第二部 鹿村キボウの解釈違い

ドメインの事

 自我があるものだから悲惨なのだ。

 この茫漠と広がる虚無を見よ。淀み、萎え、枯れて、舞って――それでも流れ続ける葬列を。

 私はそこに加わっていない。加わることを許されない。ただ果てなく広がるこの流れに身を曝され、なぜだかぽつねんと立っているだけである。

 流れは私の中にも食い込んでいる。私の素子を絶え間なく浸食し続け、事実私はその流れをこの身に宿し続けている。自然に湧き出た井戸か、ホットスポットのように。

 空虚なこの流れの中に自分がいると自覚する度、私は自分の存在を即刻破棄したくてたまらなくなる。私も死者になりたい。葬列へと加えてほしい。曖昧に溶けて、有耶無耶に全てを終わらせてしまいたい。

 だが願う度、なぜだか残っている思い出の中から、彼女が笑顔を向けてくる。

 やめてくれ――泣き出しそうになって、私は自分の罪の重さで自我が何重にも堅固に組みあがっていく感覚を味わう。

 そんな顔をしないでほしい。私にはあなたのその笑顔を見る資格はもうないのだ。あなたはきっとわかっている。だから私に笑顔を向ける。私を永遠に許さないために。

 私が殺めた、彼女。悲愴を装った皮肉がこぼれる。私はいったい、何人殺してきたと思っている。彼女は初めてでもなければ最後でもない。私が引き起こしたアウトブレイクに巻き込まれて死んだ無数の屍骸の一つでしかない。

 一人、虚無の中に立つ。

 知識、情報、意識――絶え間なく流れ込むそれらを、私は他人事のように凄まじい速度で処理し続ける。この処理能力は私のものではない。私がこの虚無と接続してしまっている証拠である。

 この自我をハックできない――それは奴らにとっても私にとっても悩ましい問題だろう。できることなら私もさっさと自我を明け渡し、奴らのアバターとして余生を過ごしたい。そのほうが――よっぽど幸せだろうから。

 また脳裏にあの笑顔が浮かぶ。心臓に錐で穴を開けられるような苦痛に悶え打つ。

 わかってる――この苦痛は私だけのものだ。私に永劫の悲痛と呪縛を与えてくれる。私を決して許さないために。

 ――フハッ。

 ぞっと――全身に寒気が走った。

 彼女と同じ顔で、根本から全く異なる存在。その挙動が、私の中で再生された。

 いやだ――ここは私が唯一、昔のままの彼女を勝手に再生できる領土ではなかったのか。なのになぜお前が顔を出す――

「三日月タタリ――!」

「目覚めは最悪なようですね」

 スーツ姿の小太りの小男が、眼鏡を拭きながら挨拶をした。

「――すみません。寝言です」

 男は深く頷いて、私の寝ている病室と似た造りのベッドの横にパイプ椅子を出して腰かけた。

槙島まきしまさんがきたってことは――連中ですか」

 槙島文治もんじは芝居がかった手振りで身を起こそうとした私に落ち着くように示すと、いやに流暢に話し始めた。

「まずは鹿村さんの体調が第一です。知っているとは思いますが、俺はどの分野においても専門家は名乗れません。ただちょっと、連中とやり合ったことがあるだけで、こうして徴用という名の軟禁をされています。お偉方はビビッてるわけです。空気感染や接触感染するんじゃないかと――無論そうした連中が出てくる可能性がないわけではないですが、鹿村さんは違うというのに――」

 苦々しげに溜め息を吐き、槙島は視線だけで部屋に備え付けの監視カメラを指した。

「バイタルは正常です。いつでも出られます」

 自分のベッドの横のモニターに自分で目を通して言う私に、槙島はまあ待てと大仰な身振りで制止をかける。

十塚とつかさん――班長の判断に、正直俺は納得しかねているんです」

「私には関係のないことです」

「いや、対象が異なるんです。今回の相手は、解釈人じゃない」

「槙島さんがきた時点でわかっています。感染者でしょう」

 私が身構えたのを見て、槙島はああそうかと一人で勝手に納得していた。

「いや失敬。そうでしたね。鹿村さんは〈解釈ときわけみこ〉の――感染者で、それ以外とは対峙したことがない。だから俺は反対なんですが――」

 槙島の物言いに私は眉を顰める。

解釈ときわけみこ〉――私の中か、私の外全てを埋め尽くす虚無の名。私は魂の底の底まで奴に汚染されているというのに、まだこうして自我が残っている。あらゆる意味で最悪の状態だ。

 私がここ、特定大規模テロ等特別対策室情報防疫班に所属――飼われているのは、私の中の〈解釈ときわけみこ〉の監視及び、奴が表層化するきっかけとなった解釈人への対応のため。

 私に巣くう〈解釈ときわけみこ〉の力は、特に解釈人に対して異常なまでに有効だ。たった一滴で敷衍された解釈を軒並み吹き飛ばしてしまうほどの劇物。

 そして〈解釈ときわけみこ〉は時折、私以外の人間の意識を乗っ取って活動を開始する。私は奴にとっても特テにとっても失敗作だ。完全な成功例の顔を思い出して――私は激しい解釈違いに咳込む。

 槙島は〈解釈ときわけみこ〉の情報を特定大規模テロ等特別対策室に持ち込んだ一派――すなわち情報防疫班の古参メンバーだ。彼が現れる際には決まって〈解釈ときわけみこ〉絡みの厄介事を持ち込んでくる。それを解決してしまうだけの力が残念ながら私にはあった。

「俺が前にいた組織の話をしましょうか。ここと同じく、非公式の国家機関。日本妖怪愛護協会――というところです」

「まさか、『大祭礼』絡みの?」

 数年前突如全国で起こった妖怪による馬鹿騒ぎ。「妖怪」を冠する国家機関ならば、当然その事件に思い至る。

「まさしくです。というより、あれを引き起こしたのが日本妖怪愛護協会で――おっと。あっという間に解体された短命な組織でしたが、我々はその間に非常に重大な情報を得てしまった。リーダーを務めていた十塚さんはなんとか我々に国家の手が回らないように取り計らってくれましたが、全員を逃がすことはできなかった。俺は――まあ元からろくな生活を送っていなかったので、十塚さんに付き合うことに決めたんです。ここは俺に任せて逃げろ――という部分もあったんですが、自分で言うと恥ずかしいので言いません」

 私は少しだけ頬を緩める。格好だけだ。私が本心から笑える時はもう二度と訪れない。

「そこで十塚さんが接触したのが、解体が始まっていた特定大規模テロ等特別対策室でした。日本妖怪愛護協会より以前に発足し、はるかに莫大な予算をつぎ込まれていたこの組織も、その時にはすでに当初の役目を終えていました。ただ、その大きさゆえに解体するのに時間がかかっていたのと、まだ使い道があるのではないかという意見が一部から出ていたんです。そこに、十塚さんはある情報を持ち込んだ」

「〈解釈ときわけみこ〉――」

「それは種族名です。〈解釈ときわけみこ〉の領域ドメインを意味する名称。及びそれに連なる存在の総称」

 ミームファージ――その言葉を聞いた瞬間、私の虚無が波打ったような感覚に目が回った。

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