく化け物のそれだ。だったら、校舎に沿って植えられている中樹木を利用したのかと考え想像してみるもぱっとしない。あの高さで木の枝を掴んだり、クッション材に使おうとしたりできるほど、彼女の身体は逞しくできていたとは思えない。華奢の中の華奢なのだからそんな無理はできないはずだ。


 それに、落ちた瞬間の彼女の表情は、突拍子もなく起きた出来事に対応できなかった、そんな顔をしていた。目に焼き付いているから忘れたことなんて一度もない。そんな表情をする人間が咄嗟に判断ができるものだろうか。屋上から出て一階まで下り、ある程度の範囲を隈なく探してみたが、何一つ彼女に関する物を見つけることはできなかった。


 高校に着くまでに、時間はとっくに零時を過ぎており、昨日、一昨日と身体を休めていなかったからなのか、俺の反応は鈍くなっていたようで、背後に人の気配を感じたのは声をかけられてからだった。俺の後ろにいたのは当時二年生を中心に授業を見ていた、体育教師の片織源助かたおりげんすけだった。


 彼は学校内でも噂の絶えない教師で、ごりごりに鍛えられた逞しい身体と熱血指導を主にすることから、「規格外」とあだ名をつけられており、生真面目な性格から俺が三年に進級した頃には生活指導の先生に任命されている。一年中タンクトップで肌は日焼けをしており、初めて彼を見た保護者からは、校外から来ているボディビルの指導者かと勘違いされ一世を風靡した、とか、災害に見舞われた家族を一人で救った、なんて都市伝説があるような教師だ。正直、深夜に学校で会ってはいけない教師のナンバーワンで間違いないし、その日は不運すぎたのだ。


 何でも、いつも持ち歩いているダンベルを職員室に忘れてきたとのことだったらしいのだが、ついでだ、とかとよくわからない理由を付けて案の定、怒られたという始末だった。一通り説教をしてしまったかと思うと、片織先生自身が持つ教育者としての何たるかを語られ、その猪突猛進に圧巻とさせられた俺は、先生の車に強制的に乗せられて自宅まで帰らされた。帰りの車の中でも片織節は留まることを知らず、俺は多下幸のことについて一つも話すことができなかった。


 片織先生に見送られた後、閉まっていた玄関の鍵を家族で決めたいつもの場所から取り出し家に入った。もう家族全員眠っている時間なので、家中はさらっとした空気の中静まり返っている。小さく「ただいま」と言って、中に入って行くと、たまたまタイミングが合ったのか母とばったり遭遇した。


 俺はその日、クラスメイトの青木という人物の家に泊まっていることになっていて、突然帰ってきた我が息子に驚いてはいたが、特別何か言ってくることはなかった。さっさと行ってしまう母親を一言で制止して、俺が泊りに行っていることを誰に聞いたのか訊いてみると、その人物はすらっとした男性だったらしい。名前は聞いていなかったのでわからないということだったけれど、峰館林高校の生徒とだけ伝えられて母は俺の連れだと思い込んでしまったらしい。両親に対して自分が学校ではぼっち同然なんだ、なんてカミングアウトすることは俺が求める今後の、何も支障のない学校生活を送るのに障害となってしまう。俺はその人物にとんと見当がつかなかったものの、結局適当な理由を付けて、帰ってくることにした、ということだけ伝えた。


 用を済ませて床についたものの寝れるはずもなく、布団の上で寝っ転がりながら幼いほうの多下幸のことを思い出していた。俺の同級生、高校生多下幸と同姓同名で、前から知り合いなんだと言わんばかりにお互い自分との接点について言っていたが、それについてもよくわからない。そういえばと思い、子供多下はあれからしっかり家に帰っただろうかと心配になった。公園まで確認しに行こうと玄関に足を向けたところ、音を感知したのか今度は俺の父親が寝室の扉を開けて声をかけてきた。


 俺の家族は、父、母、俺と三人家族でこれで全員登場したことになるのだが、この父はいろんな神経が敏感にできている。ある意味鈍感な母とは真逆の性格をしており、ふとした瞬間自分の右斜め上で手を合わせて、ぱちん、という音を鳴らしたかと思ったら掌を見てみると蚊を叩いていたことがあった。


 どこにでもある普通の工場で勤務している父は、疲れて帰って来た日などは畳に寝転んでテレビをぼけっとして観ていることが多い。とても神経質なんかに思えないが、この間訊いてみた時、テレビの音が聞こえている中でも蚊の飛ぶ音を聞き取れると変に自慢をしてきたことがあった。今回は俺の足音を自分が寝ているのにも関わらず、聞き取ったらしかった。もう遅いから外出することを許されず、本当のことを話すわけにもいかない俺は父の感覚には勝てないと思い、子供多下はしっかり家に帰っていると願ってまた部屋に戻った。


