第6話 彼女が踊るとき、彼女だけの大切な世界が回り始める。
ケイラは「謎のプリンス」を閉じた。何かに終止符でも打つみたいに。本が閉じられた音が嫌にランドリールームに響き渡り、粘着質にいつまでも漂っている気がする。ケイラはまるでその音のカケラみたいなのが引っかかっているの、とでも言いたそうに額にかかる長い前髪を細い指で払った。
「あのホグワーツみたいなお城で何を勉強しているの?」彼女は斜めに首をかしげて尋ねた。
「自由貿易協定の経済的環境的影響評価」わざともったいぶって答えた。
「そこに魔法なんてこれっぽっちもひとかけらもなさそうね」人差し指と親指で輪っかをつくり、その指の隙間になにかを見ようと躍起になりながら彼女は言う。
「誰を幸せにするでもない研究だよ」
「それでもあなたは学校に行くのね」
「仕方ないよ。学費は無駄には出来ないし、それに退屈さを学ぶというのが一番の勉強になったりもする。誰を幸せにするか、なんてことは二の次さ」
彼女は、「ふ~ん」と鼻を鳴らして、しばらく僕の言った言葉について考えているみたいだった。
「いまさらなんだけどさ、君は学校はどうしてるの?」
「行ってない」短く答えた。その言葉も粘着質に部屋を漂っている気がする。
「ある日、突然行きたくなくなったの。ここじゃ私が知りたいことのひとつも教えてくれないって。私が知りたいのはきっと、誰かを不意に幸せにすることの出来るなにかよ。でも、そのなにかを先生に聞いてみたって、うんともすんとも言わないの。それで私は不機嫌になるの。一日中眉間の間に皺をよせて。一生皺が取れないんじゃないかってくらいにね。その日の、昼休みの間に家に帰っちゃったわ」
「親御さんは?学校だってそんな勝手を放っとかないだろう?」
「ええ、最初のうちはね。みんな家のブザーを鳴らしたり、私の部屋のドアを叩いてたけど、いつのまにかパッと止んじゃったわ。この子はもう聞かないって、あきらめたんじゃないかしらね。お母さんは朝から晩まで出かけていて、私が眠る頃に帰ってきて起きる頃にはもういないの。かれこれ一年くらいまともに顔も見ていないわ。それで、私は私だけの服を洗濯するの」
「友達は?」
「あなたで二人目よ。あなたでじゅうぶん幸せよ、私」ケイラは髪を耳にかけてそういった。彼女の右耳の先はウサギの目のように赤くなっている。当時の僕は、その色が持つ意味を推し量るのに、少なからず戸惑いを感じていて何も彼女に言葉をかけてあげることも出来なかった。
「それで、話の続きなんだけれど」赤みが引いてきたのを触って確認した後彼女はまた自分について語り始めた。
「私ね、誰にも内緒でバレエ教室に通っているの。町外れの小さなところ。小さな細身のおばあさんがやっている小さなバレエ教室。四十分かけて電車に乗って、3時間レッスンして、それからまた四十分かけて帰ってくるの。ちょっぴり疲れた顔しながらね。あれはまさにくたびれたアヒルそのものね。でもね、私気付いてたのよ、踊るのがすきだって。ねぇ、それにそこそこ上手なのよ?」
「そうだろうね、想像できるよ」彼女はとても痩せて見えた。白く細い指先、ぴたりと張り付いた細身のジーンズ、きらめくつやのある足の指先、今は大きなパーカーに覆われているものの、きっとそこには柔軟な身体が隠されている。そしてきっと、小ぶりな胸が彼女にとって大事な宝物のように横たわっているのだ。彼女が踊るとき、彼女だけの大切な世界が回り始める。
「ちゃーんと想像できてる?」彼女は唇をすぼめながら聞く。
「うまく想像できるよ」、たぶん出来ている。「それで、何を踊るの?」
「白鳥の湖。夏休みが明けたら小さな発表会があるの。ねぇ、見に来てなんて言わないわ。応援してくれるでしょ?踊りくらいしか、私に取り柄なんてないのよ」
