5
あまりにも長い沈黙は、多下幸の硬直と相俟って夜の校舎を凍てつかせる。
お互いに見つめ合う、というよりも睨み合いが続いており、どちらが先に手を打つのか探りあっている状況のまま時が流れていく。ふと、時間が気になった。高校生だからといって、深夜の外出は基本的に許されていない我が家から出るには、あらゆる手段が必要だった。布団の中に、丸めた布団を入れ込んで寝ているようにみせかけるなんてことを生涯やるなんて思ってもみなかった。家から抜け出すのも、最大限のスローモーションな動きでこっそりやったものだから、絶対にばれていないなんていう確信は持てなかった。それだけのリスクがあるのだから、時間が気になり始めるということは、想定以上に外出時間が長いと感じたからだろう。
このままでは状況の変化は望めない。
先に口をひらいたのは、俺だった。
「おい多下。いろいろ話が見えなくてお互いに混乱してるんだ。とりあえず、この話は一旦保留にして後日話し合おう。これじゃあ突拍子過ぎるし、お前の考えも理解できない。親御さんにもばれたらまずいだろ? 今日は終わりにして帰らないか?」
「できない」
答えは早かった。
「できないって……。しかしだな、ここは深夜でも学校なんだ。声だってもしかしたら響いて、近隣住人には聞こえているかもしれないし、懐中電灯の明かりだって、これだけくらい建物の中で動き回っていたら誰だって不審がるだろ? さっきお前が言ってたタイムスリップの方法だって、雨の日にやらなくちゃいけないんじゃないのか?」
そう。今日は六月半ばの久しぶりの晴天だった。昨日まで雨は降ったり止んだりを繰り返していたが、今日に限っては星空が見えるまで天候は安定していた。タイムスリップの方法を信じているわけではないけれど、盲点というほどのものではないものの、手順に無いものがあれば多下幸もおとなしく引くと思っていた。
しかし、俺が思ったように事は進まなかった。進むはずもなかった。
「うるさい!!!!」
多下幸の声はさっきよりもより校舎全体に響き渡った。
「おい! でかい声出すなって!」
「関係ない! 私は今ここで全部やらないといけないの! 一日過ぎればまた、いろいろ変わっちゃう! 私は一分一秒でも早くあそこに戻らないと、戻らないと……」
多下幸の声は次第に小さく細くなっていった。俯いた顔は階段の下の段からよく見え、彼女の頬を伝う涙は止まっていた。泣くのを我慢するためか、歯はぎりぎりと音が鳴りそうなほどに強く噛み締められている。懐中電灯を握る手にも力が入り、小刻みに震えている。
震えがだんだん大きくなり、その反動か、自分の意志かは分からない絶妙なタイミングで、多下幸は持っていた懐中電灯を手放した。懐中電灯と床が接触する音が、がんっ、っと俺の耳に響く。一瞬、耳を塞ぎそうになった俺の視線は、物体と連動しているように勝手に動き、斜め頭上を見上げていた。
多下幸が宙に浮いている。
それは、映画のワンシーンのようにスローモーションに見えた。
多下幸の脚は、完全に床から離れている。小間切れに少しずつ勢いは失速していき、多下幸の身体はゆっくりと重力に誘われていく。床に落ちるのは時間の問題だった。この軌道では踊り場までは行かず、階段の途中に落ちてしまう。角ばっている段差に頭でも打ち付けたりしたら、ケガでは済まない可能性もある。
俺は無意識に多下幸の身体を支える態勢をとっていた。
受け止められるはずがない。それでもうまく勢いを殺せば軽症で済むかもしれない。痛みはたぶん全部俺に来る。大丈夫か? いや、悩んじゃいけないだろ!
心の声が交錯しあい、ひとりの俺が気合に満ちた声を上げ始める。
その瞬間、多下幸の身体は俺の身体にぶつかった。胸の辺りから徐々に下の面まで接触していく。勢いを殺すために軽く膝を曲げてみるものの、そんなこと全く意に介さないように、数倍に跳ね上がった重量が俺の身体全体に躊躇うことなくのしかかる。それに伴い、俺の身体は後ろ側に反れ始め、階段の中段から踊り場へと吸い込まれる。
「(死んだ)」
俺はとっさに目を瞑った。今更この状態で神頼みしたところで、奇跡的なことが起こるわけがない。多下幸が都合よく、空を飛びそうな石を持っているはずもない。一瞬の出来事のはずが、俺の脳内には記憶のある数年前までのシーンが、川のように流れていく。
どっかのデパートの屋上にある小さな遊園地だ。母親が近くのベンチに腰掛け、笑顔でこちらを見ている。
プールにも行ったことがあった。隣で支えてくれているのは、たぶん父だろう。そういえば泳ぎが苦手で練習に付き合ってもらったことが何度かあった。
真っ白だ。ここはいったい……。扉が開いた。『いつもの子だ』。……『いつもの子』ってなんだ?
そこで俺の脳内スライドショーは終わりを迎える。
俺は次に来るであろう衝撃に備えた。
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