2
伯父はまず、自らをそう称した。
ここだけは絶対に譲れない。それが、その認識だけが、自分をこの世に繋ぎ止める魂の綱なのだとでも言いたげに。
「ところがだ、タタリちゃんがオジサンの前に現れたあの時、その前提が危うく崩れそうになった。いや、オジサンが邪悪であることは、タタリちゃんも全くその通りだと肯定してくれた。度し難いクズとまで呼ばれて、そうだろうそうだろうと喜色満面のオジサンに、タタリちゃんはふと、天気の話でもするように何気なく言葉を投げかけた」
――自分が幸せになれんなどと思っとるようでは、まだ二流ですよ。
「オジサンは、あらゆるコミュニケーションツールを含めた中で、多分初めて慌てた。平静を装う余裕すら失うほどまでにね。それは、オジサンという人間が獲得した命題であり、宿運であり、解答であったからだ。つまり、オジサンという人間は、絶対に幸せになることができない――というね」
僕の顔を見て、いやそれは違うと伯父は笑う。
「順番を取り違えちゃ駄目だ。まず、オジサンが生まれついての邪悪であるという事実がありき。決して、生きてきた過程で歪んでしまったなんていう三流なんかじゃない。ただまあ、オジサンがこの邪悪を世に振りまいていくうちに、その結論に至ったのは確かだね。オジサンはカリスマでもないし大義もない。ただ自分の気の赴くままに、人間が破滅していくのを眺めているのが好きなだけだ。前にも言っただろう? 世の中のあまねく人間が全員破滅すればいいと、本当に常々思っているんだよ。それはつまり、人間というものを虚仮にし続けるということで、誰もいない高台から燃える下界を見続けるのが楽しくて仕方がない。問題はだ、社会で生きていく中で、オジサンが、真っ当な良識というものを植えつけられてしまったことだね」
現状、伯父は犯罪者ではない。底知れぬ邪悪を湛えた人間が社会に溶け込んでいるふりをするのには、当然社会常識は必要になる。
もっと言えば、伯父は無数のパーソナリティをネット上で使い分けている。その基底には絶対に人間の性質の把握というものが必要になる。
人間を虚仮にすると言いながら、それを行うために誰よりも人間を知っている。常識も、良識も、醜さも――あるいは、尊さも。
「自分が真っ当な人間でないとしっかり理解できている上で、真っ当な良識をきちんと知識として持っている。オジサンの思考は自分のものだけど、オジサンの良識は外付けのハードだった。別にそれで解釈違いに陥るほど繊細ではないよ。なるほどなるほどと理解できる。だけどもそれで行動が制限されるようなヘマはしない。ただ単に、オジサンが絶対に幸せになれないということがわかり続けていくだけだった。めんどくさいなあとは思ったけど、吹っ切れてしまうと今まで通りのことができなくなってしまう。人間が破滅していくのを眺めるのは本当に楽しかったし、良心の呵責なんてものを覚えるような半端者じゃない。この曖昧な辺りを飛んでいるのが結局正解だったんだ」
そして、タタリさんはその内面を言い当てた。
解釈の余地はあった。伯父のアカウント群。〈
そして実際に伯父と向き合ったタタリさんは、いともたやすく伯父の解釈の余地に介入した。タタリさんの正体を伝えられていた伯父であっても、そこに踏み込まれることは予想できなかった。あるいはタタリさんに指摘されるまで、自分でも気付いていなかったのかもしれない。
「こいつは危険だと、オジサンの極めて個人的な意識が叫んだ。というより、時すでに遅しで、オジサンはすっかりタタリちゃんに解釈されてしまっていた。ただし、オジサンは断じて解釈人ではない。自分の解釈なんてものは時と場合でいくらでも替えが効くし、右手がやられたら左手で殴ることができる。だから気をつけて気をつけて、タタリちゃんと接触する度に隙を見せずに隙を狙い続けた。同時に月夜ちゃんを使った実験も進めながらね」
僕が嫌悪感を顔に出さないことに不満げに溜め息を吐く。そんな自分のあずかり知らぬ過去の悪事に眉を顰める余裕は僕にはなかった。この期に及んでまだ僕からの侮蔑がほしいのかと呆れる余裕もないし、人間性が一貫しているのだというアピールであることに気付くだけの余地もない。
