17

 俺は峰館林高校に戻るため踵を返した。


 少女には早めに家に帰るようにと伝えておいたが、ベンチからは動く気配がなかったため、何かあっても自己責任だぞ、と冷たい言い方をしてしまったが、あの少女のことだから大丈夫だろうと思う。


 少女の名前には驚かされたが、特に疑うこともしなかった。高校生多下に頼まれて、人を騙すことができるほどの演技力がある少女だけに、事実を言う時の真剣な表情はどこか違うものを感じられ、確固たる根拠もないが嘘をつく必要もないので信じない意外に選択肢はないだろう。


 雨は今もなお降り続け、俺が峰館林高校に近づけば近づくほどに雨脚が強まっている気がする。それはどこか、俺が多下幸に会わないようにと邪魔をしているようにも感じ取れる。しかし俺はそんなこと意に介さずに、深夜の梅雨空を目的地に向かって足を走らせている。息が上がっては再会して直ぐに話すことがままならなくなると気づき、ところどころでペースを落としつつも、はやる気持ちは後を絶たずに俺を飲み込んでいく。まるで走れば走っただけ暗闇に飲み込まれてしまう、身体に悪い夢想のようで心拍は落ちるどころか跳ね上がる。


 心臓の鼓動を聞き入っているうちに、目的地の峰館林高校に着いていた。

 ほんの数十分前にいたばかりの闇夜の校舎は、俺を歓迎していないことを見てすぐにわかる。それが閉門したことへのものなのか、それとも単に俺自身に向けられているものなのかは定かではない。


 俺は回りくどいことはもうなしだ、と心に誓い、閉じられた門の上に上り飛び越えた。校舎の裏側にある昇降口のほうに行くと、思った通り、戸締りのしていなかったドアがそのままになっていた。俺はできるだけ音を立てないように校舎内に侵入する。誰もいないことが分かっている校舎は思った以上に圧迫感があった。ついさっき来たときは教師がいる時間帯で、その時のほうが緊張感による圧迫があったけれど、ここまでのものは感じなかった。また違った雰囲気が、ずっと重く増しているようだ。


 俺は例のごとく屋上まで続いている階段を上っていく。足音の反響が少ないのはたぶん、俺ができるだけ歩みを慎重にしているからで、これといって特別な空間に飛ばされてしまった、というわけではない。屋上で人と待ち合わせているとはいっても、多下幸がいるかいないかはっきりしていない状態での校舎は、昔読んだ、学校七不思議を綴った児童向けの本の影響もあってか、異世界に飛ばされてしまったと思い込んでも不思議ではないだろう。


 慎重になりすぎて逆に息を乱してしまったが、屋上へと続く扉の前までたどり着いた。学校独特の冷たい空気を自分の肺にいっぱいに蓄え、ゆっくりと生暖かくなった息を吐いていく。ここまで来て多下幸が屋上にいなかったら、また、この階段を下って振り出しに戻らないといけないかと思ったら、憂鬱になってしまったが、扉を開けていない今の状態でそれを考えるのはいささか早すぎると思い、俺は屋上に足を踏み入れた。


 一瞬で屋上の端に人が経っているのに気が付いた。

 今度は正真正銘、高校生姿の多下幸だ。

 俺が多下幸に近づこうとすると、彼女はその気配を察知したのか、来ないで、と相手を威嚇するような声色で俺を制止した。その声はまぎれもなく、何物も寄せ付けない多下幸のものだった。


 地上から離れた遮るものがない屋上の風は、強く重たい雨を軽々と横殴りにかえさった。顔半分にあたる雨が少しだけ耳に入った感覚がして、反射的に手で露を払った。


「暗いね。こんな雨降りの日だったっけ。あの日も」

 彼女は俺から見て横向きになって立ち、何かがあるように左手でものを掴むように形作かたちづくった。よく見ると、彼女が掴んでいるものは飛び降り防止のフェンスの網目の部分のようで、彼女が立っている場所はフェンスを抜けた向こう側だった。