 それ以降、高校生多下と子供多下の捜索を密かに行っていたのだが、どちらとも今まで見つけることができなかった。両方とも連絡先を聞いておらず、これは自分の落ち度でもあるのだけれど、一人だけその情報を持っていて協力してくれそうな人物を俺は知っていた。


「いないね。この学校の生徒ではないみたいだよ」


 そう言ったのは峰館林高校の長、田嶋俊哲たじまとしてつだった。物静かで一般家庭の優しそうなおじいちゃんのような見た目をしているが、教育方針は理想的なもので固めており、他の教育者を常に見て、それぞれが他の教師たちに不満をもっている生徒たちからしたら好感度はとても高いだろうと思える人物だ。


 あれ以来俺のことを気にかけてくれており、毎日屋上に通っている俺と、天気がいい日に偶に来る田嶋校長とが顔を鉢合わせると、お互いに持っている情報を交換し合って謎解きを始めるのだが、さっきの言葉は以前、情報交換した時に言われた真実だった。


 なかなか取れない時間の合間を縫って探してくれた情報だったが、驚いたことに高校生多下幸は峰館林高校の生徒ではないと言うのだ。初めの頃は俺もそんなことあるわけがない、彼女はしっかり登校もしていて、学校指定の制服まで来ていたことを話してみたのだが、その後何度か再確認してもらったものの、在校生ではない、という事実は最後まで曲がらなかった。


 消息不明になってしまったことも話してみたのだが、どう考えても屋上から落ちてしまって何の痕跡もないというのはおかしい。傍から見ればいろいろと混乱しているように見えるのはきみの方だ、と言われた。俺は疲れのせいで夢現ゆめうつつだったのではないかと田嶋校長の言葉に猛追され、そういえばそうかもしれないと認めたくはなかったが、それ以外に思えることがなかった。


 そんな話をした以降も、偶に会っては情報交換をして、という日々が続いた。今年、俺が進級した頃になると、多下幸に関する情報も底をつき始め、俺と田嶋校長とでたわいもない昔話をしたり、連山に落ちていく夕陽を見ながらただ風に吹かれているだけで話は進展しなくなっていった。そもそも人を見つけられない時点で進展などしていなかったけれど。


 進展のない日々の中、俺の時間は刻一刻と過ぎている。気が付けば高校三年生で、受験生。これだという将来の夢がない俺は、あわよくば父が働いている工場と同じ所に就けれればいいと思っている。去年行われた進路希望調査で、その工場の名前を記載しプリントを提出してみたところ、俺には望み薄ではないかと教師からの通告があった。何を根拠に、と思うかもしれないが俺の実力は校内でも下のほう。正直、ほぼ最下位と言っても過言ではないレベルだ。言い訳するわけではないけれど、去年は多下幸のことで頭が一杯で、日常生活に気を向けている場合ではなかったのだ。腰も痛かったし。そんなこんなで俺は水面すれすれの、勉強するかしないか、という葛藤と闘っている。


 もしかすると、就職先が希望のところではなくなってしまうことに焦りを感じている、という理由だけではないのかもしれない。


 去年はていを取っておきたかった先輩面だが、ひょんなことから、というよりも一方的に後輩を名乗り出るものが現れた。事実上は後輩という立場ではあるが、部活などの組織に属していない俺にとっては広義的な意味を持つ。


「こんにちは、先輩。また怖い顔して悩み事ですかー? それともやましい事でも考えていたんでしょうか」


 噂をすればなんとやら。俺の目の前に来るとお馴染みになった決まり文句とともに彼女は現れる。


 彼女の名前は達宮一たつみやはじめ。峰館林高校に在籍する、高校二年生だ。


 男のように短く整えられたショートカットと、すらっとした体型をしているのが特徴的で、いかにも運動ができますオーラが其処此処に表れている。しかし前に聞いた話だと、身体が弱いせいで子どもの頃から運動はできない状態だったらしく、スレンダーな体型も食が細いからとの理由らしい。ほら胸もないでしょ、と本当に真っ平らな胸部を張り出して見せつけてきたこともあった。高校生になっても栄養不足なら、成長するところもろくに成長しないんだと思ったものだった。


 そして俺に就職への焦りを感じさせた張本人でもある達宮は、勉強嫌いがいやがりそうなほど品行方正で、高校三年生の本質は勉強にあります、と、まあもっともな発言なのだが、俺がどれだけ聞かされてきて、その都度憂鬱な気持ちになったのは言わずもがなだ。


「その顔はやましいことを考えてる時の顔ですね。最低です、先輩」


 ぼうっと考えている合間に不意に声をかけられ驚いた俺は、やましい考えをしていたことを動作で表現することになってしまった。汚れた想像を働かせていたわけではないので、ばれたところで何のことだと流せられる話なのだが偶に、彼女はさとりか何かかと思わされるほど勘が鋭い時がある。俺が登校中考え事をして歩いていた時、進行方向にある電柱に気が付かず頭からそのまま突っ込んだ出来事を言い当てられた日には、ぞっと寒気を感じた。