「妖怪――〈
僕の顔を見上げて、伯父はにっこりした。
「どうやら、オジサンはすっかり道を間違えていたらしい。一つだけ、オジサンが表情をさらけ出せる例外に思い当たった。単純だが、まず考えられない。オジサンも最初は自分の正気を疑った。でも、結局はそれ以外に考えられない。つまり――気を許したんだ。三日月タタリという存在に、すっかり気を許してしまっていた」
年単位――伯父は僕を使った実験にそれだけの時間がかかったと言った。つまりはその間、伯父とタタリさんはしょっちゅう顔を合わせていたことになる。
ろくな人間関係も築けないこの男が、あのタタリさんと定期的に会っていればどうなるか。多分、伯父の邪悪さより、タタリさんの「面白さ」が勝つ。
いやむしろ、タタリさんにかかればこんな相手は、はっきり言ってちょろいだろう。
「怖かった。明確な恐怖を、初めて覚えた。こんな社会のゴミが、他者に自分の内面を露呈させてしまったという、凄まじい申し訳なさで気が狂いそうだった。そしてその感情を、リアクションとして起こしていた。また解釈をされると思うと完全にパニックになった」
――フハッ。
タタリさんのよくわからない吐息。それを真似た伯父は、そのままタタリさんの真似をしてタタリさんの言葉を再現する。
――タタリさんは、あんたを理解できんですよ。
「これでもう、オジサンは絶対にタタリちゃんに勝てないとわかってしまった。オジサンがなにを恐れて生きてきたのか――自分でもわからなかったその答えを、タタリちゃんは先回りしてとっくに気付いていた。簡単な話だった。理解されること――それが死ぬほど怖かった。オジサンは邪悪にしかなり得ないし、それが当然だと自分でも理解してる。だけど、自分ですらよくわかっていない自分のことを、もし他人に理解されたような顔をされたら――多分オジサンは無期懲役か死刑を食らってさようならだ。理解されないことが自己を理解する唯一の手がかりであり、世間一般へのアンチテーゼであり、自慰行為のオカズだった。そんな社会のゴミのちんけな尊厳を、タタリちゃんは認めてくれた。タタリちゃんなら、オジサンを理解して――解釈することなんて造作もないのはわかり切っている。それでも、タタリちゃんはオジサンを理解しようとしなかった。助かった――救われた。そしてタタリちゃんは、オジサンがこそこそ実験をしていることを指摘した」
答えを僕はもう出している。伯父の策略ではない。それがありえないということを、伯父は長々と説明してきたのだ。
「バレちゃったかーなんて笑ってたら、タタリちゃんは初めて見せる真剣な表情で、ぐいと迫ってきた。その人物を自分にぶつけろと、涙ながらに懇願されたよ」
どこまで信じていいのか――僕にあえてそう思わせるための、なげやりな口調。
「タタリちゃんが存在しているということは、すなわち常に解釈をし続けているのと同義だ。解釈をし続けなければ存在することができない。泳いでいないと呼吸ができないマグロのようなものだね。その状態を維持し続けるには、タタリちゃんの人格はいささか――怠け者すぎた。いや、無論タタリちゃんは一切の手抜きをしない。それこそ死ぬ気で、解釈をひねり出し続けてきた。生きるために必死でなければ、怠け者になる資格はない。ただ、タタリちゃんが生み出された経緯と、彼女が存在するということによって起きている事態を考えると、だ」
解釈人が跋扈し始めたことによって失われていった解釈の余地。それを奪い返すための対抗措置として〈
キボウは自分は媒介者にはならないと言っていた。だが、タタリさんについてはなにも言っていない。タタリさんが現れてから、〈
タタリさんの人格が〈
タタリさんが存在することで、自分の意思とは無関係に媒介者になってしまっていた。そしてタタリさん自身は、それを快く思っていない。
いや、もっと言えば、解釈人にしても同じだ。
解釈人が存在することは新たな解釈人の萌芽の呼び水になる。タタリさんはそれを解釈して回っていたが、それは果たして新たな解釈人の萌芽の歯止めになっていたのか。土師市は最初から解釈人で溢れ返っている。タタリさんが雑魚を処理し、仲裁に入ったとしても、解釈人はどんどん生まれていくだろう。単に解釈の余地というリソースを確保するため――タタリさんが存在するためにやむを得ずやっていたにすぎないのではないか。
