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「なに?」

「いや、なにって……。俺まだ、お前がなにについて助けてほしいのか聞いていないぞ。扉を開ける前に教えてくれ。お前を助けるのはそれからだ」


 多下幸は、あからさまに煙そうな表情をうかべる。

 一呼吸置いた間隔が流れると、彼女はおもむろに口をひらいた。次に発せられた言葉は、まさかこの高校唯一の不良少女からでたものとは、到底思えないものだった。


「私はね、どうしても取り戻したいものを過去に忘れてきてしまったの。正直、それを取り戻せるなら、死んだって構わないって思ってる。一昨日、私が登校を再開しようと思わせた理由が、タイムスリップする方法がこの高校にあると知ったからなの。パソコンでタイムスリップのことについて調べていたら、この高校の名前が上がってた。詳細に書いてあった。絶対にこれは本物の方法だと私は確信した」


 俺は、まだ続きそうな多下幸の話を遮るように、彼女に問うように口をひらく。


「待て。お前、自分が何言ってんのか分かってるのか? タイムスリップって……」


 しかし多下幸の耳には、俺の声は届いていないようだった。


「できる! できないと困る! やらないと始まらない! 私は止まったままなんだ!」


 そう言う多下幸の姿は信念に取りつかれたようで、スポーツ観戦で盛り上がっているサポーターとは違い、ヤケになって話し込んでいるみたいだった。

 多下幸はそのまま続ける。


「方法は簡単で、雨の日。もっと正確に言うと、梅雨の真っただ中のこの学校の屋上から、地上へと飛び込むことで『タイムスリップ』することができるんだ!」

「だからちょっと待てって! お前、正気か? よく考えてみろ。今から行くのは五階まである校舎の屋上なんだぞ? 地上はコンクリートで固められている。中庭は土で、コンクリートほど重々しくはないかもしれんが、打ちどころとかそんな話ではないんだぞ! 言わなくても結果は見えてることだろ!?」

「何言ってんの。タイムスリップするんだから、地面に落ちることなんてないじゃない」


 俺の正当な説明も今の多下幸には通用しなかった。

 彼女は、完全にタイムスリップが成功することを前提として話している。そんなやつに、いくら正当性を説いても、正しい意見を持ち直すことはまずない。


「お前。本当にタイムスリップなんてできると思ってんのか?」

「できる」多下幸の目には一点の曇りも見られない。彼女は本気で、非現実的がこの世に起こると思っているようだった。


 さすがの俺も呆れてしまい、それ以上、多下幸へ抗議しようとは思えなかった。

 いくら不良少女だからとはいえ、生死の判断はできるはずだ。その全てを、常人には理解しがたく思わせるほど、多下幸の思考回路は劣っているというのだろうか。


 俺は屋上への扉とは正反対を向く。

「付き合ってられねーよ。お前、もうちょっとマシな人間になるべきだ。まさか、巡り巡って自殺志願をするとは露ほどに思わなかったよ」

「じ、さつ……? 何言って――」


 俺は多下幸の言葉を遠慮なく遮る。


「俺はパスだ。まだ死にたくはないからな。なんでお前が俺に声をかけたのかは知らないけど、他をあたってくれ。じゃあな」

 俺はついさっき上ってきた階段を下り始める。


「おい、ちょっと待てよ京谷!!」


 多下幸の声は、階段の途中にいる俺を突き抜け、フロアから天井まで響き渡った。やまびこのように、多下幸の声が何度も俺の耳に入ってくる。ほどなく小さくなっていった声の中に、鼻をすする音が混ざっていることに気が付いた。

 俺は瞬時に振り向いた。


「多下……?」


 多下幸は泣いていた。

 電源がついたままの懐中電灯は、多下幸の手の中にあるものの固定されていなく、意味無くふらふらと揺れながら、彼女の足下を照らしている。雫が落ちる微かな音が俺の気持ちをふらつかせた。


 いつもなら前髪で隠れてしまっている顔も、俯瞰からの目線で初めて全体を目に収めることができた。薄明りの中のため、ところどころ影ってしまい輪郭はしっかりしていないのだが、彼女の顔はまるで成功に作り上げられた日本人形のように整っていた。目から滴る涙は、あどけない顔立ちを限界まで引き立たせている。涙を拭うことまで気が回っていないのだろう。多下幸は怒りにも悲しみにもとれる表情で、声を絞り出す。


「助けてくれるって、言った、じゃんか。うそ、ついてたのか……?」


 今にも吐き出しそうに嗚咽を繰り返している。嗚咽を我慢しながら話しているせいか、言葉が途切れ途切れに刻まれる。


「助ける承諾をしたつもりないし、お前、目的を先に言ってくれなかったじゃないか。説明してくれるのかと思った矢先に、自殺志願し始めるし、何がやりたいのか分からないんだよ」

「昔は、何も言わずに、助けてくれてたじゃねえか……」

「昔? 俺とお前は高校に入ってから知り合っただろ。何のこと言ってるんだ、お前?」


 その瞬間、多下幸の表情はかちかちに固まった。

 今まであった涙は途端に止まり、彼女の背後からは冷たい空気が出ているみたいで、辺りを凍らせていくのが見える気がする。俺はその場から動くことができなくなった。

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