第六話 名無しの解釈

「停学明け、おめでとう」

 ダダーで開店からランチタイム前までのアルバイト。タタリさんが現れるのはいつもこのタイミングだった。

 逆に言えば、それ以外で僕からタタリさんにコンタクトを取る手段は全くない。連絡先も教えてもらっていないし、そういえばタタリさんがスマホを取り出したところも見たことがなかった。

 なのであんなことがあってから数日、僕はダダーに再びタタリさんがけろりとした顔で現れるのを待ち構えていた。あの人のことだから――という期待と焦燥感で元からなかった仕事は全く手につかなかった。

 だが、タタリさんは現れない。

 代わりに今日、ダダーでのアルバイト最終日に顔を出したのは、顔を見るのも忌々しい社会のゴミ――僕の伯父だった。

 しばらくマスターと親しげに立ち話をしながら、僕のエプロン姿を横目で見ては口角を吊り上げる。恥辱に耐えていると、やがてマスターが厨房に下がり、伯父は有無を言わせず僕をいつもタタリさんが座っているボックス席に連れ込んだ。

 この男はどこまで僕を愚弄すれば気がすむのか――僕が湧き上がる怒りを顔に出せば出すだけ伯父を喜ばせることに繋がることを理解しつつ、どうしても表情は険しくなる。ここは、この席は僕とタタリさんの数少ない接点そのものだ。それを恐らくは承知の上でありながら、我が物顔で占有する。

「お疲れ様。月夜ちゃんは期待通りの働きをしてくれた。明日からはまた学校で肩身の狭いを思いをし続けてほしい」

 僕が黙って俯いていると、伯父は一つ溜め息を吐いた。

「オジサンの職業にはたどり着けたかな?」

 沈黙。この男にまともに取り合うだけ無駄だ。

「月夜ちゃんはオジサンの一端に、オジサンであることを理解して触れた。タタリちゃん以外では初めてのことだよ」

 なりふり構わず、憤怒の形相を向ける。この男が喜ぼうが知ったことか。僕の前でタタリさんの名前を嘲弄するのなら、絶対に許さない。

 だが、僕の憤怒は見る間に萎んでいった。顔を突き合わせた伯父は、愉悦でも嘲笑でもなく、痛恨の極みをその表情に浮かべていたからだ。

 これは僕にとって、全く考えられないことだった。伯父は破綻者であり、倒錯者だ。あらゆる苦痛、邪悪を勝手に悦びに変換してしまう。その伯父が、こんな悄然とした表情を浮かべることは見たこともないし、考えられなかった。

 だが僕が呆気に取られたのを見て、すぐさま普段のよこしまな笑みを浮かべる。計算の上――ではない。これは強がりだ。

「ちょっと思い出話を聞いてほしいんだ。オジサンとタタリちゃんの出会い――その話をするために、オジサンの職業の話をしないとならない」

 僕は沈黙で首肯する。

「『現代インターネット最悪の名無し』。これは謎かけじゃない。そのままの意味なんだよ。月夜ちゃんが知ってる中だと――」

 伯父はスマートフォンを取り出してなにやら操作し始めた。するとすぐ、僕のスマホに通知が届く。

 ダイレクトメッセージが届いていた。相互フォローになっていたが、互いに直接は絡んだことのない、BL界隈でよくバズる発言をするアカウントから。

 ダイレクトメッセージの内容は、アカウントのIDの羅列だった。

 そこで僕はまさかと伯父の顔を見る。

「そうだよ。そのアカウントは全部、オジサンだ」

 目の前に伯父がいることを無視して、僕はダイレクトメッセージに載せられたアカウントをチェックしていく。アニメ、アイドル、政治――とにかく人目につくことを意識したもののほかにも、なにげない発言、単純に面白い発言をするだけのもの。そのどれもが、僕の数百倍のフォロワーを抱えていた。

 だがなにより僕が目を疑ったのが、アカウントごとに「文法」が異なることだった。それぞれの文化圏に完全に溶け込むことが可能であるということは、それぞれの文化圏の文化やジャーゴンを完全に使い分け、別の文化圏には持ち込まないことにまで気を配らなければならない。伯父のアカウントは全て、それを完璧にこなしていた。

