第7話 影を切るはさみなんて持っていない
その大きな川は海の方へ向かって静かな音を立てて流れている。静かではあるが、何か確かな狂気めいたものを孕んでいるような、ザァザァといった音が暗闇を這っている気がする。僕と宇佐木は最寄のコンビニでビールを半ダースばかり買って、特にいくあてもなく、二人並んで飲み歩いた。まわりはとても暗く、眠りついた遠くの繁華街は空を照らすこともない。おかげで何十億光年か先の星々は遠慮なくその命を燃やしている。こんなにたくさん星が見えるんだなと半ば感心していた。
「なぁ、君は泳ぐの得意だっけ?」宇佐木は早くも四つ目のビール缶を開けながら聞いた。
「いや、あんまりだなぁ」バタフライは泳げない。平泳ぎはぎこちないが、クロールだったらそれなりに泳げる。はずだ。もうしばらくまともに泳いでなどいないから、もしかしたら僕が思う以上に水を捕らえきれないかもしれない。
「俺はさ、歌なんか歌わせたらそりゃもうヘタクソなんだけどさ、泳ぐのは幾分得意なんだぜ。このくらいの川の流れだったら目を瞑っていたってこっちの岸からあっちの岸まで泳げるね」手前のゆらゆらと風に揺れているゴーストみたいなシルエットの木から、向かいの河川敷につくられた公園あたりを指差した。「競争してみるかい?」不敵な笑みを彼はその、暗闇に不気味なほど浮いた肌の白い顔にみせた。
「ばか言ってんじゃないよ」
身体が水に支配されてしまう瞬間を想像してみる。速すぎる水の流れに埋もれていく。もがけば、もがくほど深く沈み、水かきさえない指の隙間から水がすり抜けていく。息を吸いたいのに肺を満たしていくのは水だ。そしてそれは死に等しい。そして死と同じ味がするのだろう。やがて川底に沈み、浮かび上がれないほど僕を押しつぶすのもまた水だ。川の流れそのものであり、それもまた死だ。命一個分の重さが身体全体にのしかかっていくるのだ。そのときどんなことを思うのだろう。きっと身体から意識が離れていくのを感じるだろう。その言うなれば魂のようなものはどこへ流されていくのだろう。
「じょーだんだって。不安そうな顔すんなって」そんなに深刻な顔をしていたみたいだ。僕はすっかりぬるくなったビールを飲んだ。だいぶアルコールも回ってきたようだ。
「俺はな、溺れない対処法知ってんだ。なんてことはない。仰向けになってそのまま流されていけばいいのさ。流されて、どこまでも流されてきっと南の島までもいけるさ。そうだな。そこでキツネ色にこんがり焼けた金髪の女に出遭うんだ。」
「ちょっと待てよ、変な話つくってんじゃないよ」
「まあ聞けって。彼女はやたらスタイルのいい女で、とても健康そうに見えるんだ。そして、ぷかぷか流れてる俺に行き先を聞いてくる。俺はわからないって答える」
「ほんと、どこにも流れ着かない話だよ。もう飲むのやめておけよ。酒弱いんだから」
「あぁ。すまん。ちょっと、飲みすぎだ」そう言って、宇佐木は草むらに吐いた。
宇佐木はこの話で何を伝えたかったのだろうか、僕は真意も掴めないまま、すっかり酔いつぶれてしまった彼に肩を貸した。それから、河川敷へと降りていく階段に宇佐木を座らせた。星達は依然として輝いていて。頻繁に瞬いた。まるでモールス信号かなにかのように、数十億光年先から何かを伝えようとしているみたいだ。
川もそうだ。獲物を周到に狙う大蛇のように流れている。月光に照らされる小波が頻繁に光って鱗のようだった。そしてどこかに暗闇にすっかり同化した瞳をかくしているはずだ。僕は目を凝らしてそれを見つけようとした。どこかに確実に死が隠れている。そしてそいつは、僕らを飲み込むチャンスをうかがっている。
いつか飲み込まれ、その体内で時間をかけゆっくりと消化されるのかもしれない。
しばらくして、地平線の向こう側から太陽が昇ってきた。夜のしじまをじわりじわりと焼いていく。鳥がいくつかの持ち歌のうちのひとつをさえずり始める。街を血管のようにはりめぐる道路や路線をそれぞれの役割をもった人たちを載せた鉄の巨体が運んでいく。生きた血流が街をめぐる。だからじゃないが、ひとまず僕らは飲み込まれることはない。少なくとも今日ではない。
* * *
町田しおりから短い電話があった。最近僕の周りの人たちは(数えるほどしかいないにしろ)こぞって僕に電話をかけてくる。
「ねぇ、今日の午後空いてる?暇なら、エルムなんちゃらカフェに来て。そうね、お昼二時ね」
「かまわないよ」少し痛む頭をさすりつつも、あまり考えずに答えた。そして電話を切った。
時間ちょうどに「エルム・メインストリート・カフェ」についた。ガラス張りの外観に店内の様子は一望できた。メインストリート側のカウンター席に座る幾人かの学生達は、ショウウィンドウのマネキンのようにも見える。店内の奥のほうに町田しおりの姿が確認できた。彼女は、店の外で突っ立っている僕に気付くと顔をくしゃっと崩して手を軽く振った。僕は右手を挙げて返事を示した。
彼女が勘定をして、外に出るまでの間、ズボンのポケットに手を突っ込んで足元の小さな蜘蛛の行方を見守った。周りに頼るべきビルも植物もない。それゆえ彼は、歩いて旅をするしかない。糸を吐き出す壁はない。西陽が僕の足元に長い影をつくり始めている。影の中にとらわれた蜘蛛はなぜだかその日陰の中を行ったり来たりしていた。
財布もまだ持ったまま、店内から出てきた彼女は、驚かせようという魂胆からなのか、そっと近づき、僕の背中を押した。彼女が近づいていることは、地面に伸びる長い彼女の影が教えてくれていた。
「あれー、全然びっくりしないじゃん」彼女はわざとらしいくらいに膨れっ面で言った。
「だって君が来るのは影でわかったからさ」
彼女は鳴らない指パッチンをして、腕を振った。悔しそうに。
「今度あなたを驚かすときは、影をちょん切ってくるわ」
「カゲを切るはさみなんて僕は持っていないからね」
「いいわよ。自分で探すから」彼女は何かを見透かすように、ニヤニヤ僕のほうを見ながら言った。こんな短い瞬間に彼女はいろんな表情を僕に見せる。
「まぁいいわ。歩きながら話しましょ」
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