第8話 俺と俺の猿以外、みんな秘密を持っている
僕らはちょうど太陽が駅前のテレビ塔に貫かれていくのを目の当たりにしながら、西のほうへと歩みを進めた。西の方を進んだとはいえ僕らに明確な行き先があるとは思えなかったが、彼女は僕より常に半歩ぶんほど先を歩いた。それは有無を言わせない足取りでとても頑なな歩みだった。僕は遅れをとらないようにと努めるのだが難しかった。彼女は僕に話があるものだと思っていたのだけれど、僕の見込み違いだったのか。彼女は僕の存在をこの数分の間に忘れてしまったのだろうか。僕は諦めて、数歩先の点字ブロックを常に目で追いながら、たまに視界の端の方で西日を乱反射する彼女の右耳の二つのピアスのちらつきを確認しつつ歩いた。そのちらつきはモールス信号のように瞬く。彼女が右耳に飼う一匹のミーアキャットが何かを伝えようとしている。言葉にならない言葉で。だが僕には意味を読み取れないでいた。すると、彼女の少し伸びた髪の毛の下にその身体を沈めるのだ。時折そよ風がその小動物の姿を暴いた。何か適当な話題でも見つけて話しかけようかとも思ったが、彼女の右耳が言わんとすることを読み取るまで押し黙っておいたほうがいいような気がした。
「ねぇ、最近ウサギくんと会った?」
ようやく彼女が口を開いたのは、太陽がもうすぐその身体を地平線に沈め交わろうとしている時になってからだった。ビル群はオレンジ色と紫色の背景にその厳かなシルエットを浮かび上がらせていて、僕にはまるでそれら一つひとつ名のある誰かを偲ぶために建てられた巨大な墓標に見えた。
「うん。川を散歩したよ、昨日の真夜中に」
「なんか特別なこと話した?」彼女は相も変わらず前だけを見据えて歩いた。その横顔からはうまく表情をつかめない。
「特別なこと?だいぶ酒を飲んでたから思い出せることはそう多くはないんだけれど」、僕はしばらく押し黙って記憶の道筋をたどった。そして僕らが話すことはあまり意味を成すようなものが多いわけではないのではと、ふと感じてしまって少し物悲しくもなった。特別な話など、とりたてて僕らの間には一つとして存在しないように思えた。
「川に溺れたときの対処法の話とかかな。抵抗せずに流されちまえば、南の島で美女に会えるとかなんとか」やっと思い出せたのはその程度のことだった。
「ウサギくんらしい突拍子もないわけの分からない話ね」
「なにしろとても酔ってたんでね」宇佐木のフォローになっているのか分からないが弁明だけはしておいた。僕らは、普段ならとても特別な話をしているんだよ、と。ただそれは朝起きたときに失われてしまう哀れな夢の断片のようなものなのだ。
「ねぇ、あなたは正直なほう?」
「できるだけそうありたいと思ってるよ」
「ふぅん。でも私にはあなたが何か秘密を隠しているように思えるわ。あるいはウサギくんがあなたや私に何か秘密を隠しているように思う。思うというより感じる。あまりにスピリチュアルすぎるけれど。悪く言うつもりじゃないのよ」そう言って彼女は、夕日を浴びて黄金色に輝いた唇の端をあげた。僕は僕で自分の中に秘密らしい秘密などあっただろうかと、眉間に皺をよせた。そしてやはり何一つ秘密などなく隠すべきことなど持ち合わせていないことを確認した。ただ、頭の中でいろんなものが整理されないまま散らかっていることだけは理解できた。そして、宇佐木のことを改めて考えてみた。言ってしまえばあいつは掴めないやつなのだ。なにか秘密を持っていたとしても不思議ではない気がしたし、僕はその秘密にいささかの興味も持ち合わせていない。
「ここ最近、なんだかヘンなのよ。前にも増してってことだけど。死ぬことについてどう思うかって聞いてくるの。まぁ、彼は夢見がちだからその延長線上で、好奇心の思うまま聞いてきたんだろうけどね」
「なんて答えたんだい?」
「言ってやったわよ。死ぬってんなら、今がまさにそうだって。今まさに、どんどん歳を取って、お肌のつやもなくなって、目も悪くなって、背骨もだんだん曲がっていってるの。あなたのご自慢の金髪もきっと色褪せていくでしょ、って。電気代とか水道代とかしょうもない請求書の束に追われながらずっとずっと生きていくのよ。ヘンなこと聞かないでったら。生きるのも大変だってのにそれ以上のことを聞いてこないでバカって、笑い飛ばしてやったわ。死んだって天国なんて甘っちょろいこと言わないでよね。今が生ぬるい地獄みたいな世の中だからって天国に期待なんかしないで!って。黙ってレポートでもやりなさいって思わず叱っちゃったわ」
彼女の右側の表情を見てみるに笑っているようだった。実際に声を上げて笑っていたし、白い歯がその甘美で瑞々しい唇の隙間から顔を覗かせていたし。だけれど、僕が見ているのは右側の表情だけだ。もしかしたら左側では一筋の涙があの井戸のように深い瞳の奥底から湧き出ているのかもしれない。正面から彼女を見て、彼女がやっぱり笑顔でいることを確認出来ないままでは彼女が持つ二面性の存在を否定することなどできない。あるいは、正面から彼女を見つめたとしてもやはり二面性は彼女の表情に表れていて、僕は恐れを抱いてしまうかもしれない。そもそも人の顔とは左右非対称で成り立つものである。彼女こそ、その薄い色素の肌の下に秘密を隠し持っているのかもしれないな、と僕は傲慢にも思った。その傲慢さが、彼女が持っているかもしれない秘密に対する恐れへの震えを締め付けることのできる縄であり、コントロールすることのできる唯一の手綱だった。
いつの間にか陽は落ちて、淡い夜が誕生していた。向こうの方に銀白色の月が見える。
「ねぇ、さっきの正直者かどうかって話だけど。あなたはきっと、少なくとも人の秘密は守るし、嘘を信じてくれるような人よね。それで、たぶんそれってとても素敵で優しいことだと思うの」彼女は髪の毛を耳にかけた。おかげで、右耳のミーアキャットが僕の前に顔を見せるわけだけれど、辺りが暗くなってなおその二つの眼を警戒心を解かずにギラギラと光らせていた。
信号を待っていると、向かいの地下鉄の駅の入り口から、ケイラらしき女の子が出てくるのが見えた。バレエ教室の帰りなのだろう、手提げ袋を持って家路を歩いていた。それで、なんとなく僕も家に帰らなくては、という思いに至った。
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