 傍目からは絶対に同一人物だとは気付かない。「文法」を変えているという点だけではなく、思想信条すらアカウントごとに使い分け、しかもアカウントごとに一貫性を持たせているという、全くの別人の思考回路を持っているとしか思えない状態だ。しかも、アカウントを間違えるというケアレスミスすら犯していない。

 正気の沙汰ではない。だが、伯父が単に承認欲求を得るためだけに、これだけのアカウントを管理するはずもない。つまり、まだ先があるのだ。

「最近起きた学級会っていつ?」

 ジャンル定義、カップリング定義、用語の意味合いなど、互いの意見が食い違うことでBL界隈で時折巻き起こる大論争。それを「学級会」と呼称することをこの男が知らないはずもない。

 そこで僕は伯父の言いたいことに気付いて目を剥いた。以前に紛糾した議論を巻き起こしたのはどこの誰とも知れないアカウントの胡乱な発言からだったが、それが槍玉に上がったのは、今ダイレクトメッセージを送ってきたアカウントがリツイートしたことに端緒を発する。少なくとも、僕の可視圏内ではそうだった。

「そういうこと。オジサンはそういうことをしてる。それぞれのアカウントのフォロワーの傾向は全てではないけどおおよそ把握してるから、どんな発言が燃えるかは手に取るようにわかる。晒し上げる必要はないんだ。目に見えるようにしてあげるだけでいい。隣接しているようで違う文化圏、同じコンテンツを扱うのでも民度が明らかに違う文化圏、あるいは全く別の文化圏。それら全てに足をかけているから、引っ張ってくるのは簡単なんだ」

 さも当然のように言っているが、とても正気の人間ができることではない。自分の嗜好も、民度も、見識も、意のままに違って見せる――それができているから、伯父のアカウントはどれも膨大なそれぞれの文化圏のフォロワーを抱えている。

「まあ、これは現状でのやり方でね。昔、まだ匿名掲示板やまとめサイトが力を持ってた頃はまた違うやり方だった。根本の考えは同じで、目立つ発言をするのでは駄目だ。必要なのは、『流れ』を見極めることだよ。憎悪が渦巻いているのならそれをさらに燃え上がらせ、落ち着いているのなら焚きつける。派手な言葉は必要ない。その流れを変える決定的な一打は、大抵意味のないひとことだったりする。コテハンもつけないし、粘着も単発の言い逃げもしない。どこにでもいる名無しのひとこととして、それが確実に作用するところで打ち込む。普遍的な虐殺の文法を見つけるより、その場その場の流れを操るほうがオジサンにとっては手っ取り早い」

 まさか――と僕の額を冷や汗が伝う。まさか現代のインターネットの悪しき文化が、この男の手によって育まれたのではないかという馬鹿げた疑念がよぎったからだ。

「おっと脱線しちゃったね。この前月夜ちゃんがフォローしたアカウントは覚えてる?」

 頷く。エディターの『能力者』周辺の人物を観測するために設けられた悪趣味なアカウント。

「あれもオジサンの仕事の一環でね。あまりにひどい人間同士のやりとりを可視化することで見世物興行をするというわけだ。ほら、漫画とかで金持ちが人間同士の醜い争いを見物するなんていうパーティーがあるだろう? オジサンがやっているのは、あれだ」

 タタリさんはあのアカウントを、伯父の持っている中で一番穏当なほうだと言っていた。

「インターネットでは日夜醜い争いが繰り広げられている。だがインターネットは広い。そこでオジサンは、その争いをキャッチして、望む人たちに見えるようにしてあげる。悪趣味な金持ちの中には当然インターネットに適合した人間もいるから、そうした人たちの間でこういうアカウントがあると情報が回ってるんだよね。基本的に承認制にして、観賞料はきちんともらっている。それに加えて、今話したやり方を使えば、それを自発的に起こせる。一番簡単で、見世物として面白いのはなんだと思う?」

 やめろ――。

。互いに異なる解釈の持ち主同士を自然な流れで衝突させ、両者――そしてそれに追随する馬鹿たちを争わせる。刺激的で、涙が出るくらいくだらない。オジサンはね、解釈違いを起こさせるための権謀術数は誰よりも上手いと自負しているよ」