そのために解釈を破却する――解釈違いに陥らせることを、タタリさんは本当に望んでいたのか。
「自分が存在していることが――」
解釈違い――だった。
「そうだね。オジサンもすぐに納得した。ただ、ただなあ、この人にだけはどうか幸せになってほしいと願った数少ない存在に、自分を殺してほしいと言われた気持ちはどうにもならなかった。タタリちゃんの心情には納得できる。オジサンの個人的な心情は加味する価値もないのも道理ではあった。ただ、さらに最悪なことに、これからタタリちゃんを殺すことになる相手は、オジサンが生まれて初めて他人の幸せを願うということができるようになった存在だった」
顔を伏せ、胡坐をかいた膝の上で握り拳を白くさせている。呆然と言葉を失くした僕の表情を窺うことすらしない。見なくてもわかる――いや、見るのが怖いのか。
「これが、絶対に幸せになれない人間がおこがましくも他人の幸せを願った報いかと、無性に笑えてきたよ。だからせめて、月夜ちゃんがタタリちゃんを好きにならなければいいのに――なんていうのも無理な話だった。タタリちゃんを好きにならない人間はまずいない。それどころか、タタリちゃんに依存してしまうようにお膳立てを自分でしておいたんだからね。そして――月夜ちゃんによってタタリちゃんは消滅した。ここまでいいことが一ッつもない結末もそうはないんじゃないかな。タタリちゃんは消え、月夜ちゃんにもまた、タタリちゃんを失った痛みを与えて、その上自分が原因なんだと突きつけるんだから。オジサンは別にしても、見事にだーれも幸せにならないときている」
「それは、伯父さんの見方だろ」
僕はこの男を理解できないし、したいとも思わない。幸せになれないなどと宣うなら放っておけばいいだけの社会のゴミだという認識も揺るがない。
だが、僕の、僕自身の解釈にまで、この男の悲観主義が割って入ることは――認めない。
「僕は、タタリさんに出会えてよかったと思ってるよ。出会ったことで消滅に向かうしかない関係だったとしても、僕がタタリさんと一緒にいたことで得られたものは変わらない。タタリさんに出会わなければ、今ここの僕は存在しなかった。だから、ありがとう」
そうだ。照れろ。苦悶しろ。僕から真っ当な感謝を伝えられることが、この男には劇毒だと知っている。それが、あの話のあとならなおさらだ。
「タタリさんと出会わせてくれて。少なくとも、僕は幸せだった――これからも」
あまりの衝撃に、伯父は一切の感情を失ったように硬直した。そのまま互いになにも言わず時間だけが過ぎていき、睨み合いに負けたように先に溜め息を吐いたのは伯父のほうだった。
「じゃあこれからの話をしよう。タタリちゃんは自分の死期を悟り、解釈人の一掃を試みたが、これは途中でタタリちゃんの消滅によって頓挫した。今は探偵くんが東奔西走して事態の収拾を図ってくれているが、一度起こった大混乱はそう易々とは収まらない。長老格が何人か落ちたんだから、これは当然だね。さて、月夜ちゃんはどうする?」
切り替える――互いの意思を確認し合う時間はさっきたっぷり取っている。この男にしてはかかりすぎているほどまでに。
「僕は――解釈違いを許容できる人間でありたい。それを他人に強制することが無意味だとも理解してる。でも僕は、解釈違いであることを認めて、受け容れていられる緩衝地帯になりたい」
「ははは。それじゃあまさにオジサンの商売敵じゃないか。でも、月夜ちゃんのその反吐の出そうな理想論に、ついてきてくれる人はいるだろう。探偵くんはきっと賛同するだろうし、下野したあのエディターも、わずかにではあるが復調の兆しを見せている。月夜ちゃんが声をかければ、味方についてくれるはずだ」
伯父が素早くスマホを操作すると、僕のスマホが鳴動する。名義を変えて活動しているエディターのアカウントを伝えたのだと、確認せずともわかる。
