第9話 巨人の墓標に灯りをともす

「僕はそろそろ帰らなくてはならないみたいだ」

「どうして?家で誰か大切な人でも待っているの?」

 僕は押し黙って、彼女の右目の下あたりを注意深く見つめた。ケイラは僕にとって大切な人なのだろうか。よくわからなかったし、それよりは、「宇佐木が少なからず死を考えている」という非現実的な事実から目を背けたい気持ちでいっぱいだった。

 とても奇妙な時間が僕らの間に流れた。

「図星なのね。冗談のつもりだったのに。いいわ、ここでお別れとしておきましょう。それよりも忘れないでね。ウサギくんのこと気にしてあげてね。さっきも言ったけれど、妙なのよ、彼」まるで触れてはならないものに触れてしまったような後ろめたい眼差しで僕を見つめているようだった。

 深夜に宇佐木が僕を夜の川に誘ったのには何か明確な意図があったのだろうか。確かにあそこには死の気配みたいなものは感じられたけれど、それが宇佐木の意思とつながっているのかはいまひとつ自信が持てなかった。いつもおちゃらけた態度のあいつが死ぬことを?ばかばかしい。どこにファクターがあるというのだ。

 もういちど、町田しおりに別れを告げようとしたときにはもう彼女の姿は僕の左側にはいなかった。彼女の影を追うにしても、あたりはもうすっかり暗くなって夜と呼べる時間になっていたし、会社帰りの人々で辺りはごった返していた。周りの商業ビル群は巨人の墓標のように空に向かって依然としてそびえていて、どのフロアもまだ明かりはたくさん点いていて、何人かの会社員が作業をしているのが見えた。我々は、巨人の遺体の上に作られたその巨大な墓標の中に明かりを灯し、そこを住みかとした。なにかの詩の始まりみたいだ。

 僕はもう一度横断歩道の向こう側を過ぎる同じマンションに住む痩身の少女を探そうとしたが、彼女の姿ももちろんもういなかった。

*            *             *


マンションに帰り着くと、共同玄関横のベンチで、ケイラがハリー・ポッターの第七巻を読みふけっていた。頭上のライトが彼女を照らしていた。光の加減なのかは分からないが、目の下にくまがあるように見え、ひどく疲れているように見えた。

「どうしたの?鍵でも忘れたの?」

ケイラは首を振った。

「あなたがそろそろ帰ってくるんじゃないのかしらって、ここで待ってたのよ。さっきあなた、女の人と一緒だったでしょ?彼女、とてもキュートだったわね。ガールフレンド?」まるで、水面に小石が落ちる音のように彼女の発する一言一言は空間に吸い込まれていた。だのに、彼女は彼女も持てる表情筋すべてをフル活用して笑顔を取り繕った。彼女の言葉と表情との間に差があって、まるでお粗末な腹話術でも見ているみたいだった。それでなんとなく彼女の言葉の意味を捉えるのに少し時間がかかった。

「たしかに彼女は可愛い人だけれど、僕のガールフレンドじゃない。どちらかというと僕の相棒のものだよ」

「ウサギさん?」

そうだ、と僕は答え玄関のカギを開けた。そして彼女に先に入るよう促し、エレベーターのボタンを押すことまでしてあげた。

「あら、階段じゃなくていいの?エレベーター苦手なんじゃなかった?」

「そうだけれど、君がひどく疲れているように見えてさ。今にも消えそうな感じさ。そういうときはなるだけ誰かが支えてあげなくちゃならない。そのはずなんだ」どこからそういった言葉が湧き出たのかは分からないが、誓いにも似た、僕なりの意思表明であった。そういった後でなにか形容し難い感情が僕の心臓をきゅっと掴んだ。

「ふうん」と彼女は、明朗な歌のイントロを奏で始めるみたいに鼻を鳴らした。

 しばらくしてエレベーターは降りてきた。一対の蛍光灯の光度は低く、ときおりうたた寝でもするみたいに片方の灯がしぼんだ。扉が閉じてしまうと、外の世界と断絶されてしまったかのように思えた。周りの温度は一度か二度、低くなり、今自分がどこにいるのかも上手く自信が持てなくなっていた。確かに上の階へのボタンを押したはずなのに、何か生暖かく、それでいて冷ややかな―肝の冷めてしまうような―気分がした。なにか怪物か巨人の胃袋に飲み込まれてしまっているのではないのか。そう感じた。

「エレベーターって、まるで棺おけみたいね。あなたがエレベーターを怖がる理由ってそういうようなものでしょ?なんとなく、嫌な感じ」

そうかもしれない、とだけ言って僕は口を固くつぐんだ。

何かが僕の手に触れ、それから指を掴んでいる感覚があった。

「ほんとに大丈夫なの?ひどく震えてるわよ。なにか幽霊を見たか、それにとりつかれでもしたのかってぐらい」彼女の細い指がぎゅっと僕の人差し指を握るのが分かった。温かい体温が僕に伝わり、僕の血脈を温め、さらにその温められた血液が心臓や脳みそを解凍していくようだった。

「ありがとう、もう大丈夫。君を支えるって言ったのに、その逆になってしまったね」僕は努めて微笑もうとした。

「いいのよ。お互い様だから。それより後でこのマンションに伝わる秘密を教えてあげるわ。洗濯物を持ってランドリールームへいらっしゃい」

「秘密?」僕の部屋のある階へ着き、扉が開いた。

「そうよ」彼女は言いながら、僕を向こう側に押し出した。扉が閉まると彼女はバイバイと言いながら―唇の動きがそのような感じだった―手を振った。


 たぶん、町田しおりが言ったように、ケイラは大切な存在であるように感じた。もうそう言っても差し支えあるまい。そしてケイラに誓ったように誰かが消えてしまいそうなときは、誰かが支えてあげなくちゃならない。その誓いを今、宇佐木にも立てなければならないと思った。それで、この心臓をぎゅっと握りつぶさんとする名も無き感情に別れを告げることが出来るだろう。

 誰かが誰かを支えてあげなくちゃならない。意外に不安定なんだ。僕らは。

 つつましい部屋へと帰ってきた。

 おそらく、この十二階建てのマンションもまた、巨人の墓標のように夜空にそびえ立っているのであろう。そこに穴を掘って灯りをつけ、我々はここを住みかとする。気障な短い詩の出来上がりだ。

 

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