「おい多下! お前まさか、飛び降りるつもりじゃないだろうな」

「どうかな。ここ、濡れてて滑りやすいからもしかしたら落ちちゃうかもね」

 多下幸はいたずらっぽくそう言うと、

「ところで、この辺にメモ帳落ちてなかった? 普通の大学ノートの切れ端なんだけどさ」

 と付け加えて、フェンスを掴んだ逆の手をひらひらさせている。


 俺は少し考えた後、何のことを言っているのかに気が付き、ズボンの右ポケットにしまっておいた聞き覚えがある言葉が書かれている紙を取り出した。

「これだろ? 何かは知らないけどとりあえずフェンス内に戻れ」

「いや。こっちのほうが気持ちがいいし」


 多下幸は俺の心配をよそに、掴まっていたフェンスを離してこちらに向き直り、両腕を真横に真っ直ぐに上げると天を仰いだ。本人に恐怖感はないのか、人差し指でつつけば地上に真っ逆さまに墜落してしまえるほどに、彼女が立たされている状態は危うい。俺が今日初めて屋上に来た時に吹かれた、あの強風がまた吹いたとしたら、それこそ、彼女の身体は空中へと投げ出されてしまうだろう。当の本人も話を聞く気がないみたいなので、彼女の考えを誘導して安全圏まで持ってくる力は俺にはないが、それっぽく心がけて彼女に応えようと試みる。


「わかった。それじゃあこの紙について教えてくれ。これを屋上のフェンスに取りつけたのはお前か?」


 俺がそう訊くと多下は、

「ううん。私じゃない。けど、ちょうどよかったから使わせてもらった」

「使わせてもらった?」

「そう。あんたをここに呼ぶために」

「なんで。……ていうか、お前さっきもここにいたろ?」


 多下幸は両腕を伸ばしたままこちらに顔を向け、不思議そうな表情を浮かべて、「いなかったよ」と答え、

「私その時、あの子に伝えに行ってたんだもん。いるわけないよ。私と同姓同名なんて驚いちゃうよね。漢字も同じ、性別も血液型だって私と同じA型だったし」


「あの子とはどういう関係なんだ?」

「どういう関係もないけど、たまたま街であっただけの赤の他人よ。今はきっと私のこと知り尽くしてると思うけどね」

 そういえば幼いほうの多下幸もそんなことを言っていた。


「なんでそんなこと言えるんだ?」

 俺がそう問うと、多下はあっけらかんとした表情に変わって、伸ばしていた両腕の片方を口許に持ってきて、笑いながら言った。


「さっきから訊いてばかり。わかるんだよ。特別だと……」

「は?」


 多下は俺のどんくさそうな表情を見て、また一歩屋上の端のほうに移動した。暗闇の中、ある程度の距離が開いてしまっている俺からはしっかり目視できないが、彼女のかかと部分は既に外に飛び出していると思われる。俺はそれを察して、多下をそれ以上動かないように制止の言葉をかけようとしてまた、彼女に逆に制止させられてしまう。


「それ以上近づいたら本当に落ちるよ」

「待て。わかったから教えてくれ。なんで――」

「何もわかってないだろ!!」

 俺の声は最後まで言い終わる前に、多下の声によって上書きされた。

「何もわかってない! わかってるって言うならなんで私のことに気が付かないの!?」


 多下の目は激情にかられたように血走って、間違って俺が殺されてしまうのではないかと思うくらいに迫力があった。

 俺の身体は一歩後ろに後退した。


「苗字も変わって、体格も性格も全部変わって。つらいよ! せめて思い出してよ!」


 多下の声はいつの間にか擦れ、震えて、言葉のひとつひとつに何か強い感情が込められているのが感じ取れた。

 さっきから聞いているだけの俺は、多下のあまりにもな感情のぶつけ方に理不尽さを覚え、抑えていたが強く反発してしまう。


「さっきから何言ってんだよ? 全然話がつかめない。もっと具体的に話せ!」

「言ってるでしょ! 逆になんでここまで言ってもわからないの! 昔のほうがもっと素直で可愛かった!」

「は? だから昔っていつだって聞いてんだよ!」


 そこまで言って、多下の口が急に止まった。さっきとは違い、空想の世界を見ているかのように目を丸くしている。その目線に激情は感じられない。


「まさか――」


 何かに気が付いたような声を出した多下の身体は、自然と、屋上の端の向こう側に倒れ込んでいく。数秒としないうちに多下の身体は宙を舞い、自然の法則に習って落ちていく。


 ほんの一瞬だった。

「多下!!」

 気が付いた時には多下の姿は屋上から消えていた。

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