 考えてねえよ、ともう既に言い訳できないことは承知の上で言ってみる。

 達宮は、知ってますよ、と今回は俺の弁解を素直に信じた。意外だった。


「またいつもの女の人のことを考えていたんでしょ? よく毎日一つのことに集中できますね。私だったら、頭が破裂しちゃいますよー」


 達宮は笑いながらそう言う。

 達宮の言う、いつもの女の人とは多下幸のことだ。六月の某日に起こった出来事をまるまる詳しく話したわけではないが、彼女なりに中心人物を洗い出したようで、何も考えていない時もぼうっとする癖のある俺を見つけると、何かといつもの女の人かと訊いてくる。


 たまたま廊下ですれ違った時に訊ねられることが常だったのだが、最近では、俺より下の学年であるにも関わらず、三年生が主に活動拠点としている校舎二階のフロアにそそくさと入って来ては、俺のいる教室に侵入してくるようになった。本当にご苦労なことなのだが、彼女の中では年齢差などにこれといった決まりはないようで、基本的に誠実な生徒しかいないこの高校の先輩には恐怖なんかは感じないらしい。もともと気にしない性格だからと補足も入れていた。


 それでも同姓の先輩なんかにはひっそりと目を付けられているようで、たまに感じる視線に俺は身を縮こまらせていることが多々ある。逆に異性からも目を付けられているようで、

「違うよ。ただぼうっとしてただけ。早く戻れよ、予鈴鳴るから」

 俺がそう言うと、達宮も時計を確認するやいなや、

「ほんとですね。じゃ、私は自分の教室戻りますねー。また会いましょう先輩!」

 と、言い残して我が教室から颯爽と抜け出して行った。すると、

「おい、澤村。また来てたけど、あの子は誰なんだ?」


 来るのはこの質問である。


 今俺に声をかけてきた相手はクラスメイトの青木あおきという男子生徒で、多下幸とのあれ以来、勝手に仲良くさせられている。正直あんまり望んでいない。


 多下幸が消えるまでの出来事の一つに、俺が青木という人物の家に泊まりに行っていることになっていたが、その時は聞き覚えのない名前の人物は実在していたらしい。デリカシーがないのか、ずけずけと人の家の敷居を跨ぐ人間性で、こうして達宮のことを訊いてくることがある。ことあるごとに、ただの後輩だと言っているのだが、彼は信じていないようだ。


「前にも言ったけど、本当にただの後輩だ」

「そうか。俺にはそんな風に見えないけどな。――てことは、俺がいただいてもいいわけだな!」

 何を言ってるんだ、この阿呆は。


 そんな表情を俺がしていたのか、青木はちょっとだけ不機嫌そうに、

「だってどっからどう見ても美少女だぞ、あの子! お前にはもったいない。絶対」


 そんな断固言わなくてもいいだろうと少々腹立たしく思えたが、俺はいつも通り感情を隠して無視を決め込んだ。

 青木はまだぶつくさ言っているようだったが、何か閃いた顔をして突然話題を切り替えた。


「そういえば澤村、変わったよな」

「は? なんだ急に」

「いや、急なのはお前のほうだよ。去年と今年と俺と同じクラスだったけどよ、そんな話やすい奴じゃなかったよ」

「はあ?」

「なんて言うか、去年は皆言ってたことなんだけどよ。お前って、話すな、ってオーラが人一倍強かったんだよな。でも最近はないんだよ。やっぱ彼女のおかげだったりするのか? なあ?」


 何を言っているかは耳たこになっていたから分かっていた。


 多下幸の消失後、一番変わったのはこの辺だ。高一の頃はあまり気にしなかったので覚えていないのだが、高二の俺は誰がどう見ても嫌われ者、まではいかないものの、確実に他の生徒と距離を感じていた。もしかすると多下幸と関わり合いがあったから周りも敬遠せざるを得なかったのかもしれないが、高三になってからは全くそんな感じを思わせられなくなっており、クラスメイトの数名とは世間話をできるまでには距離を縮められた。その理由はきっと多下幸がいなくなったからかもしれない。そういえば関わりがなくなってからは、普通すぎるくらい普通の男子高校生として生活ができている。もしかしたら多下幸は疫病神だったんじゃないかと冗談半分で思って、心の中で批判してみた。


 他の生徒にも多下幸について訊いてみれば何か知っている人がいるかもしれない、そう思うのだが、もし仮に話をして何もなかった場合きっと俺は高二の頃と同じ扱いになってしまうかもしれない。それにこの件は俺の問題だ。他の生徒を巻き込んで万が一のことがあったら責任が取れない。


 俺は青木から飛んできた問いに、いつも通り関心がなさそうに答える。

「達宮は関係ねえよ」

 そう言い終えた後、後悔した。

「あの女の子、達宮って名前なんだな! 初めて聞いたぜ。お前全然言わないから」

 言うわけないだろ。また面倒ごとが増えるのはごめんだったから。

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