「もちろんこれまで通り、暴れ回る解釈人を放置しておくのは危険だ。鹿村くんはタタリちゃんが消滅したことを報告するためにしばらくはここに残るだろうから、手を貸してくれるだろう。タタリちゃんが月夜ちゃんに接触した目的は、実はもう一つあってね」
「後継者――だろ?」
「その通り。タタリちゃんのやっていた仕事を引き継げるだけの人間として、月夜ちゃんを見出していたんだ。ああでも、月夜ちゃんなら、タタリちゃんよりもっと、彼女の理想に近づけるだろうね」
三日月タタリという存在は存在しない。
言ってしまえば、それは最初からそうだったのだ。
解釈の余地という空白に映る幻のようなもの。僕たちが勝手に空白に投影して、勝手に知覚した気になっていただけ。
綿貫さんと再会した僕は、全てを話そうとしたが、その前に綿貫さんに止められた。綿貫さんもやはり、タタリさんが人間ではないことは理解していた。
「それでも三日月先生への私の解釈は、私だけのものにしたいんです」
僕はそれをしかと承り、自分のこれからの立ち位置と、そこへの協力を願い出た。
タタリさんの指示通り、混乱に乗じて自分の領土を広げていた綿貫さんは、自分は所詮解釈人にしかなりえないと自嘲してから、自分の領土を明け渡す気は毛頭ないと明言した。その上で、綿貫さんという今や強大となった戦力は、そのまま僕のバックアップだと考えてもらって構わない――と請け負ってくれた。
表舞台から姿を消したエディターに、伯父に伝えられたアカウントから以前のことを話して接触を試みると、まず佐藤太郎というキャラシへの率直な意見を求められた。僕はそのまま、「浅い」というあの時思った感想を伝えた。
口汚い罵詈雑言が返ってきたが、僕がそれに「バトル」をしかけるわけでもなく応え続けると、次第に新しく書いた設定やキャラクターについて自然な意見を交わしているという関係になっていた。
もしもまた自分が表舞台に解釈人として出てくることになったら、その時はお前に付き合ってやる――リアルで顔を合わせた時とは違う、汚い言葉遣いでエディターはそう約束してくれた。
キボウはしばらくの間、僕と組んで暴走する解釈人の処理に当たってくれた。
三日月タタリの消滅の確証が得られるまでだ、と前置きをして、タタリさん不在の土師市でそれこそ以前のタタリさんのように鮮やかに解釈人を解釈して回った。いずれにせよ、悪質な解釈を振りまく解釈人を放っておくことはできない。
キボウが否定したあとで、僕が否定しないとひとこと言い添える。無論キボウに解釈されたことで敷衍された解釈は全て吹っ飛ぶが、その人の全てを否定したわけではないのだという逃げ道を作ってやる。上手くいったかどうかはわからないが、キボウが忌々しげに僕をじっと見ているだけで文句を言ってこないことがなんとなく自信にはなった。
キボウが現地で働くことはどうやらタタリさんが消滅した可能性ありと一報を受けたお偉方の意向でもあったらしく、予想よりも長く土師市に留まることになった。
綿貫さんと談笑し、エディターに罵声を浴びせられ、キボウが僕の前では常に素でいてくれるようになり、半年が過ぎた。
その間、僕は誰にも言わず、もちろん見せず、この文書をこっそり書いていた。
絶対に人目に触れさせてはならない――というより、どこかで公開した時点で、特定大規模テロ等特別対策室か、あるいはもっと怖いところに僕は拘束されるだろう。
キボウは僕という特異点について、上には黙ってくれていた。タタリさんが消滅した理由も、耐用限界で押し通すつもりらしい。
ただ、誰にも見せることができないのだとしても――タタリさんの面影を、なにかに残しておきたかった。
明日、キボウが土師市を去る。事態が完全に収束したわけではないが、タタリさんが消滅したという確証を持って報告したことで、やっと辞令が下ったのだという。
だからもう、この文書に書き足すことはない。これはフォルダの奥に、責任を持って封印する。伯父ですら気付けないよう、念には念を入れて、だ。
タタリさんに言いたいことは、最初から書いてある。結局僕は、それを抱えたまま生き続けることになる。
ファイル名は、『三日月タタリの解釈違い』。
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