「もちろんだよ。言ってしまえば、僕には君を応援することしか取り柄がないからね」
彼女は満足そうに笑った。誰かを幸せにする方法、それはまるで魔法のようだ。彼女はきっとすでにその魔法を知っているはずなのに。
「そういえば、君が使ってるの男用の洗濯機じゃないの?」僕はレポートをしなくちゃならないからと、一足先にランドリールームを出るとき少し気になっていたことを聞いた。
「ほんとね。でも、どうだっていいじゃない」彼女は八重歯のとがった白い歯を見せて笑った。たんぽぽの綿毛のように白く、それはパレットの色では表しようもなさそうなほどの白さだった。
* * * *
短い夢を見た。そこは白い部屋で、中央の背のついた椅子にセイウチのように丸々太った男が縛り付けられていた。頭は酷く禿げ上がっていて、むき出した歯は数本しかなく、黄色く汚れていた。歯茎は経年劣化して使い物にならなくなったゴムみたいだった。床には多くのカタツムリが這っていて(幼い子供の拳くらいはあろう)、部屋の右から左へ隊列を成して移動している。男の目の前には赤いハイヒールだけを履いた、やたらグラマラスな全裸の女が立っている。ヒールの先で一匹一匹殻の上から突き刺している。まるで硬い氷を砕く鋭利なアイスピックのように。その殻がはじけ、その身に深くヒールの突き刺さる音が快感なのか禿げ頭のセイウチはニタリと笑う。哀れカタツムリ。女は与えられた自分の仕事をこなす、それも淡々と無表情で。
僕は丸いテーブルに座り、その繰り返される一部始終を見守っていた。テーブルは白いクロスで覆われており、添えられた銀製のナイフとフォークが鈍い光を放っている。中央の皿には、羽が無常に毟り取られた鳥のむくろが横たわっている。どうすればいいのかと女の方を見ると、深く黒い瞳を皿の上の哀れなむくろに差し向けた。さしずめ、僕に与えられた仕事はその鳥を食すことにありそうだった。
後から小さいビー玉を詰め込まれたみたいな目が僕を見つめる。ナイフを突き立てると血が溢れ出した。皿から溢れ返り、テーブルクロスを染めた。ボルドーの赤ワインのようだ。僕がその哀れな鳥のぐちゃぐちゃになった中身を口に運ぶと、女は目と唇の端の方で微笑んで見せた。そのぐちゃぐちゃは、ひどい臭いとひどい味というのを僕に覚えさせるには十分な出来だった。しかし、女が微笑みの後で一筋の涙を流すので、僕はもう一度そのぐちゃぐちゃを口に運んだ。この女を悲しませてはいけないと思って。赤い血がしたった。そして、女は微笑み、泣く。そして陶器のような白い歯を見せる。
だが、セイウチはこの状況を良しとしなかった。恐ろしい形相で僕と女を交互に睨んだ。その醜悪な表情に女は困惑したのち、かためられた石膏像のような表情でカタツムリつぶしを再開した。男の顔が瞬時に緩み、歯を剥き出す。そんな具合だ。
目が覚めたとき、ひどく汗をかいていた。シャツは、ぴたりと背中に張り付いている。僕はそれを脱ぎ捨て、洗濯カゴに投げ入れた。たった今生まれた新しい皮膚のために脱ぎ捨てられた、哀れな薄皮のような何かを僕に印象付けた。
シャワーを浴びているとき、夢で見たこぶし大のカタツムリが身体を這う感覚があった。僕はそのぬめりのようなものが落ちるようにキメの粗いタオルで身体を必要以上にこすった。
ヒリヒリと痛む背中を拭いていると、電話がかかってきた。深夜二時半。宇佐木からの電話だった。
「夜の川を見に行こう」
脈絡のない誘いだったが、僕はその誘いにのることにした。どうせ、もう一度眠ることなんて出来やしないのだ。
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