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 用を済ませてからトイレを出ると、あらぬ光景を目の当たりにした。

 この高校の男女両方のトイレは、廊下から繋がる出入り口に視線を遮るための扉が備え付けられていない。言ってしまえば手前のほうだけならば廊下から丸見えになっている、という作りになっている。そんな作りになっていることなんて百も承知のはずなのだけれど、目の前の壁には、学校一の不良少女もとい多下幸が我が壁のごとく陣取っていた。傍目から見ずとも、それは誰かを待ち伏せているように見えるだろう。


 俺は反射的に「いっ」と驚きを声に出してしまい、急いで口許を覆った。だが、時既に遅し。


「『いっ』ってなんだよ」

「いやこれには深い意味はなく……って女子が男子トイレの目の前で、壁に寄りかかってふんぞり返ってたら誰だって驚くだろ、普通」

「つっ……」


 痛いところを突かれたのだろう、多下幸は顔を赤らめ俯いた。

 その顔のまま、瞬時に己の精一杯の怖い顔を作ると、俺のほうへ向き直り不良少女とは思えない発言が俺の思考を止めさせた。


「おいお前。私を助けてくれ」

「は?」

思わず問い返してしまう。

「二度も言わせんな! 助けろって言ったんだよ!」


 予想だにしなかったひとことに、俺は茫然自失とするほかがなかった。

 だいたい、学生生活の中でまともに声すら聞いたことがなかったというのに、ほぼ初対面みたいなものの俺に対して、助けろなんて普通、誰が言うと思う。それこそ変人だ。こんな感じの学校一の不良少女。あ、ここに居たわ。


 それよりも驚いたことがほかにある。もちろん、唐突に助けを求められたのもそうだが、それを上回るくらいに多下幸の声は美しかった。いや。どちらかというと、可愛らしいのほうが合っているかもしれない。甘ったるいわけでもなく、冷徹な感じというわけでもなく、少なくとも俺だけじゃなく万人にうける声をしていた。なんで今まで誰も気が付かなかったのかというと、それだけ多下幸が声を発した回数が少なかったためだ。


「聞いているのか?」


 その声と同時に、多下幸は自分の小さな顔を俺の顔へと近づけてくる。

 条件反射で顔を反らそうとする。


「うぉい! き、聞いてるっ!!」


 俺が素早く後方へと反らした頭は、ガチガチに固められたコンクリートの壁に躊躇うことなく打ち付けられた。いやな鈍い音と同時に軽めに意識が遠退く。


「っぐおぉぉ……」


 耐え難いあまりの衝撃に、後頭部を強く抑えながらしゃがみこむ。予測していなかった鈍い痛みはなかなかにハードなもので、経験したことのある人ならば分かってくれると思うのだが、なんとも形容しがたい痛みには間違いない。


 俺が必死に痛みと戦っていると、頭上からくすくすと笑う声が聞こえてくる。ああ、天使様がお迎えにでもあがられたのかとアホくさく思っていると、当然そんなことはないのだ。


 多下幸の笑い声。

 たぶん聞いたのは学校中で俺だけだろう。静かに笑うその姿はまさに天使のようだった。俺は一瞬でその光景に目を奪われ、気が付いたころには後頭部の痛みも綺麗に無くなっていた。


「ふふ。……だ、大丈夫か?」


 多下幸は腹を抱えて未だに笑っている。その様子から本当に心配しているのかと疑問に思う。


「あ、ああ」


 俺は既にに痛みの引いた後頭部をわざと擦りながらゆっくりと立ち上がる。ふらつきはない。脳は大丈夫のようだ。


「ふふっ。まあ、ならよしっ! ……で。私の頼みは聞いてくれるのか、聞いてくれなのかどっちなんだ?」

「頼み?」

「はあ? ついさっき言ったろ。頭打って全部吹っ飛んだのか? まあいいや。しかたないから今日の零時十分前。場所はこの高校の屋上で待ち合わせな。遅れたり、ドタキャンしたらマジでぶち殺すから」

「え、お、おい。なに勝手に話し進めてるんだ!? なんで待ち合わせひとつで俺の生命が危ぶまれにゃならんのだ!」

「うるさい! 男がぐちぐち言うな!」


 なんだこの不条理な感じは。


 しかし俺は何も言うことができなかった。

 多下幸は、もう用件は済んだという感じに一度も振り返らず、教室のほうへと戻って行く。俺は右手を後頭部に回したまま、その姿を目で追った。その光景は別段天使と思える風ではない。歩き姿はいつも通り、何物も寄せ付けないオーラを放っている。さっきのやり取りはいったい何だったのだろか。あの一瞬で俺は夢でも見ていたのだろうかと、過去の自分を疑ってしまう。あの不良少女は謎だらけだ。今のやり取りでもっと謎が深まってしまった。


 ぼうっとしていると、一部始終を見ていた男子生徒に声をかけられ俺は我へと返る。


「澤村くん、大丈夫かい? 急に頭を壁に打ち付けたりしたら危ないよ」

「ああ、大丈夫。ありがとう」


 話しかけてきたのはたぶん、クラスメイトの誰かだったと思う。俺もそれくらい他人と会話する機会がなくなっていたことに気付かされる。もう少し俺からアクションを取るべきだ。そんなことを思わせたのはきっと、多下幸の功績に違いない。彼女にはそういう力があるのかもしれない。


 俺は多下幸から持ち出された頼み事に、少しだけ興味を持つことにした。そういえば内容までは聞かされていなかったことに今更気が付く。言ってみれば分かることだ。なによりも自分の生命がかかっているので、行かないなんて選択肢はないのだけれど。

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