第10話 平凡なギターと奇妙なステップ、やがて鯨の骨

 おそらく30年くらい前の話。このマンションがまだ個人所有のマンションだったときの話。夏のように暑い冬のある日、ギタリストの男とダンサーの女がマンションに住み始めた。叩いたら割れてしまいそうなほどの胸の辺りまで髪を伸ばしたその男はひどく神経質な目をしていた。彼はギターを弾いていないときにはいつも、短く刈り込まれたベリーショートの女の右手を握っていた。空いた右手にはいつもタバコを持っていた。女はとても華奢な体つきをしていて、行き場も無く繋がれていない左手を申し訳なさそうにいつもポケットに突っ込んでいた。彼は彼女のためにギターを弾き、彼女は彼だけのために踊った。彼女は奇妙なステップを踏んだが、それはかえって彼の平凡なギターの音色を何かしら特別な意味合いを含んだ響きへと変えていた。

 日暮れ時を迎えると、彼らの部屋からは決まってギターの音色と奇妙なステップが漏れ、扉を浸透しすり抜け、マンションのフロアを満たした。冬の静けさを溶かす太陽の日差しのように暖かく、それでいて春にそよぐ風のようなある種の名残惜しさを持って響いた。生命力に満ち満ちた小動物のように朗らかで、枯れゆく運命から逃れることのできない大樹のような哀愁を含んだステップだった。

 最初のうち、マンションの住人は、奇怪な彼らと距離を置きなるべく関わらないようにしていた。しかし、彼らの奏でる音楽は住人達の荒みきった心を癒した。やがて、毎週土曜日の日暮れを迎えると屋上でささやかな演奏会(それは、オアシスと呼ばれた)が開かれ―


「ちょっと待って、うちのマンションなんかに屋上なんてあったっけ?」

「あるわよ。どのマンションにだって屋上はあるものでしょう?」、ケイラは口をすぼめ、信じられないわとでも言うように僕をにらむ。その姿は小さなアヒルの、小さな嘴のように映った。

「でも―」

「うるさい!質問せずに最後まで聞いてちょうだい」

 僕は根を張った日陰の植物みたいに口をつぐむ。僕らはランドリールームのソファに並んで腰掛け、乾燥機が洗濯物を乾かすのを待っている。


 マンションの住人は、気の抜けたぬるいビールを飲みながら、その不思議なデュオの奏でる音楽を感じ、その招待状もない演奏会に心を委ねた。しかし日常は途端に壊れた。彼女は忽然と姿を消した。彼のギターは平凡さを取り戻し、誰の心をも癒すこともなかった。住人たちのオアシスは蜃気楼の彼方へと消えてしまった。後に残ったのは行き場の無い憤りだった。最初のうちはいつか彼女が戻ってくるだろうと信じていたが無駄だった。ギタリストだけが彼女は失われてしまったことを、確信に近い形で知っていた。

 住人たちは彼をひどく責め立てた。そして、彼もまた何処かへ消えた。死んだとも、殺されたとも、色んな噂が流れた。ただ、彼の部屋にアコースティック・ギターがぽつんと取り残されていた。日光に反射したが深海のプランクトンみたいにギターの上を漂っていた。


「ギターは、深い海の底の鯨の骨みたいに押し黙ってね」

「とても詩的な表現だね」、思わず口に出してしまった。

「ありがとう」、今度は彼女は怒らなかった。「それで、秘密というのはね、当時のマンションの住人達はこのギターをどこかに隠したみたいなの。このマンションのどこかに」

「平凡なギターを?」

「ギターは平凡じゃないわ。平凡なのはギタリストの方だったの」

「そして音色を特別なものにしていたのは、ダンサーのステップか」

「そう。ねぇ、一体どこに隠されているんでしょうねぇ。伝説のギター」

 少し考えてみた。だけれど答えは出なかった。元・ウィークリーマンションなのは知っていたけれど、それよりも前に誰かが個人的に所有していたというのも耳に新しい情報だ。

「わからない。そもそも、やっぱり、屋上なんてあるのかな。あってもそこへ辿り着くための階段とか、一体どこにあるんだろう?」

 乾燥機が止まった。カゴに洗濯物をいれている間中、ずっとケイラは押し黙ったままだった。衣服がこすれる音や自動販売機かなにかの発する機械音だけが、ずっと僕らの間の沈黙を埋めようと躍起になっているような気がした。

「たぶん、気まぐれに動き出す階段みたいなのがあって、それが屋上へと導いてくれるのよ、きっと。そして秘密の扉があって何か大事な合言葉が必要なの」ケイラは、普段からは想像もつかないくらい幼く、そして何かに怯えた表情で答えた。

「ホグワーツみたいに?」

「ホグワーツみたいに。きっとそうね。信じてくれないの?」

 このマンションにあるどの階段も12階より上には続いていない。彼女は僕を見上げた。下ろした長い前髪の隙間から一対の瞳が見えた。

 僕は黙ったままだった。洗濯物でいっぱいになったカゴを持ったまま、彼女の眼差しを受けていた。

「あなたは何かを無条件に信じるべきよ」暗く、そして何かに傷を入れるみたいに鋭い声が聞こえた。瞬間、洗濯カゴは下から突き上げられ、宙に舞った。僕の視界を色褪せたシャツや、ごわごわしたバスタオルやなんやかやが占めた。ケイラが下からカゴをひっくり返したのだ。哀れな洗濯物は押し黙ってあたり一面に散らばった。

 ケイラは、ランドリールームを去ってしまった。僕は、彼女をがっかりさせてしまったし、悲しませ、怒らせてしまったようだった。

 部屋に戻って洗濯物をたたみ(時折、衣服についたを取り払いながら)、お気に入りの靴下の片方がなくなっていることに気がついた、しかし、それよりももっと大事なものが失くしてしまった気がしてとても悲しい気持ちになった。




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ブロークン・ウィンドウズ 尾田わらば @waraba_poplar

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