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憲法学者と舌戦を繰り広げるタタリさんは、すこぶる機嫌がいいようだった。
長老格の一角だという事前情報に加えて、「憲法学者」という肩書は、またも僕に不要な先入観を植えつけた。
夕方の居酒屋で仕事終わりのほろ酔いオヤジたちにご高説を唱えるのは、綿貫さんよりも若いフォーマルなスーツの男だった。
アカデミックな場の人間ではないというのはその粗野な言葉からすぐにわかる。憲法を学んでいるという自称さえあれば憲法学者を名乗ってもいいだろうという、学会が聞けば激怒しそうな理屈でこの男は生きている。
ただ、彼が解釈人であるという事実は相当怖い。しかも長老格ということは、解釈人が発生した初期に自らの解釈を大きく敷衍したことでお偉方に目をつけられたということである。
扇動に必要なのは適切なテクニックだ。知識は必要最低限のものを精査せずに恣意的に引用すればいい。そのほうが聞くほうは喜ぶ。
嘘を吐くのは安く、検証するのは高くつく。その莫大なコスト差を埋めているうちに、嘘は定着していってしまう。
圧倒的優位に立ち続けるためには、嘘の理念を吹き込んで味方を作ってしまうのが手っ取り早い。それをこの男は熟知しているようだった。
問題は、相手がタタリさんであるということだった。
全てを、ことどとくを、タタリさんは破却していく。男が先程まで繰り広げていた演説に駄目出しをしたかと思えば、どうやって調べたのか、男のこれまでの主張を片っ端から取り上げて、微に入り細を穿ちながら全てを否定していく。
長老格ということは、相手もタタリさんの存在は知っているはずだ。勝てるはずのない相手だと理解もしているだろう。
だが、タタリさんはこれまで長老格には手出ししなかった。その安心が、タタリさんと目が合った瞬間という、男の逃走する唯一の隙も潰してしまった。
結局、戦わざるを得ない。即座に負けを認め、逃げ出すという手は許されない。彼の敷衍した解釈は、これだけの衆人環視の中で逃げたという事実ができ上がった時点で瓦解する。そういう文脈になってしまう類いものを、彼は自ら広めてきたのだ。なによりそもそも解釈というものは勝負ではないので、タタリさんには勝ち負けという概念すらない。
タタリさんが行っているのは常に、解釈の解釈である。結果的に相手が敷衍した解釈をぶち壊しているのは、単にその解釈が脆弱すぎるせいではないかと思うことすらある。
「三日月先生、ここいらで一つ、手打ちといきませんか……?」
憲法学者は玉のような脂汗を浮かべてタタリさんにお目こぼしを願う。
「ワハハハハ!」
タタリさんは一笑に付すどころか、それでさらにエンジンがかかったようだった。
今日のタタリさんは、やっぱりなにか変だ。僕は先刻目にした幻覚――だと思う――を抜きにしても、タタリさんの調子がすっ飛んでいることに気付く。
楽しんでいるように見える。相手を解釈することにではない。エンジンを思い切り吹かし、崖っぷちへのチキンレースへ臨む際の高揚感――しかも一切ブレーキを踏むつもりもなく、勝利と同時に確実な破滅が待っていることを心底喜んでいるようにさえ見える。
相手ががくりと座敷に倒れ、呻くように呟く。
「解釈――痛み入ります」
今回僕の出番はなかった。やはり、タタリさんは一人でも長老格を解釈してしまえる。それも、大した手間も取らずに。
居酒屋から出ても、タタリさんは笑い続けていた。酒は飲んでいないどころか、なにも注文せずに出てきてしまったのだが、タタリさんは異様にハイになっている。
「月夜くん、月夜くん」
隣に並んで歩いているタタリさんに名前を呼ばれて、なんでしょうかと顔を向ける。
「あんたは本当に面白い顔だなア! よく見せなさい」
歩きながら、僕とタタリさんは見つめ合った。僕は緊張がやっぱりそのまま顔に出ていたのだろうが、タタリさんは満面の笑みで僕の顔を穴が空くほど見つめてくる。
目が回る――それは僕の心情ではない。タタリさんの両の眼球が眼窩の中で、ぎゅるぎゅると三六〇度全方位めちゃくちゃに回転しだしたのである。
「ああ、次は目がいきましたか」
白目を剥いたかと思えば、上下左右あらゆる方向から黒目が行き交い、見ているだけで正気を失いそうだった。
「大丈夫だ。しっかり見えとるから、もっとよく見せなさい。君の顔はえらいですよ」
わけがわからない中、僕は恐怖でも困惑でもなく、ただ純粋なそれを表情として出力していた。
笑い続けていたタタリさんが、水を打ったように沈黙する。
「そうか。うん、しょうのないことだね」
「違っ――」
「いや、ええんですよ。月夜くん、これだけは言っておかなならんのですが、タタリさんは、君に大層感謝しとるんですよ」
僕が顔に浮かべたもの。それは、僕の中における三日月タタリという存在と、目の前にいる相手との齟齬による、解釈違いそのものだった。
最低だ。自分の中の勝手なイメージと相手が異なるから、解釈違い――しかもそれは僕という人間の場合、表情として十全に相手に伝わる。それこそ解釈の余地も与えないほどに。
僕がタタリさんそのものを否定したと受け取られても仕方のない、あまりに理不尽な解釈違い。僕が解釈違いをこの顔に表したことで、これまで一体何人の人間を破滅させてきた。それをあろうことか、タタリさんに向けてしまった。
綿貫さんは――先程の居酒屋に残って事後処理中だ。ここで僕はさらに自己嫌悪に陥る。この期に及んで他人の助けを求めるのか。タタリさんと正面から向き合う勇気すらないのか――。
ごぼっ、ごぼっと音がする。水中で大声を上げるようなその音が、僕の名前を呼んでいるのだと気付く。
タタリさんは地面に立ったまま溺れていた。髪の毛は重力からひと時解き放たれたように茫洋と広まり、なにか――僕の名前だ!――を叫ぼうと開けた口からは、無為に空気の泡が溢れて宙へと浮かんでいく。
「タタリさん!」
はっとして僕はタタリさんの身体を掴もうとする。これはよくない。わけがわからないが、とにかくよくない。
僕は目の前で起こる事態に混乱し、恐怖していた。それは間違いないし、否定できない。だが、それは絶対に、タタリさんを否定するということではない。
僕はタタリさんと一緒にいたい。タタリさんによって解釈されたい。
ならばタタリさんが危機的状況に陥っているのであろう今、僕がやることは、それを助ける以外にないだろうが。
僕の伸ばした手は、あっさりと空を切った。タタリさんはそこに立って、ぶくぶくと溺れている。だが、僕の手も、身体も、声も、そこに届かない。
本当にタタリさんが目の前にいるのかさえ、わからなくなってきていた。ぐっと目に力を入れる。まばたきをした途端に、そこにはなにもなかったことになっていそうで怖かった。
大きく泡が上がる。タタリさんが口を開いた。目の回転が止まっている。一点をじっと見つめるその視線を意識して受け止める。
連続して泡が上がった。タタリさんが笑ったのだ。僕の顔を見て、満足げに笑った。
最後に、フハッ、と息が漏れた。それを僕が理解すると、三日月タタリは消えていた。
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