 侮蔑の言葉も、怒りの言葉もなかった。この男には言葉をかける価値すらない。

「そのせいだと思うんだ。タタリちゃんがオジサンの前に現れたのは」

 伯父は大真面目な顔をして、特定はあり得ない――と断言した。

「個人情報に繋がる発言は基本的にしないし、したとしても、架空の人物像をあらかじめアカウントごとに設定してからだ。もちろん犯罪に繋がるような発言も皆無だから、相手が警察だろうが発信者情報を明らかにする口実も作れない。そのアカウント群を見たなら、理解できるよね?」

 確かに、伯父が明らかにしたアカウントはどれも、完全な別人だと認識されるだろう。多分それは、基本的に名無しで発言する場所でも徹底しているはずだ。

「本当に突然、タタリちゃんはオジサンの前に現れた。あんた、そんなにひどいことをするのが好きなら、タタリさんに手を貸しなさい――と、開口一番これだよ」

 タタリさんの口調を真似る伯父に、なぜか殺意は湧かなかった。タタリさんの口調というものは、自然とエミュレートしてしまう不思議な魅力があるのだ。

「そこでタタリちゃんは延々、オジサンの罪状を並び立てた。月夜ちゃんに教えた以外のどんな些細な捨てアカだろうと、全部把握しているんだ。タタリちゃんはそれから二時間は話したね。それでオジサンは、解釈人を隔離するならこの土師市がいいんじゃないかな、と提言しておいた」

 話が一気に飛んでいる。タタリさんが伯父の正体を突き止めたところから、解釈人の隔離――その間にタタリさんはなにを話した。

「解釈人を、最初から知っていたの?」

 無意識に重要なことを避けた質問をしてしまう。その空白に、とんでもない怪物が潜んでいるようで、怖気づいてしまった。

「うん? ああ、そういう連中がいるということには気付いてたよ。解釈人なんて馬鹿げた呼称はタタリちゃんから聞くまで知らなかったけど、結構な数を争うように仕向けてたみたいでね。それがきっかけで互いを認識し、解釈人として確立された連中もいたみたいだから、タタリちゃんに怒られたなあ。まあ全体で見れば頭数を減らすことには貢献してたみたいだけど、そんなことはオジサンにはどうでもいい」

「タタリさんは――」

「駄目だよ月夜ちゃん。月夜ちゃんはたった今、それをオジサンに質問する権利を失った」

 伯父の顔を食い入るように見る。軽薄な笑みを浮かべているようで、目の奥には燃えるような意志が宿っている――人間の表情とはこんなにもわかりにくいものなのかと、僕は今更驚愕した。

 言いたいことは痛いほどわかる。僕は怖気づき、逃げた。タタリさんの身に一体なにが起こったのか。それを聞きたかったのなら、伯父に真正面から質問を突きつけ続けなければならなかったのだ。これは伯父の悪趣味ではない。僕の覚悟を確かめるための問いかけだ。

「そうだなあ。月夜ちゃん、一体いつまで自分に解釈がないような顔をし続ける気だい?」

 ぐっと歯を噛む。僕の顔を見ての言葉ではない。僕がタタリさんと一緒にいたという過程を指差して、伯父は僕を追い込む。

「タタリちゃんはそんな顔をした人間の相手をしてくれるほど優しくはない。解釈がないだの、解釈を失っただの、そんなのは甘ったれの言葉だとタタリちゃんは言うだろうね」

 最初に会ったあの時、解釈違いを起こしたのなら、その上でさらに解釈をし続けるのだとタタリさんは言った。僕はそれに返答できなかった。そのままタタリさんの仕事に連れ出され、有耶無耶になったままだった。

 タタリさんに自分から頼んだ、僕を解釈してほしいという願い。タタリさんはそれに、僕が解釈の余地を獲得したら、と条件をつけて応じてくれた。

 僕は結局まだ、そこに至れていない。

 じゃあ、と言いかけて僕は口を噤む。僕がタタリさんに相応しい人間になれば、タタリさんがまたひょっこり現れる――そんな生易しい話ではないことはわかっている。

「そこで逃げたら、もう終わりだよ」

 伯父の言葉を信じてはならない。この男は真性のクズである。だが、なぜだ。

「なんで――そんな顔をする」

 苦々しく、僕は吐露する。伯父の浮かべる表情は、真剣そのものだったからだ。

 わかっている。この男は上辺だけならいくらでも取り繕える。それはあの無数のアカウントが証明しているではないか。普通の人間は僕とは違い、自分の意思で表情を変えられる。そんな基本的なテクニックを伯父が身につけていないはずがない。

 だが、この男は人を嘲り、馬鹿にし、唾を吐くことに、なんらかの矜持を持っているように思えてならない。たとえどれだけ重要な問題に直面しても、その表情には必ず嘲笑と侮蔑を浮かべ続ける――僕が知っている立待月日とは、そうした人間だった。

 伯父はすぐさま邪悪に破顔する。いつも通りの態度で、僕の質問を鼻で笑う。普段ならば僕がげんなりとして終わりだが、今はどうしても流せない。

「そうだよ。僕は逃げてきた。解釈違いだなんて叫んで、全てを放り投げて、タタリさんに――」胸からなにかがこみ上げるのを、気取られないように呑み込む。「タタリさんについていけば、どうにかなるんじゃないかとぼんやり思ってた。でも、僕は自分で考えなかった。解釈を放棄し続けた。それで、なにかが変わるんじゃないかと思い続けてきたんだ」

 もっと早く気付くべきだった。考えるべきだった。解釈を試みるべきだった。自分の愚かさを呪いながら言葉を吐き出していくと、面白いようにぼんやりとしていた思考が形になっていく。

「解釈なんてものは、自分で必死に考えることにほかならないじゃないか。自分から前に出なければ、自分の解釈を得ることなんてできない。口を開けてぼんやり待ってたら、他人の解釈を敷衍されるだけだ。僕はそれをおこがましくも、解釈違いだなんて言い続けてきた。ほら、また逃げてるんだよ」

 荒い呼吸で、僕は言葉を切る。客のいない店内には、僕の息遣いだけがずっと木霊し続けた。

「明日」

 まだ呼吸が整っていない僕に、伯父は労わるように声をかける。当然、その表情は邪悪に歪んでいる。

「最初の地点に立ち返るといい。難しく考える必要はないんだ。解釈なんてものはそんなご大層なもんじゃないし、貴賤も優劣もない。でも、逃げることは、もう許してあげないからね?」

 それだけ言うと伯父は席を立ち、マスターと二言三言話して店を出ていった。

「はい、じゃあこれ、今日までのバイト代ね」

 エプロンを外して帰り支度をする僕に、マスターは茶封筒を手渡した。気のせいでなければ、ものすごく薄い。

「えっ、あいつ、またなにも言ってないのか」

 僕が怪訝な顔をしたのを見て、マスターが驚く。僕はまた失礼な顔をしてしまったと慌てるが、同時にマスターの困惑にいやな予感を覚える。

「いやね、あいつがこれまでウチで飲み食いしてきたツケが溜まっててさ。代わりにかわいい甥っ子に身体で払わせるって言って立待くんを紹介してきたんだよ。三日月先生のお相手をしてる間の時給もちゃんとカウントしてるんだけど、あいつのツケの分を引いたらこれだけになっちゃったんだよね」

 あははと笑うマスターに、自棄になって笑い返した。笑えてない笑えてないとマスターが冷静にツッコミを入れる。

「いやホント騙したみたいなことになっちゃって申し訳ないんだけど、一応商売させてもらってるからこればっかりはねぇ。まあこれに懲りずに、お客さんとしてでもいいからまた顔を出してよ」

 どうせなにもすることがない状態だったので、アルバイトを受けたのも小遣いがほしかったというよりはなにかをしていたほうが気が紛れるかと思ったからだ。

 ただし、あの男、次に会ったら覚えておけよ――と、伯父が関わる事案に触れる度に毎回のように覚える殺意はそのままにしておいた。そのおかげというのも妙な話だが、僕は急激に現実という地に足が着いた感覚を取り戻していった。

「マスター、あの男になにか弱みを握られているようなら、僕が力になりますよ」

 僕が真剣そのもので言うと、マスターは呆気に取られたように笑った。

「いやいや、あんな奴に弱みを握られるほど、ヤキが回っちゃいないよ」

 驚愕に硬直する僕を笑顔で送り出し、マスターはランチタイムの準備のために厨房へと取って返す。

 そういえばこのダダーという店、分類はどうなるのだろう。喫茶メニューのようなものを出しているし、ランチ時は忙しくなると聞いているから、田舎の寂れたカフェということになるのか。

 気になって、僕はここで初めてこの店についてスマホで店舗情報を検索してみた。

 該当する店舗は、表示されなかった。

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